第4章 北の畑
洗い終えた皿を二つの山に分けていると、突然、激しい鐘が響いた。
一度ではなかった。間を置かず、打ち損じたような音まで重なった。
祭りの笛が途切れ、北から警笛が激しく鳴り響いた。笑い声が止み、人々が北を振り向く。道を駆けてきた男が、広場へ向かって叫んだ。
「北の結界が止まった! 家に入れ!」
ユーゴは皿を置いた。
男の後ろから、低い影が飛び出した。猪に似た頭。だが、張り出した牙も、土を蹴る脚の太さも、朝に狩った獣とは違う。逃げる男へ向かって、まっすぐ加速していた。
さらに二匹。北側の道から迫ってくる。
「横へ!」
ユーゴは声を張りながら狩猟鉈を抜いた。男が屋台の脇へ転がり込む。先頭の魔獣は向きを変えきれず、酒の台に突進する。
ユーゴは横から踏み込み、露出した首へ刃を振った。硬い手応えが腕へ返る。刃を抜き、すぐに後ろへ跳ぶ。魔獣が横倒しになり、脚で地面を掻いた。
「広場を空けろ! 北へ行くな!」
リネットがアンヌの腕を引いていた。ユーゴは二人が家の陰へ入るのを一瞬だけ見て、次の一匹へ向き直った。
二匹目は台を避け、こちらへ向かってきた。肩から前脚へ目を配る。肩が沈む。右の脚が土を噛んだ。
横へ一歩。
すれ違いざまに刃を入れたが、浅かった。魔獣は止まらない。ユーゴは足を運び直し、振り返った獣の鼻先から離れた。
三匹目が後ろにいる。
背を向けず、近くにあった木箱の脇へ下がる。二匹目が再び突っ込み、箱を蹴散らした。前脚が崩れたところへ踏み込み、首の下へ鉈を突き入れる。
仕留めたが鉈が抜けない。
ユーゴは柄を両手で握りしめ、強く引いた。刃が外れるのと同時に、三匹目が視界の端で動いた。咄嗟に転がるように身を投げる。さっきまで体のあった場所を、牙が通った。
泥が口に入る。
すぐに立たねば串刺しにあう。
膝を引きつけて起きる。魔獣は頭をこちらへ向けた。その向こうには、まだ屋台の下から出られない子供がいた。
ユーゴは鉈を低く構える。獣との間を空けすぎない。こっちを見ろ、と激しい声を出す。
突進は短かった。
ぎりぎりまで待ち、斜めに体と足を引き牙をかわし、獣が通り抜ける前に踏み戻す。刃を首筋に入れるが、体ごと持っていかれそうになった。
魔獣は数歩先で崩れた。起き上がろうとして、動かなくなった。
ユーゴは肩で息をした。三匹とも倒れている。手の中の鉈が重い。
子供の母親が屋台へ駆け寄った。二人の間に誰かが入り、道を空けている。
「マルタンさんは?」
返事を待つ間にも、北の道へ目が向いた。祭りへ戻ってくる姿がない。
「子供を家へ。まだ外へ出さないでください」
そばの男がうなずき、母親を戸口へ促した。それを見届けて、ユーゴは北へ走った。
*
畝の間に、折れた農具が落ちていた。
その先に、熊がいた。立ち上がった体は人の背丈を大きく越え、前脚の爪が下を向いている。
足元で、マルタンが動いた。横腹を押さえた腕も、その下の土も濡れていた。もう片方の手に、折れた柄を握っている。
熊の前脚が上がった。
ユーゴは走った勢いのまま、鉈をその脚へ叩きつけた。
弾かれた。
それでも、爪の落ちる位置はずれた。土がえぐれ、顔へ飛んだ。ユーゴはマルタンの襟をつかみ、畝の陰へ引いた。
「動けますか」
「祭りへ……行かせるな」
マルタンの目が、ユーゴの向こうを見た。
振り向く。熊が四つ足に戻り、首を低くした。
ユーゴはその前に立った。鉈の先から雫が落ちた。自分の息が、やけに大きく聞こえる。
横へ回る。熊も向きを変えた。あの脚をまともに受ければ、鉈ごと押し潰される。
前脚が伸びた。避けて肩へ斬りつける。刃は毛皮の下に入ったが、熊は止まらなかった。体をねじって迫る頭から逃れるため、ユーゴは畝を一つ飛び越えた。
足が柔らかい土に沈む。
抜こうとした瞬間、熊が来た。
「右へ!」
声に従って倒れ込むと、頭のすぐ上を剣が走った。
ベルナールが、熊とマルタンの間に入っていた。熊は鼻先を引き、師へ向き直る。ユーゴは土から足を抜いた。
「立てるか」
「立てます」
「俺が前に入る。背中へ回るな。見えるところにいれば、合わせられる」
師は短く言い、剣を構え直した。
ユーゴは熊の右側へ動いた。師が前で間合いを測る。熊の頭が、どちらへ向くか迷うように揺れた。
ベルナールが一歩入る。
熊がそちらへ踏み出したとき、ユーゴは傷つけた前脚へもう一度斬りつけた。鉈の柄が掌に食い込む。熊の体が傾いた。
「下がれ!」
師の声に、考える前に足が動いた。振り回された爪が目の前を通り、空振りした体の横へベルナールが入る。
剣が深く沈んだ。
熊は大きく身を震わせた。師は剣を抜き、もう一度踏み込んだ。今度こそ巨体が畝を崩して倒れた。
