第5章 報告書に残るもの
手を洗っても、爪の際の赤い色は落ちなかった。
ユーゴは水から手を上げた。呼びに来た管理人が、戸口で待っている。
「北へ来てくれ。担当の役人が、話を聞きたいそうだ」
部屋の奥を見ることができなかった。布で手を拭き、立ち上がる。膝が固く、歩き出すまでに少しかかった。
畑には、まだ熊が倒れていた。
結界の設備の脇で、紺色の長い上着を着た男が立っている。襟と袖には金色の縁取りがあり、胸の金具が夕方の光を返していた。そばにロゼットがいた。リュックは足元に置かれたままだった。
「国家魔導局 地方担当職員のルネだ」
男は名乗り、ユーゴの腰と、汚れた袖に目を動かした。
「君も戦ったのか」
「はい」
「近くの番屋にいた。鐘と騒ぎが聞こえたので、急いで来たが」
ルネは畑を見渡した。熊のそばに残った血へ視線が止まり、すぐに書類へ戻った。
「亡くなった者が、一人と聞いた」
「マルタンさんです」
「氏名については、後で正確に確認する。事故の報告をまとめるにあたって、まず設備の状況を整理したい。これを設置したのは誰かね」
彼が指したのは、ロゼットの巻物だった。
「私です」
「国家承認品のそばで、民生魔導を作動させた。そうだな」
「はい。ただ、順番を確認してください。承認品が止まって、魔獣が入ってきた。そのあとで、これを設置しています」
ロゼットは答えた。ルネは、止まった承認品を収めた設備を一度見た。そこから取り出そうとはしなかった。
「何を使った」
「獣除けのスクロールです。普通の獣用だったものを出力を上げて魔獣にも働くように変えました。」
「規定の結界の横で、即席の改造品を使ったわけか」
「二匹、来てたんです」
ユーゴが言うと、ルネは顔を上げた。
「熊が、さらに二匹。あれを倒したあとです。俺はもう腕を上げるのがやっとで、師匠も戦いながらじゃ人を運べない。マルタンさんは、すぐ後ろで血が出てたんです」
倒れた熊を指す。誰かが背後で、そうだ、と言った。
「ロゼットがあれを動かしたら、森へ戻ったんです」
「退いたところは、私も見ました」
管理人が続けた。畑の道に集まった村人が、うなずいている。
ルネは書類を支える板の角を、指で叩いた。
「魔獣を退かせるほどの出力か。もともとは、どこで使っていた」
ロゼットが畑の方角を示すと、村人の中から農婦が前へ出た。
「うちの畑ですよ。前に来たとき、二か月くらい前に買ったんです」
「二か月、作動させ続けていた?」
「獣が来なくなって助かってました。今日、人が働くには少し強いって、替えてもらったけど」
「どういう意味だ、強いというのは」
農婦は、畑仕事をしていると胸がざわつくことがあったと話した。ルネが初めて、長く書きつけた。
「人にも作用を感じさせる高出力品が、長期間使われていた。なるほど」
「その品なら、昼に止めています。今ここにある状態と、畑で使っていた状態は、分けて確認してもらえますか」
ロゼットの声が硬くなった。
「畑には、新しい用紙で調整したものを置きました。古いほうは停止を確かめて箱に入れています。ここで使うまで、取り出してもいません」
「急に止めれば、以前の影響まで消えると断言できるのか」
ロゼットは口を閉じた。
「それは、結界のほうも調べなければ……。畑でどう使ったかなら説明できます。でも、影響が残るかは、私には――」
「否定はできないのだな」
「原因も、まだ決められません」
ユーゴは二人を見た。ロゼットは巻物を見ていた。ルネは彼女の顔を見ていた。
管理人が、設備のほうへ一歩寄った。
「止まったときには、マルタンさんも畑に来ていたんです。私はこっちにいて、北の結界が働かなくなったのを見て、知らせを頼みました。彼女が来たのは、そのあとです」
「現場にいた方の話は聞いている。ただ、騒乱の最中には時間の認識が乱れる。記憶した順番を、そのまま技術上の判断に使えるとは限らない」
「順番を間違えたということですか」
「君が何かを見たことまで否定しているのではない。魔導知識のない者には、見えた現象と、それが起きた理由を区別しにくい。原因の判断は、報告をまとめる側に任せてもらいたい」
その言葉なら、なぜこの人は判断できるのだろう。
ユーゴは止まった設備を見た。ルネの手はまだ、そこに触れてもいない。
「調べてもらえませんか」
「民生品の使用状況については、今確認しているが」
「止まったほうです。そっちは、まだ開けてもいないでしょう。俺には分からないから、調べられる人に見てほしいんです」
「現場でできることには限りがある」
ルネは管理人へ手を出した。
「管理記録を」
差し出された綴りを開き、日付の横に並ぶ署名を指で追った。自分の名のところで指を止める。設備へ目を向けることなく、綴りを閉じた。
「承認品は、決められた手順で設置し、管理する。こちらの管理記録には不備がない。一方で、ここには承認品の近くに作用する、高出力の民生品がある」
「でも、止まった品のほうは」
「現状を記録し、まず事故として報告するのが私の務めだ」
管理人は綴りを受け取り、別の頁を開きかけた。
「製造番号も、ここに」
「あとで照合できるよう、そのまま保管しておけ」
風にあおられた書類を押さえ、ルネが読み上げた。
「民生魔導による干渉により、北側国家承認結界が停止。魔獣侵入に伴う死者、一名」
ユーゴは顔を上げた。
「原因はまだ、分からないんじゃないですか」
「現場からは、現時点で最も整合する説明を上げる。結論を何も記さなければ、報告として処理が進まないだろう。詳しい検討は、これを受けた側の仕事になる」
「だったら、ロゼットが来たのはあとだって、それも書いてください」
「最初の設置から二か月という話は記録した」
「そのことじゃなくて。俺が見たのは、熊が来て、それからロゼットが来たってことです。助けに来たときのことを、どうして書いてくれないんですか」
声が大きくなった。畑の道が静かになる。
ユーゴは息を吸った。指を伸ばして書類を示しかけ、土のついた手を引いた。まだこちらを見ているルネの筆先は、紙へ戻らなかった。
ロゼットが一歩下がった。リュックの留め具に、指先が触れた。
「この応急のものは、どうしますか」
管理人が聞いた。
ルネの筆が止まった。北の森を見る。誰も続けて何も言わなかった。
「今、外すのは危険だ。交換まで監視しておけ」
「承認品の交換は、急がないといけません」
「村長と話せ。所定の手続きを取ることだ」
ルネは書類の末尾へ署名した。民生魔導による干渉。その言葉は、書き直されなかった。
*
ルネが村長を呼びに人をやると、集まっていた村人も少しずつ動き始めた。
農婦がロゼットへ顔を向けた。
「私、あんなふうに言うつもりじゃ……」
「畑で感じたことを、話してくれたんでしょう」
「言わずに我慢してもらったら、直せないから」
そこまで言うと、ロゼットは口を結んだ。
農婦は口をつぐみ、もう一度巻物を見た。「助かってました」と話した人の手が、前掛けの端を握っている。ロゼットへ伸びかけた腕は、そのまま下がった。
ロゼットは空いた箱へ筆を入れようとした。蓋が浮いたので、筆を取り出し、向きを変えて入れ直した。
ユーゴはリュックを支えようと手を出した。ロゼットは箱をしまうと、荷を自分の膝へ引き寄せた。
出した手を、ユーゴは下ろした。
背後で、誰かが明日の葬儀の話をしていた。




