第50話 山の向こうへ届けるもの
机の上では、品物より空いた場所の方が広くなっていた。
ロレへ戻ったユーゴは、護衛に包みと預けていた剣を戸口へ置いてもらった。ロゼットが革鞄の口を開け、机と帳面を見比べている。巻いたスクロールを収める仕切りが、いくつも空いていた。
「フィンが来てくれることになった」
ロゼットの筆が止まった。
「森の長は、何て?」
「人間の所で起きていることを調べて、森への影響を確かめろって。数日は家と巡回の引継ぎがある。ロシュベルの領都のギルドで会う約束をした」
「それなら、私たちが工房へ行っていても会えるわね」
彼女は帳面の端へ行き先を書いた。ユーゴは、森で交わした話を続けた。枯れた木のこと、人を村へ出している間は巡回が手薄になっていたこと。帰りを待つ家族がいることも。
ロゼットは荷を詰める手を止めて聞き、空の仕切りを指で広げた。
「また必要になった時、同じ人に同じだけ頼めると思わない方がいいわね」
「俺たちが買って戻れる物は、戻したいな」
「ええ。そのための仕入れよ」
帳面をこちらへ向けられた。村の名と品名が並び、その横に必要な数が書き込まれている。
「医療と衛生の品は、ロレでずいぶん使った。浄水用も補いたいし、修理に使う部品や鉱石、術式用のインクも足りない。今残っている物だけ持って村を回っても、直せないと言って帰ることになる」
「向こうなら、揃う?」
「全部一度には分からない。でも、古い規格のブランクを扱っている工房や、違う仕組みで作っている所が残っている。ここで手に入るのと同じ品だけ、また山ほど買うのは避けたいの」
まだ術式を入れていないスクロールのことだと、彼女は空の仕切りを示した。客に合わせて自分で作るためにも、まずその素になる品が要るのだった。
ユーゴは、空いた仕切りから彼女へ目を戻した。
「新しい品にも、動いたものがあったよな」
「あったわ。だから新しいものを全部やめるとも、古いものなら絶対に止まらないとも言えない。使う場所と用途を聞いて、別の選択肢を持っておきたいのよ」
ロゼットは一つの品名の下へ、細く線を引いた。
「行った先で売り先を増やすより、まず待っている人の分。ここに名前がある人たちは、前に私から買ってくれた人たちだから」
ユーゴは帳面を押し戻さず、端を押さえた。グランジュでは干し草の匂いがした。ベルフォンでは、作業の途中でも醸造槽から目を離せない人がいた。この短い欄のどれにも、何日も続く仕事がある。
「重い物を買うなら、帰り方も考えないとな」
「そこも含めて商売。持てるだけ買うのと、届けられるだけ買うのは違うわ」
彼女は言いながら、まだ空の欄を一つ残した。
*
森から戻っても、翌朝すぐに山へ向かったわけではなかった。ユーゴは傷の手当てを続け、ロゼットは仕入れと道中の支度を進めた。
出発前、二人はエステルの確認を受けた。
以前、ユーゴが寝ていた場所には、今は畳んだ寝具が置かれている。通路の邪魔にならないよう端へ寄せたのは、自分だった。
エステルは記録をめくり、森を訪ねた間のことも尋ねた。新しい発疹や熱はないか。具合の悪い人の世話や、感染する可能性のある接触はなかったか。ユーゴが答えた後、ロゼットにも同じように確かめる。
「前に観察を終えてから、新しく数え直す必要のある接触はありませんね」
エステルが最後の欄へ目を落とした。
「ええ。患者さんの所へは、担当の人に任せていました」
エステルは腕と胴、脇腹の傷も確かめた。森への往復で悪くなった所はなく、その後も傷は閉じたままだった。歩くだけでなく、旅の荷を持ち、剣を扱う動きまで段階を踏んで確かめてきた。
「体調も戻っています。二人とも、旅に出て構いません。途中で変化があれば、無理に次の町まで歩こうとしないでください」
