↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私を処刑した騎士が、今度は婚約者になりました  作者: 黒咲かぐら


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/4

第1話 その手を知っている

 最後に見たのは、剣ではなく、手だった。


 私の肩から髪を払った、黒い手袋。その親指の付け根には縫い直した跡があった。雨を吸った布が首筋に触れて、私は息を止めた。


「顔を、伏せてください」


 声は低かった。何度も牢に通い、再審の見通しを告げた人の声だった。


 私は跪いたまま、隣に立つ男を見上げた。


「今日は、駄目だったのですね」


 ギルベルト・ザイデルは答えなかった。


 ああ、と思った。今日は、ではなかった。もう次の日は来ないのだ。


 父が隣国へ兵糧を売ったという。私がその取引の暗号文を清書したという。王都で公判が始まるまでは、話せば分かってもらえると思っていた。私が書いたのは救恤物資の依頼状で、数量も送り先も、控えを見れば違うと分かるはずだった。


 けれど控えの棚は焼け、係の者は消えた。


 私の筆跡だけが残った。


 父の死が告げられた日のことは、うまく思い出せない。牢の隅で吐いて、石の隙間を流れる水を見ていた。


 それから七日が経っていた。


「目を閉じて」


 彼の声が、さっきより近かった。


「いやです」


 私のものとは思えない、細い声が出た。


 閉じれば、もう開けられない。それだけのことが怖かった。二十三歳にもなって、私は人前で泣いていた。


 黒い手が離れた。


 鞘から剣が抜ける音を聞いた。


     *


 寝台の上で、私は自分の首を掴んだ。


 息を吸ったら喉が鳴った。指の下に皮膚がある。傷も、包帯もない。


 膝に白い掛布が落ちていた。窓には母が選んだ薄青の幕が揺れ、その向こうで庭師が枝を切っている。鋏の音が二度、三度。


「お嬢様?」


 戸口に、侍女のリタが立っていた。


 右手には洗面用の水差し、左手には畳んだ布。額の真ん中に短い後れ毛が跳ねている。私が牢に入ったあと、行方を聞くことさえ許されなかった人だった。


「リタ」


「はい」


「首が」


 そこから先が続かなかった。


 彼女は水差しを置き、駆け寄ってきた。私の手を外そうとして、指が固まっていることに気づいたらしい。


「息ができますか。お水を持ってきます。旦那様もお呼びして」


「待って」


 私はその袖を掴んだ。


「今日は、何日?」


 告げられた日付を、三度聞き返した。


 三年前だった。


 私が二十歳になって一か月。父が王都から帰り、春の救恤分の帳簿を私に任せた、その翌朝。


 父は朝食の途中で呼ばれたらしく、片手に食卓の布を持っていた。


「ロザリンド。どうした」


 戸口で止まった顔を見て、私は寝台から降りようとした。脚に力が入らず、そのまま膝をつく。


 父が布を放り出して支えた。


「何を急いでいる。怪我をするだろう」


 上着から、煙草と外気の匂いがした。


 私は父の袖に額を押しつけた。髭が伸びているとか、朝食の卵が冷めるとか、そんなことを言ってほしかった。


「お父様」


「うん」


「いなくならないで」


 父の手が一瞬止まり、それから背中を撫でた。


 その日の午前中、私は医師に喉を見られ、熱を測られ、眠りが浅かったのだろうと言われた。


 診察が終わってから、鏡を持ってきてもらった。


 喉元へ指を当て、少し顎を上げる。傷はなかった。左の頬には、三年後にはなかった小さな吹き出物がある。髪も、牢に入れられてから切られた時より長かった。


「お嬢様、お水を替えますね」


 リタは鏡の前から私を動かそうとしなかった。横で湯を替え、濡らした布を絞っている。そのありふれた音に、私は何度も耳を澄ませた。


「昨日、私たちは何をした?」


「書庫の棚を片づけました。古い帳簿を上へ移すと旦那様が」


「あなたが、椅子の上に立とうとして」


「お止めになりましたね。梯子を持ってくるから、と」


 覚えていた。私も、それを覚えていた。


 その後で三年があった。リタにとっては何もなかった。その違いを考えると、今度は頭が痛くなった。


「変なことを聞いて、ごめんなさい」


「いいえ。何でも聞いてください。ただ、朝食を冷ましたことを聞かれたら、お嬢様のほうが覚えておられると思います」


 私は鏡から目を離した。


 リタが少し笑っていた。


