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第6章 空いた手

朝、袖を通すと、ほつれた糸が指に引っかかった。


 ユーゴは引っ張りかけて、やめた。昨日、あとで縫うと師に言ったところだった。内側へ折り込んでも、腕を動かすと出てくる。


 もう一度だけ押し込み、家を出た。


 広場には飾り紐が残っていた。片端の外れた一本を村人が巻き取っている。笛も太鼓も聞こえなかった。木箱を引きずる音が、家の壁に当たって返ってきた。


 マルタンの葬儀を行う場所には、もう人が集まっていた。


 ユーゴは入口で足を止めた。誰かに声をかけようとして、誰に何を言うのか決まらなかった。椅子が足りないと聞こえたので、そちらへ行った。


 運んでいるあいだは、手の置き場所を考えずに済んだ。


 棺のそばにアンヌがいた。


 夫の襟を指で直していた。布はもう平らだった。それでも端をつまみ、ほんの少し引き、手を戻す。


 リネットはその隣に立っていた。前掛けをしていなかった。いつも後ろへ結ぶ髪が、今日は少し緩んでいる。


「何か、持ってくるものは」


 ユーゴが聞くと、アンヌは振り向いた。


「ありがとう。椅子も布も、もう揃ってるの。あなたも……少し座りなさい。昨日から、ずっと動いてるでしょう」


「そうですか」


 椅子を置いても、ほかの荷物はなかった。ユーゴは入口のほうへ戻った。


 ロゼットが来ていた。


 大きなリュックは背負っていなかった。胸元の布の端を両手で持ち、敷居をまたいだところに立っている。ユーゴと目が合うと、手を下ろした。


「こっち」


 隣を空けた。ロゼットは近づきかけ、棺のほうを見て足を止めた。それから、小さくうなずいて隣に立った。


 誰も彼女を追い出さなかった。席を指してくれる村人もいた。ただ、昨日ならそのまま何か話し始めたはずの人が、今日は会釈だけで離れていった。


 ユーゴ自身も、言葉が見つからなかった。


     *


 マルタンの名が呼ばれた。


 ユーゴは顔を上げた。名を呼ばれた人が返事をする、その短い間を待ってしまった。


 声を出したのは別の人だった。畑仕事のこと、手を貸してもらったことを、短く話した。


 ユーゴにも覚えのあることがあった。雨のあと、詰まった溝をさらったこと。泥から抜けた靴を、リネットが持ってきたこと。


 昨日も、その話をした。


 マルタンは、自分の膝を叩いて笑っていた。


 棺へ目を戻すと、その手が重ねられていた。爪の形を見た。畑で働く手だった。ユーゴの手にも土は残るが、マルタンの指の節はもっと太かった。


 長く見ていられず、顔を下げた。


 隣で、布が擦れた。


 ロゼットの指が、胸元の布をつかんでいた。握って、放して、また握る。顔は上げなかった。


 前のほうでリネットが動いた。こちらを向いたのかと思ったが、目はロゼットの手元で止まった。唇が開き、すぐ閉じた。


 アンヌが娘の肘に触れた。リネットはそちらへ向き直り、母親の背に手を添えた。


     *


 棺を運ぶとき、ユーゴは持ち手を握った。


 肩に昨日の痛みが残っていた。持ち上げれば、肘の内側が震えた。誰かが代わろうかと言ったが、ユーゴは首を振った。


 持ち手が掌に食い込む。前を歩く人の足を見て進んだ。速くても遅くても、棺が揺れる。


 昨日は揺らすたび、傷が痛むのが怖かった。


 今は、音を立てたくなかった。


 墓のそばへ下ろすと、握っていた指がすぐには開かなかった。一本ずつ外して、脇へ下がる。


 アンヌが土を一握り落とした。乾いた小さな音がした。リネットも続いた。


 ユーゴは足元の土をすくった。粒が指の間からこぼれた。


 何か言おうとした。


 昨日は、ありがとうございました。


 それでは、おかしかった。昨日だけではなかった。


 口を閉じたまま、土を落とした。


 戻るとき、ロゼットとすれ違った。彼女は視線を落としたままだった。何も言わずに前へ進み、やはり何も言わずに戻ってきた。


     *


 葬儀が終わっても、すぐには人が散らなかった。


 アンヌのそばには、近所の人たちが残っていた。今日の食事を持っていくと、一人が言った。鍋は置いてくるから、洗って返すのは急がなくていいと、別の一人が続けた。


 アンヌは、はい、と答えた。それから、ありがとう、と言い直した。


 ユーゴが片づけた椅子を重ねていると、リネットが来た。


「それ、下に置いていいよ。あとでみんなで運ぶから。昨日みたいに、次はこっちって、そんなに頼むものも……ないし」


 言われて、置いた。


 しばらく、二人とも積み重ねた椅子を見ていた。


「昨日の、熊」


 リネットが言った。


「ロゼットが追い返したって、本当? 私、家の陰にいたから、そこは見てない。誰かから聞いた話ばかりになって、何を覚えてたらいいのか、分からなくて」


「俺は目の前で見たよ。二匹とも森へ戻った。それで、マルタンさんを運べたんだ」


「そう」


 リネットは指先で、自分の袖口をこすった。


「助けてくれようとしたんだよね」


「そうだよ」


「それは、分かるんだけど」


 そこで言葉が切れた。離れたところで、ロゼットが誰かへ頭を下げている。リネットもそちらを見た。


「あの役人の話を聞く前は、父さんを連れて帰ってくれたんだって、それだけ思ってたの。なのに、今はロゼットを見ると、あの話まで思い出してしまう。そんなふうに見たいわけじゃ……」


 ユーゴは返事をしようとした。


 違うと言いたかった。けれど、ルネに言い返していたときの言葉を、今ここでリネットへぶつけることはできなかった。


「俺も、ちゃんと調べてほしい」


 それだけ言った。


 リネットはうなずかなかった。否定もせず、下を向いた。


「父さんに、聞きたいことがあったの」


「何?」


「片づけの順番。父さんが皿を重ねる前に、置く場所を言おうと思って、起きて……」


 積んだ椅子の脚を、リネットは見ていた。


「昨日はもっと任せてって言ったのに、私、最初に父さんを探したの」


 彼女は口元を手で押さえた。


 ユーゴは半歩近づいた。肩に手を置くと、リネットは逃げなかった。そのまま少し身をかがめた。


 声は小さかった。途中で息を吸う音だけが、はっきり聞こえた。


 ユーゴは椅子のことを考えないようにした。次に何を運ぶか、どこを手伝うか。手を動かす用事を探さず、彼女が顔を上げるまで、そこに立っていた。


 少し離れたところで、ロゼットの靴音が止まった。こちらへは近づいてこなかった。


 やがてリネットが母親のところへ戻ると、ユーゴの両手は空いた。


 すぐには、何も持たなかった。


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