ユーゴは鉈を下ろしかけた。
森の縁で、枝が折れた。
もう一匹。同じ大きさの影が、立ち木の間を押し分けている。そのすぐ後ろにも、頭が見えた。
二匹。
握り直した指が滑った。肩が上がらない。隣の師も剣を下ろさず、荒い息を吐いていた。
さっきは、師が前を受け持ってくれた。今度は、一人に一匹来る。
マルタンを運ぶ手がない。
「そこ、道を空けて!」
背後で革の荷物が地面に落ちた。ロゼットが膝をつき、リュックの保管箱を開けていた。札のついた巻物を引き抜く。
「昼に回収した獣除けを魔獣用に変えるから、前を支えて、少しだけ時間を作って!」
ベルナールが森へ向き直った。
「ユーゴ、俺より前に出るな」
マルタンを背後に置き、ユーゴは師の右に立った。二匹はまだ、森から続く斜面を下りてくるところだった。一匹が倒れた熊の手前で頭を下げ、もう一匹は死骸を避けて畑の縁を回り始めた。
ベルナールが横へずれた。ユーゴも動く。回り込む一匹とマルタンの間を、空けてはいけない。
一瞬横を見た。ロゼットは広げた巻物の線を消し、別の線を継ぎ足していた。何を変えているのかは分からない。ユーゴはすぐに熊へ目を戻した。
「ここに付けるよ!」
右手の畑の端で、管理人が答えた。結界スクロールを収めた設備は、ユーゴたちの位置より村側にある。そこまでの道に魔獣はいなかった。
「そっちは触らない。別に置く!」
背後を靴音が通った。巻物の端を留める音がして、ロゼットが声を上げた。
「起動できた!」
回り込んでいた熊が、ユーゴへ頭を向けた。低く唸り、前脚を出す。
次の一歩が、来なかった。
鼻を振った。地面を掻き、また鼻を振る。もう一匹も顔を背け、横へ動いた。
ロゼットが巻物から手を離した。熊は畑へ入り直そうとし、急に首を引いた。二匹とも向きを変え、森のほうへ戻っていく。
ユーゴは動けなかった。木の間に最後の背中が消えるまで、鉈を握っていた。
「……戻った」
管理人の声がした。後ろの道に集まった村人たちも、森を見ていた。
「運ぶぞ」
ベルナールの声で、ユーゴはマルタンへ振り返った。
*
呼びかけると、目がわずかに動いた。
ユーゴは膝をつき、横腹に当てられた手の上から布を押さえた。濡れるのが早かった。
「板を。運べるものを持ってきてくれ」
ベルナールが村人へ言った。ロゼットが立ち上がりかけると、師は首を振った。
「お前はここに残れ。また入ってこられては、村へ運べん。マルタンは俺たちが運ぶ」
新しく置かれた巻物を指していた。ロゼットは一瞬口を開き、それからうなずいた。
運ばれてきた戸板へ、マルタンを移した。動かすたびに息が漏れた。ユーゴは何度も謝りそうになり、そのたび布を押さえる力を確かめた。
「そこは俺が押さえる。お前は板を」
村人が隣へしゃがんだ。その手が布に重なるまで待ち、ユーゴは指を離した。ベルナールが頭の側を持ち上げる。ユーゴは足の側へ回り、両手を板の下へ差し入れた。
「段差がある。止まれ」
ベルナールが声を掛けた。ユーゴは踏み出しかけた足を戻した。早く運ばなければと思うほど、戸板の後ろだけが上がっていた。
「俺に合わせろ。揺らすな」
「……はい」
村への道は、祭りの準備で何度も通った道だった。
今は、小石一つで戸板が揺れた。ユーゴが歩幅を変えると、前を持つベルナールも変えた。脇を歩く村人は、布から手を離さなかった。
戸を開け放った家へ運び込むと、アンヌがいた。後ろにリネットがいる。
「ここへ寝かせて。ユーゴ、そこの端を持って。敷物がよれたままじゃ、体に当たるから」
アンヌは敷物を引き、空いた場所を指した。声はしっかりしていた。マルタンを下ろしてからも、水を運び、布を渡した。
手当てをする女が、傷を押さえて首を振った。
「もっと、布を。まだきれいなのが……あるでしょう」
アンヌが言った。
ユーゴは取りに行こうとした。リネットが、もう持ってきていた。彼女の手から受け取ろうとして、指がぶつかった。
マルタンの呼吸の間が、長くなっていた。
「父さん」
リネットが呼んだ。さっき、肉の皿をねだったときと同じ呼び方だった。
マルタンは口を動かした。何も聞き取れない。ユーゴは顔を寄せたが、次の息を待つことしかできなかった。
待った。
アンヌが夫の肩に触れた。揺すらず、ただ触れていた。
ベルナールが、低い声で名前を呼んだ。
ユーゴは持っていた布を見た。まだ、渡していなかった。
リネットの声がもう一度した。今度は、父さん、の途中で切れた。
マルタンは動かなかった。
布を置こうとすると、ユーゴの手が震えた。両手で押さえても、止まらなかった。




