第1話 その手を知っている
最後に見たのは、剣ではなく、手だった。
私の肩から髪を払った、黒い手袋。その親指の付け根には縫い直した跡があった。雨を吸った布が首筋に触れて、私は息を止めた。
「顔を、伏せてください」
声は低かった。何度も牢に通い、再審の見通しを告げた人の声だった。
私は跪いたまま、隣に立つ男を見上げた。
「今日は、駄目だったのですね」
ギルベルト・ザイデルは答えなかった。
ああ、と思った。今日は、ではなかった。もう次の日は来ないのだ。
父が隣国へ兵糧を売ったという。私がその取引の暗号文を清書したという。王都で公判が始まるまでは、話せば分かってもらえると思っていた。私が書いたのは救恤物資の依頼状で、数量も送り先も、控えを見れば違うと分かるはずだった。
けれど控えの棚は焼け、係の者は消えた。
私の筆跡だけが残った。
父の死が告げられた日のことは、うまく思い出せない。牢の隅で吐いて、石の隙間を流れる水を見ていた。
それから七日が経っていた。
「目を閉じて」
彼の声が、さっきより近かった。
「いやです」
私のものとは思えない、細い声が出た。
閉じれば、もう開けられない。それだけのことが怖かった。二十三歳にもなって、私は人前で泣いていた。
黒い手が離れた。
鞘から剣が抜ける音を聞いた。
*
寝台の上で、私は自分の首を掴んだ。
息を吸ったら喉が鳴った。指の下に皮膚がある。傷も、包帯もない。
膝に白い掛布が落ちていた。窓には母が選んだ薄青の幕が揺れ、その向こうで庭師が枝を切っている。鋏の音が二度、三度。
「お嬢様?」
戸口に、侍女のリタが立っていた。
右手には洗面用の水差し、左手には畳んだ布。額の真ん中に短い後れ毛が跳ねている。私が牢に入ったあと、行方を聞くことさえ許されなかった人だった。
「リタ」
「はい」
「首が」
そこから先が続かなかった。
彼女は水差しを置き、駆け寄ってきた。私の手を外そうとして、指が固まっていることに気づいたらしい。
「息ができますか。お水を持ってきます。旦那様もお呼びして」
「待って」
私はその袖を掴んだ。
「今日は、何日?」
告げられた日付を、三度聞き返した。
三年前だった。
私が二十歳になって一か月。父が王都から帰り、春の救恤分の帳簿を私に任せた、その翌朝。
父は朝食の途中で呼ばれたらしく、片手に食卓の布を持っていた。
「ロザリンド。どうした」
戸口で止まった顔を見て、私は寝台から降りようとした。脚に力が入らず、そのまま膝をつく。
父が布を放り出して支えた。
「何を急いでいる。怪我をするだろう」
上着から、煙草と外気の匂いがした。
私は父の袖に額を押しつけた。髭が伸びているとか、朝食の卵が冷めるとか、そんなことを言ってほしかった。
「お父様」
「うん」
「いなくならないで」
父の手が一瞬止まり、それから背中を撫でた。
その日の午前中、私は医師に喉を見られ、熱を測られ、眠りが浅かったのだろうと言われた。
診察が終わってから、鏡を持ってきてもらった。
喉元へ指を当て、少し顎を上げる。傷はなかった。左の頬には、三年後にはなかった小さな吹き出物がある。髪も、牢に入れられてから切られた時より長かった。
「お嬢様、お水を替えますね」
リタは鏡の前から私を動かそうとしなかった。横で湯を替え、濡らした布を絞っている。そのありふれた音に、私は何度も耳を澄ませた。
「昨日、私たちは何をした?」
「書庫の棚を片づけました。古い帳簿を上へ移すと旦那様が」
「あなたが、椅子の上に立とうとして」
「お止めになりましたね。梯子を持ってくるから、と」
覚えていた。私も、それを覚えていた。
その後で三年があった。リタにとっては何もなかった。その違いを考えると、今度は頭が痛くなった。
「変なことを聞いて、ごめんなさい」
「いいえ。何でも聞いてください。ただ、朝食を冷ましたことを聞かれたら、お嬢様のほうが覚えておられると思います」
私は鏡から目を離した。
リタが少し笑っていた。
「旦那様の卵は、焼き直してもらいました」
小さく頷いたら、涙が落ちた。
