第9章 道の下の声
濡れた靴が、ようやく歩くたびに鳴らなくなった頃だった。
道の先で馬がいなないた。続いて、金属を打つ音が二度響く。ユーゴは肩の荷を下ろした。
「戦闘の音だ」
ロゼットもリュックを外した。腰から取り出したものを見て、ユーゴは目を留めた。短い銃身のある、見慣れない魔道具だった。
「これは魔導銃。前に出すぎないで。あなたに重なると撃てないから」
彼女は小さな部品の収まりを指で確かめた。説明を待つより先に、また馬の声が上がった。
曲がり角の向こうで、護衛らしい男たちが剣を振るっていた。相手は人の腰ほどの背丈しかない。だが、枝の間を走る緑がかった腕には、刃物や棍棒が握られている。ゴブリンだった。
暴れた馬が、道脇へ身をひねった。
道の片側は木々が迫り、反対側は低い斜面になっていた。護衛たちは森側の敵を押し返している。馬のすぐ横まで、回り込んだ一匹が来ていた。
鞍の上にいた女の人の手が離れる。淡い薔薇色の裾がひるがえり、斜面へ落ちた。馬は手綱を引きずって走り去る。
「クラリス様!」
護衛が振り向いた。その隙へ棍棒が飛ぶ。男は剣で受け、踏みとどまった。退けば、道にいる残りの敵が斜面へ下りてくる。
ユーゴは腰の剣を抜いた。
女の人は片足を引き寄せ、土に手をついていた。立とうとして、すぐに膝を落とす。その背後の草が動いた。
「そこを動かないで!」
ユーゴは斜面へ飛び込んだ。
下りの勢いが足に残る。真正面から斬りかかれば、敵を追い越してしまう。斜めに踏み、靴底を土へ食い込ませた。
棍棒を振り上げたゴブリンの脇へ、刃を通す。手応えを引き抜くと、横から別の影が跳んだ。
その体が、空中で不自然に縮んだ。
乾いた音と、青白い光。ゴブリンが草へ落ち、手足を震わせる。道の下り口で、ロゼットが銃口を上げていた。
「今のうちに!」
ユーゴは倒れた敵の武器を払い、動かなくなるまで剣を振るった。振り返ると、さらに一匹がロゼットへ回ろうとしていた。追いすがってその間に入り、刃物を受け流す。木刀より重い衝撃が手首へ来た。
握り直す。足を止めない。
敵がもう一度腕を引いたところへ踏み込み、斬り倒した。
道の上では、護衛たちが声を掛け合っていた。ひとりが斜面の縁まで下がり、ユーゴたちの退路を空けている。
「こちらへ! 残りは引き受ける!」
ロゼットが負傷した女性のそばへ膝をついた。
「足を見せて。踏める?」
「右は……無理のようです。私より、上の者たちを」
「あなたを道へ戻したら、合流できます。今は、手を貸してください」
長い茶色の髪がほどけ、女性の頬へかかっていた。ユーゴたちと同じくらいの年頃に見える。服の縁には泥がついても分かる細かな飾りがあり、土をつかむ指は震えていた。
ユーゴは剣を鞘へ戻して背を向けた。ロゼットが女性の体を支え、その腕を彼の肩へ回す。
足に体重を乗せて立つと、後ろで息をのむ音がした。
「揺れます。痛かったら言ってください」
「お願いします」
短く返した声は、さっきより細かった。
*
護衛が支える道の内側へ、女性を下ろした。ロゼットがそばにつき、ユーゴはもう一度剣を抜いた。
護衛の男と並ぶ。ひとりで相手を追うと、もうひとりの前を塞いでしまう。ユーゴは踏み込みかけた足を止めた。
「右、任せられるか」
「はい」
男の剣が左の棍棒を弾いた。ユーゴは右から寄る敵を押し返す。前へ詰めず、足をそろえ直した。
「右を空けて!」
