第4話 剣の音がする夜
婚約をした以上、叔母が招かれる夜会にも一度は顔を出す必要があった。
「具合が悪くなったら帰ります」
「当然です」
叔母は鏡の前で私の髪飾りを直し、やや左へ傾けてから、元へ戻した。
「嫌な相手に挨拶をしたら、食べたいものを一つ食べて帰ればいいのよ」
「嫌な方がいなかったら?」
「二つ食べましょう」
私は鏡越しに叔母を見て、笑った。
選んだ服は、喉元まで覆う薄紫のものだった。古風だと仕立屋に言われたが、私はその形がよかった。
王都へ来て一か月余り。日中は随分、普通に過ごせるようになっていた。眠れない夜はまだある。そういう朝には、猫が私の寝台で眠っていたことにして、遅く起きた。
ギルベルトは叔母の玄関で待っていた。
礼装の彼を見るのは初めてだった。剣帯は式典用の細いものになっている。私はそこへ目が行くのを止められなかった。
「会場内も、剣は必要なのですか」
「主催者の警護を兼ねる騎士は。私は今夜、帯剣しなくても構いません」
「そうなのですか」
「預けてきます」
私が返事をする前に、彼は従者を呼んだ。
気を遣わせた、と思った。けれどそれを口にすれば、彼は大丈夫だと答えるだろう。私は別のことを尋ねた。
「不便はありませんか」
「会場へ入る時に、丸腰だと確認してもらうくらいです」
「では、お願いします」
彼は頷き、剣を預けた。
馬車は叔母と私が乗り、彼は別の馬車で向かった。
会場に着いてから初めて、私は彼の隣を歩いた。
腕は取らなかった。人が向かってくると彼は半歩前へ出たが、私の進路を決めるような立ち方はしなかった。
挨拶をするうちに、相手が父の領地について尋ねた。
「今年も南から難民が流れてくるそうですな。受け入れは大変でしょう」
私は口を開きかけた。
その前に、相手の夫人がギルベルトへ向き直る。
「奥様になられる方まで、領地の面倒を? お忙しいこと」
「私より詳しいのです」
彼が答えた。
「先月も、私が村の名を取り違えました。どうぞ彼女に」
私へ視線が戻ってきた。
私は救恤の話をした。受け入れる数だけを決めても、冬の燃料が足りなければ一緒に困ること。土地の余裕がある家から順に受け入れていること。
話し終えてから、自分が随分長く喋ったと気づいた。
「失礼しました」
「いや、よく分かりました。数字だけではありませんな」
相手が去ったあと、私は彼を見上げた。
「私に、喋らせすぎです」
「申し訳ありません。お困りでしたか」
「そうではなくて。あなたも何か」
「私は、聞いていたかったので」
私は返事をする代わりに、扇を開いた。
少し、暑かった。
*
踊りが始まった。
叔母は知人に呼ばれ、少し離れた椅子へ移った。リタも扉のそばからこちらを見ている。
私は人の輪ができる広間を眺めた。前の人生では、こんな所で彼と話したことはなかった。役所で会い、廊下で言葉を交わし、最後は牢の鉄格子越しだった。
「お誘いしません」
隣で声がした。
「踊りのことを考えていると、分かりましたか」
「ずっと、そちらをご覧でしたので」
私は扇を閉じた。
「踊れないわけではありません」
「はい」
「ただ、今日は」
「分かっています」
私は唇を結んだ。
分かっている、と言われるのが嫌な時もある。分からないくせに、と腹を立ててしまう時も。でも今夜の彼は、次を促さなかった。私は残りの言葉を探さずに済んだ。
広間の端を、レーヴェン伯爵が通った。
私は先に気づいた。手にしていた扇を持ち直す。
彼は私たちの前で立ち止まり、婚約への祝いを述べた。柔らかい声だった。私が牢の奥で聞いた時と、少しも変わらない。
「お父上も、よいご縁を得られましたな。最近は、記録を丁寧にお調べになっていると伺いました」
口の中が乾いた。
ギルベルトが返事をしかけるより先に、私は口を開いた。
「受領と発送に差がありましたので。冬を越した方々に、今さらお聞きすることになってしまいました」