ユーゴは思わず背筋を伸ばした。
病床で食器を受け取るしかできなかった日には、こんなに長くここにいるとは思わなかった。回復した後も、もう大丈夫だろうと自分で区切らず、決められた観察を続けた。今日、出てよいと言われるのは、ただ元気になったと言われるより嬉しかった。
「分かりました。先生も、ちゃんと休んでください」
エステルは記録から顔を上げた。
「その言葉は、山で急ぎすぎた時にも思い出してくださいね」
隣でロゼットが小さく笑った。ユーゴは何も言い返せず、荷を持ち直した。
村の仕事はまだ続いていた。起きられるようになった人が鍋を洗い、別の人が家畜の世話へ向かう。ユーゴは井戸端で声をかけられ、道具を返した相手に手を上げた。代わりに働いてくれる誰かを探して走り回らなくても、その先へ歩いていけた。
*
山へ入ると、空の見える幅が狭くなった。
木々の間を抜ける道は、折れ曲がるたびに傾斜を変える。低い所には湿った落ち葉が重なり、上へ行くほど、風に触れる頬が冷たくなった。ロゼットの大きな革鞄が、段差を越えるたび背中で揺れる。
ユーゴは彼女の靴が石の端へ乗ったのを見て、歩幅を縮めた。
「その鞄、少し分けてくれないか」
「かなり減ってるのよ。ロレ村へ来た時より、商品はずっと」
「でも、坂は増えた」
振り返ったロゼットが、少し息を吐いた。
「……それは、減らせないわね」
道幅のある所で止まり、ユーゴは自分の荷を置いた。彼女が鞄を開き、工具の包みと予備の部材を取り出す。
「使う道具は一緒にしておきたいから、この二つをお願い。壊れる物はこっちに残すわ」
受け取ると、包みは見た目よりずしりと重かった。ユーゴは背中の荷へ収め、左右の釣合いを変えた。足を曲げ、柄に手が届くことも確かめる。
「全部渡してくれてもいいけど」
「あなたが転んだら、私に持ち上げられない荷が出来上がるわよ」
もっともだった。ユーゴは口を閉じ、結び目だけを締め直した。
歩き始めると、彼女の靴は段差の上へきちんと乗った。ユーゴも、前を行きすぎずに済んだ。
坂が緩み、二人で並べる道幅になった。ユーゴはロゼットの腰の魔導銃へ目を向け、それからロゼットの顔を見た。
「なあ、ロレ村で魔獣と戦った時のことなんだけど」
「何?」
「リシュアンの火は魔獣に効いてたよな。ロゼットの魔導銃は、雷も火も、あの膜に消された。同じ魔法なのに、どうしてあんなに違ったんだ?」
ロゼットは足元の石を避け、少し考えてから答えた。
「多分、魔法の力が全然違うのよ。リシュアンさんが込められる魔力と、私の銃で出せる力とでは」
「ロゼットが使う時とは、そんなに違うのか」
「私自身の魔力は、すごく弱いの。スクロールに術を書き込むことはできても、自分の力だけで炎を出したり、風を起こしたりはできないのよ」
ユーゴは彼女を見た。銃から雷を放つところも、スクロールを書き換えるところも見ている。そのどちらもできる彼女が、炎を出せないというのは意外だった。
ロゼットが道の端で足を止めた。
「ちょっと、手を出してみて」
ユーゴは右手を差し出した。ロゼットが、その手の甲へ指先を近づける。
ちくり、と痛みが走った。
「っ」
針の先で突かれたような、一瞬の痛みだった。思わず引いた手を見ても、傷はない。
「今のが、私の雷魔法」
「……今の?」
「これでも、私が自分の魔力で使える中では、最大級の攻撃魔法なのよ」
ロゼットは少し困ったように笑って、手を下ろした。
ユーゴは手の甲をさすった。もう、どこが痛んだのかも分からない。彼女の銃から飛び、魔物の動きを止めていた雷とは、まるで違っていた。
「じゃあ、銃で撃ってた雷は、ロゼットの魔力で出してるんじゃないんだな」