ロゼットの声に、ユーゴは護衛のほうへ半歩寄った。道の縁から迫る一匹が、二人の剣の外へ出る。
魔導銃が一度鳴った。青白い光にその体が跳ね、隣の敵も足を止めた。護衛が押し出す。残ったゴブリンは互いを押しのけるように茂みへ逃げた。
ユーゴは追おうとしたが、道の向こうは葉が重なって見えなかった。剣を構えたまま戻ると、護衛も同じように森を見ていた。
「助かった。俺たちだけでは、斜面まで手が回らなかった」
礼を言う男の袖は裂けていた。女性のところへ駆け寄りかけ、彼は足を止めた。代わりに、周りの気配をもう一度確かめる。
「クラリス様。グランジュへ戻りましょう。ここから領都へは、距離がありすぎます」
「ええ。馬も確かめてください。あの子も脚を傷めているかもしれません」
女性はユーゴへ向き直った。
「クラリス・ド・ボーシャンと申します。父がこの領地を預かっています。お二人のお名前を、伺ってもよろしいですか」
剣を拭いていた手が止まった。
領主の娘。その人が、草に座ってこちらを見上げている。
「ユーゴです。フルーリ村の」
「私は行商人のロゼットです。このあたりを回っています」
「フルーリ村へ向かう途中でした。グランジュでゴブリンの被害を聞いて、警備と森の調査を父へ頼むと約束したばかりなのに……」
クラリスは斜面を見た。口元を引き締め、護衛へ顔を戻す。
「まずは、全員で村へ。報告は、戻ってから私も書きます」
立ち上がろうと膝を動かし、クラリスは息を止めた。護衛が手を差し出す。
「申し訳ありません。少し、支えてください」
剣を持たないほうの腕へつかまり、彼女は痛む足を伸ばせる位置へ体をずらした。それから、木々の間へ目を戻した。
護衛がひとり、馬を追って道の先へ出た。もうひとりが森側に立ち、ロゼットが曲がり角に置いた二人の荷を取ってくる。ユーゴはクラリスのそばで、剣を手に待った。
戻った馬の脚を護衛が確かめる。歩く様子に大きな異常はなかったが、クラリスを再び鞍へ乗せるには、足の腫れが強すぎた。
ユーゴは剣を収め、彼女の前へしゃがんだ。
「乗れますか」
「もう一度、運んでいただくことになりますが」
「歩くと、もっと痛めそうです」
クラリスは少しためらってから、肩へ手を置いた。
*
護衛が先を歩き、もうひとりが後ろを守った。回収した馬は引いていく。ロゼットは持ち戻った二人分の荷のうち、ユーゴの包みを馬へ預け、リュックを背負った。
地面の凹みを踏むたび、クラリスの腕が硬くなる。ユーゴは足の置き場を選び、急がず歩いた。
「重くありませんか。苦しくなったら、どうか休んでください」
「今は大丈夫です。首のところを、もう少し緩めてもらえれば」
「あ、ごめんなさい」
「そこへ力が入ると、息がしづらくて」
隣でロゼットが小さく咳払いした。
「足元を見て。さっきより道が乾いてるからって、同じ調子で歩けるわけじゃないんだから」
「見てるよ」
ユーゴは、出しかけた足を大きな石の横へ置いた。
森を抜けると、刈り取った畑と干し草の山が見えた。畑沿いの柵には、新しい木を継いだところがある。道の先に家々が集まり、荷を積んだ小さな車が一台、こちらを見て止まった。
「戻ったぞ! 手を貸してくれ!」
護衛の呼びかけに、人が走ってくる。差し出された手にクラリスの重みを預けると、肩が急に冷えた。
ユーゴは背を伸ばし、村へ続く道を見た。
グランジュだった。畑の形も、屋根も、故郷とよく似ている。それでも駆け寄ってきた顔の中に、名前を呼べる人はいなかった。