「旦那様の卵は、焼き直してもらいました」


 小さく頷いたら、涙が落ちた。


 鏡を伏せ、布を受け取る。熱くも冷たくもない、その布を目に当てた。


 この朝を、もう一度失うわけにはいかなかった。


 誰にも処刑の話はしなかった。口にすれば、この部屋ごと消えてしまいそうだった。


 けれど午後、執務室で救恤記録の最初の頁を見たとき、ようやく分かった。


 紙の右下に、小さな染みがある。昨日、私が茶をこぼした跡だった。


 三年後には存在しなかった紙だ。逮捕の日、書庫は燃えた。


 私は頁を閉じ、鍵を掛けた。


「明日、控えをもう一部作りたいのです」


 父が顔を上げる。


「火事にでも備えるのか」


「はい」


 声が強すぎた。父は少し眉を寄せたが、書記を一人つけようと言った。


 三日目の夕方、王都から使者が来た。


 名乗りを聞く前に、私は玄関広間を下りていた。剣帯の金具が鳴ったのだ。それだけで膝の裏が冷たくなった。


 窓から入る夕日に、男の髪が鈍い金色に見えた。


 最後に見た時より三つ若い顔を、私は知っていた。


 ギルベルト・ザイデル。


 まだ上級騎士の肩章をつけていない。黒い手袋は縫い直されておらず、両手ともきれいだった。


 父が先に挨拶をする。


「遠路、ご苦労だった。王都で何か」


「本日は、個人的なお願いに参りました」


 彼は私を見た。


 私は手摺から指を離せなかった。


 この人が来るのは、もっと先のはずだった。二年後の冬、王都の救恤報告会。私が書類の束を落とし、拾うのを手伝ってくれた。それが最初だった。


「令嬢とお話をさせていただけますか。お父上にも、お聞きいただきたい」


 声は同じなのに、喉が塞がる。


 父が私の顔を見て、今日は体調が悪いと言いかけた。その袖を、私が引いた。


「何のお話でしょう」


 騎士は唇を結んだ。彼の視線が私の首元へ落ち、すぐに逸れた。


「お父上が、三年後に捕らえられる件についてです」


 私は階段を一段、踏み外しかけた。


     *


 応接室の扉は開けたままにした。父が隣に座り、リタが戸口に控えた。


 ギルベルトは私たちから一番遠い椅子を選んだ。腰の剣を外し、鞘に入れたまま床へ置く。私はそれを見て、肘掛けを握った。


「触りません」


 彼が言った。


「こちらから、近づきません」


 父が眉をひそめた。


「ザイデル卿。説明してくれ」


「信じていただけないことを申し上げます」


 ギルベルトは、自分が三年後の記憶を持っていると話した。


 私の逮捕。父の獄死。燃えた書庫。


 父が立ち上がったとき、彼は両手を膝に置いたままだった。


「ふざけているのか」


「いいえ」


「娘を脅すために来たのなら」


「私も、覚えています」


 自分で言った言葉に、私は唇を噛んだ。


 父がゆっくりこちらを見る。


「お父様が亡くなったと知らされて、七日後でした。雨が降っていて。広場へ出るまでに、右の靴が脱げました」


 ギルベルトの右手が、わずかに動いた。


「あなたが履かせたんです」


「……はい」


 私は彼の手を見た。


「その手で」


 言葉が途切れた。


 父の腕が私の肩へ回った。それは平気だった。同じ大きな手なのに。


 ギルベルトは、立ち上がらなかった。


「私が、執行しました」


 部屋の外で、リタが息を呑んだ。


「救えませんでした、とは申しません。最後に命令へ従うことを選んだのは私です」


 顔が見られなくなった。私は彼の靴先を見ていた。


「どうして、ここへ」


「覚えていることを、あなたに隠すべきではないと思いました。お父上の事件についても。これから起こると知りながら、黙ってあなたの傍に入ることは、できません」


「来なければ、よかったのに」


 声が出てしまった。


 騎士は目を伏せた。


「はい」


 謝罪も、弁解も続かなかった。その沈黙が、かえって私を困らせた。


 父は長い間何も言わず、やがて机の上の呼び鈴を押した。


「客間を用意する。今日は娘に会わないでくれ。話は私が聞く」


 ギルベルトは頷き、椅子から離れた。剣を拾う前に、私を見た。


「退出のため、剣を取ります」


 私は頷けなかった。


 父が代わりに頷いた。


 扉の向こうへ彼が消えてから、私はようやく息を吐いた。


 戻ってきた朝には、生き延びたいとしか思わなかった。


 今は、そのために誰の手を借りるのかを、考えなくてはならなかった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。