「ええ。道具に蓄えられている魔力を使うの。スクロールも同じ。あらかじめ魔力が蓄えられているから、私が書き込んだ術でも使える。術を書くことと、それを働かせるだけの魔力を出すことは、別なのよ」
二人はまた歩き始めた。ユーゴは、彼女から預かった工具の包みが背中に収まっているのを確かめた。銃も、売り物のスクロールも、その手で使えるようにしてきたものだった。
「でも、銃で出せる力でも、あの膜は破れなかった」
「そうね。リシュアンさんの魔力くらい強ければ、通るんだと思う。ただ、何がどれだけ違うのかまでは、あの場で確かめられなかったわ」
ユーゴは、狼を包んだ火球を思い出した。地面へ倒れ込んだ頬にも熱が届き、それまで傷のなかった胸に、焼けた跡が残っていた。
「同じ火でも、当たれば同じってわけじゃないんだな」
「ええ。それと……グランジュのゴブリンも、私と同じだったのかもしれない」
「杖を使ってたやつか?」
「自分の魔力だけでは魔法を飛ばせなくても、魔導石に術を書き込めば、そこに蓄えられた魔力を使える。だから、あの石を使ったんじゃないかしら」
ユーゴの目に、洞窟の奥から向けられた粗末な杖が浮かんだ。木片のついた石は、今はリシュアンに預けてある。
「書き込めるだけの力は、あったのかもな」
「そういうこと。もともと何に使われていた石なのかは、調べてもらわないと分からないけれど」
足元に木の根が張り出していた。ユーゴはそれを越え、ロゼットが続くのを待った。彼女は鞄を揺らさないよう足を置き、また隣へ並んだ。
しばらく登るうち、風とは違う音が混じり始めた。
最初は木々が一斉に揺れているのかと思った。枝が静まっても低い響きは消えず、曲がり角へ近づくほど大きくなる。ロゼットも顔を上げた。
「水の音?」
岩の張り出しを回ると、森が途切れた。
向かいの高い岩壁から、白い水が落ちていた。上の縁を越えた流れが途中で広がり、細かな筋へ裂け、それでも下へ着く頃には一つの大きな音になっている。底の水面はしぶきに隠れ、流れ出た水だけが谷の奥へ光っていた。
ユーゴは足を止めた。
フルーリで見慣れた水路を、何本集めたらこうなるのだろう。数えようとしても、落ちる水は次々と新しい水に替わる。
霧のようなしぶきが頬へ届いた。汗で熱かった皮膚が、急に冷える。
「……大きいな」
言ってから、ほかに言い方はないのかと思った。隣のロゼットは何も茶化さず、白い流れを見上げていた。
道の脇に乾いた石のある場所を選び、二人は荷を下ろした。濡れた縁へは近づかない。ユーゴが水筒を取ると、ロゼットは立ったまま山の上を見た。
「もう少し上まで行ってからでも――」
言い終える前に、彼女は一度息を継いだ。坂では聞こえなかった呼吸が、足を止めて初めて分かった。
「ここは涼しいから少し休もう。暗くなる前に峠へ着くには、途中で歩けなくならない方がいい」
彼女は鞄の肩紐へ触れ、やがて石へ腰を下ろした。
「待ってる人の顔を考えると、止まりにくくなるのよ」
そう言いながら、彼女は靴の紐を緩めた。ユーゴも踵を確かめ、水を飲み、腰を下ろすと、脚の重さがはっきりした。
会話が途切れても、滝の音があった。
ロゼットの指先が、膝の上で止まっている。帳面をめくることも、品物を数えることもしていなかった。ユーゴも先の道から目を離し、岩壁を落ちる流れをしばらく眺めた。
立ち上がる時、彼女はもう一度滝へ顔を向けた。
「次に来る時も、ここで休みましょうか」
「その時は、もう少し軽い荷で」
「帰りは仕入れの後よ」
ユーゴは肩紐へ腕を通しかけて、彼女を見た。ロゼットが笑った。
「全部背負わせるつもりはないわ。届け方も仕事だって言ったでしょう」
二人は荷の締まりを確かめ、道へ戻った。歩き始めた脚は、さっきよりよく上がった。滝の音が背中へ遠ざかる頃、木々の上に、山頂へ続く明るい空が見え始めた。