「古い記録は、どうしてもね。担当者が替わることもあります」
「ですから、覚えている方にお会いしているところです」
伯爵の視線が、ギルベルトへ向いた。
「卿も、お手伝いを?」
「必要な照会先をご案内しています」
「ほどほどになさい。婚約者殿に、仕事ばかりと思われてはな」
伯爵は笑い、知人に呼ばれて去っていった。
私は息を吐いた。ギルベルトは、黙って一歩横へ移った。柱の向こうに伯爵が見えなくなる位置だった。
「大丈夫ですか」
「今、私、余計なことを言いましたか」
「いいえ。照会が行われていることは、既に局へ通知されています」
「そうではなくて、私が、あの人を」
言いかけ、やめた。嫌っていることを悟られたか。それを心配していた。
ギルベルトは私の扇の握り方を見ていた。
「このあと、伯爵へ改めてご挨拶に行く必要はありません」
私は頷いた。
彼は何も解決してくれなかった。ただ、もう近づかなくてよいと言った。
それだけで、握っていた扇を少し緩められた。
給仕が運んできた皿に、小さな菓子が並んでいた。
私は白い砂糖の掛かったものを取った。中に固い木の実が入っていて、噛み切ろうとしたら端が割れた。
欠片が袖に落ちる。
「……見ましたか」
「少し」
「そこは、見ていないと言うところでしょう」
「では、見ていません」
私は笑いかけ、口元を手で覆った。ギルベルトが差し出した紙布は、皿の縁に置かれた。
自分の袖を払いながら、私は彼の顔を見た。
笑っていた。
処刑場でも牢でも見たことのない、困ったような笑い方だった。
私は手元へ目を戻した。菓子の砂糖が、指先にもついていた。
そのとき、すぐ後ろで金属がぶつかった。
続いて、長い刃を引く音がした。
私は皿を落とした。
割れる音より先に、首を押さえていた。
「ロザリンド様」
声がした。低い声。同じ声。
黒い手が視界に入ったように思えた。触らないで、と言ったつもりだったが、息しか出なかった。
広間の灯りが雨の中に滲んだ。
「こちらへ、触れてもよろしいですか」
私は首を振った。
誰かが人を下がらせていた。別の声で、道を空けるように言う。叔母が来て、私の前にしゃがんだ。
「ロザリンド。私よ。窓を見て」
四角い窓。赤い幕。雨は降っていない。
「靴は両方、履いているわ。立たなくていいから」
私は自分の足を見た。
薄紫の裾の下に、二つともあった。
それからどのくらい経ったのか、よく覚えていない。
会場の奥で、護衛が留め金を直すために剣を少し抜いたのだと、あとで聞いた。誰かが私を狙ったわけではなかった。
私には、その説明を聞く余裕もなかった。
*
帰宅すると、ギルベルトは玄関の外で叔母に挨拶をしていた。
私の部屋へは上がらなかった。
寝台へ入っても、首に触れた手の感覚が消えない。私はリタの持ってきた温かい布を喉元に当てた。
「私、彼に」
リタは椅子を寄せた。
「何も、言わなくてよろしいのでは」
「そうではなくて」
私は布を少しずらした。
「あの人が、笑っていたの」
リタが黙って私を見る。
「私、もう少し見たいと思った。すぐに、あんなふうになってしまったけれど」
言ってしまうと、胸の中で何かがほどけた。同時に、ひどく不確かな足場へ立ったような気もした。
好きになるはずがない人だった。
私を殺した人なのだから。
でも、笑顔をもう一度見たいと思ったことまで、なかったことにはできなかった。
翌日の昼、私は彼に手紙を書いた。
昨日はありがとう、と書き、消した。怖がってすみません、と書き、もっと強く消した。
紙を替え、今度は一行だけ書いた。
『次の報告は、予定どおりお願いします』
封をする前に、もう一行を足した。
『菓子は、柔らかいものにしてください』
彼の返事には、柔らかいものを探します、とあった。
私はそれを机の引き出しに入れた。
開けるとすぐ見える、一番上のところへ。