鏡を伏せ、布を受け取る。熱くも冷たくもない、その布を目に当てた。
この朝を、もう一度失うわけにはいかなかった。
誰にも処刑の話はしなかった。口にすれば、この部屋ごと消えてしまいそうだった。
けれど午後、執務室で救恤記録の最初の頁を見たとき、ようやく分かった。
紙の右下に、小さな染みがある。昨日、私が茶をこぼした跡だった。
三年後には存在しなかった紙だ。逮捕の日、書庫は燃えた。
私は頁を閉じ、鍵を掛けた。
「明日、控えをもう一部作りたいのです」
父が顔を上げる。
「火事にでも備えるのか」
「はい」
声が強すぎた。父は少し眉を寄せたが、書記を一人つけようと言った。
三日目の夕方、王都から使者が来た。
名乗りを聞く前に、私は玄関広間を下りていた。剣帯の金具が鳴ったのだ。それだけで膝の裏が冷たくなった。
窓から入る夕日に、男の髪が鈍い金色に見えた。
最後に見た時より三つ若い顔を、私は知っていた。
ギルベルト・ザイデル。
まだ上級騎士の肩章をつけていない。黒い手袋は縫い直されておらず、両手ともきれいだった。
父が先に挨拶をする。
「遠路、ご苦労だった。王都で何か」
「本日は、個人的なお願いに参りました」
彼は私を見た。
私は手摺から指を離せなかった。
この人が来るのは、もっと先のはずだった。二年後の冬、王都の救恤報告会。私が書類の束を落とし、拾うのを手伝ってくれた。それが最初だった。
「令嬢とお話をさせていただけますか。お父上にも、お聞きいただきたい」
声は同じなのに、喉が塞がる。
父が私の顔を見て、今日は体調が悪いと言いかけた。その袖を、私が引いた。
「何のお話でしょう」
騎士は唇を結んだ。彼の視線が私の首元へ落ち、すぐに逸れた。
「お父上が、三年後に捕らえられる件についてです」
私は階段を一段、踏み外しかけた。
*
応接室の扉は開けたままにした。父が隣に座り、リタが戸口に控えた。
ギルベルトは私たちから一番遠い椅子を選んだ。腰の剣を外し、鞘に入れたまま床へ置く。私はそれを見て、肘掛けを握った。
「触りません」
彼が言った。
「こちらから、近づきません」
父が眉をひそめた。
「ザイデル卿。説明してくれ」
「信じていただけないことを申し上げます」
ギルベルトは、自分が三年後の記憶を持っていると話した。
私の逮捕。父の獄死。燃えた書庫。
父が立ち上がったとき、彼は両手を膝に置いたままだった。
「ふざけているのか」
「いいえ」
「娘を脅すために来たのなら」
「私も、覚えています」
自分で言った言葉に、私は唇を噛んだ。
父がゆっくりこちらを見る。
「お父様が亡くなったと知らされて、七日後でした。雨が降っていて。広場へ出るまでに、右の靴が脱げました」
ギルベルトの右手が、わずかに動いた。
「あなたが履かせたんです」
「……はい」
私は彼の手を見た。
「その手で」
言葉が途切れた。
父の腕が私の肩へ回った。それは平気だった。同じ大きな手なのに。
ギルベルトは、立ち上がらなかった。
「私が、執行しました」
部屋の外で、リタが息を呑んだ。
「救えませんでした、とは申しません。最後に命令へ従うことを選んだのは私です」
顔が見られなくなった。私は彼の靴先を見ていた。
「どうして、ここへ」
「覚えていることを、あなたに隠すべきではないと思いました。お父上の事件についても。これから起こると知りながら、黙ってあなたの傍に入ることは、できません」
「来なければ、よかったのに」
声が出てしまった。
騎士は目を伏せた。
「はい」
謝罪も、弁解も続かなかった。その沈黙が、かえって私を困らせた。
父は長い間何も言わず、やがて机の上の呼び鈴を押した。
「客間を用意する。今日は娘に会わないでくれ。話は私が聞く」
ギルベルトは頷き、椅子から離れた。剣を拾う前に、私を見た。
「退出のため、剣を取ります」
私は頷けなかった。
父が代わりに頷いた。
扉の向こうへ彼が消えてから、私はようやく息を吐いた。
戻ってきた朝には、生き延びたいとしか思わなかった。
今は、そのために誰の手を借りるのかを、考えなくてはならなかった。




