第49話 森を離れる理由
前にこの道を歩いた時は、背中の包みがやけに軽かった。
手紙と症状の記録。それだけで助けを求めに来たのだと、ユーゴは木々の間を見上げた。今は返すべき言葉がある。病床から起き上がった人の顔も、自分の腕に出た小さな発疹も、思い出せた。
リシュアンを見送った後も、ユーゴは数日を村で過ごした。
エステルの治療と、医療のスクロール、フィンが用意した薬草。傷の手当ては毎日続いた。初めは寝床から戸口まで。次には家の前へ出て、戻ってから傷の具合を見てもらった。歩けたからと桶を持とうとすると、その手からロゼットが取っていった。
やがて布に血がにじまなくなり、村の道を歩いて戻っても、脇腹を押さえずに座れるようになった。けれど、剣を振る稽古はまだ許されなかった。
ユーゴは自分で森へ礼を伝え、目の前で起きたことを自分の言葉で伝えたかった。フィンと一緒に長へ戻ると約束もしていた。
「急ぐ記録は、先に渡せますよ。あなたが運ばなければ届かない物ではありません」
エステルに言われ、ユーゴは頷いた。
「分かってます。でも、行けるようになったら、自分で話したいんです」
許しが出たのは、歩いた後の傷と体調を何度か確かめてもらってからだった。荷は持たず、休みながら進む。森では一泊し、戻る朝にも具合を確かめる。痛みやふらつきが出たら、そのまま歩き続けない。
その間にクラリスが護衛とともにロレへ来た。領主の代理として森へ謝意を伝え、補償を話し合いたいという。
「今日は話しに行く人なんだな」
「その仕事をしてきて。荷運びまで引き受けてこないでね」
出発前、ロゼットはそう言って、彼の小さな包みをフィンへ渡した。彼女は村で仕入れの準備を続ける。ユーゴは帰りの予定を確かめてから、皆と歩き出した。
森の境界で訪問の確認を受け、集落へ向かう。フィンは枝が道へ張り出す所で立ち止まると、後ろを確かめてから先へ進んだ。
以前よりゆっくり歩き、道が開けた所で腰を下ろす。フィンが水袋を渡してくれた。先を急ぐ足音は聞こえず、クラリスも護衛とともに待っていた。ユーゴは水を飲み、息が落ち着いてから立った。
途中で、葉のない低木が続いた。ユーゴが乾いた枝の先を見ると、フィンは歩みを緩めた。
「前から、ここだけこうだったのか」
「いや。広がっていないか、巡回のたびに見ている」
少し先には葉のある株が残っていた。フィンはその足元を確かめ、道へ戻る。村でスクロールが働くようになっても、枯れた枝はそこにあった。
クラリスは護衛に道を切り開かせなかった。頭を低くして枝の下をくぐり、道端でこちらを見る人に会釈した。
「今日は、頼み事をするために来たのではないのですね」
集落で迎えた森の長が、彼女へ尋ねた。
「まず、お礼を申し上げに来ました。アルマン・ド・ボーシャンの代理、クラリスです。ロレへ届けてくださった薬草と、治療に当たってくださった方々のおかげで、多くの領民が助かりました」
クラリスが深く頭を下げた。ユーゴも隣で頭を下げる。
「俺も、薬を分けてもらいました。病気は軽く済みました。それから、魔獣にやられた傷にも、フィンの薬草を使ってもらって。まだ荷は持てないけど、今日は自分で歩いて来られました。最初に頼みに来た時、村へ一緒に戻ってくれて、ありがとうございました」
口にしてみると、自分の礼は短かった。村で見たことを全部話せば、日が暮れてしまう。それでも長は、ユーゴが顔を上げるまで待っていた。
「こうしてまた来られたのですね」
「はい」
「それを聞けたのはよかった」
長は座る場所を示した。クラリスも席につき、持参した書面を膝から下ろす。
「使っていただいた物資は領主側で補いたいと考えています。必要な物を伺ってもよろしいでしょうか。こちらの都合で、同じだけの薬草を買って届ければよいとは思っていません」
「採ればすぐ元のように生える物ばかりではありません。森の外で手に入れることもできないでしょう。採りに行く者も村へ出ていました」
「人手もですね」
「薬を届ける間、境界を見に行く回数を減らした者がいます。物を頂いてもその時間は戻りません」
ユーゴはフィンを見た。ロレで薬の包みを運んでいた時も、この男は森の方角へ何度も目を向けていた。
クラリスは書面へすぐ数字を加えず、長の話を聞いた。
「次にお願いする時は、どれだけの人が、どれほど村を離れるかも協議させてください。今回の補い方も、皆様の必要を伺って決めたいのです。何が必要かをこちらだけで決めて、礼を済ませたことにはしたくありません」
長が近くの者を呼んだ。薬草を管理する者にも話を通すという。護衛の一人が荷を寄せたが、クラリスはまだ包みを開けさせなかった。
*
礼の後でユーゴはロレ近くで見つけた石のことを話した。
地面に埋められていたこと。ロゼットとリシュアンが調べ始めたこと。そして、襲ってきた魔獣が、自分たちを追ったこと。
「逃げた方向にも来ました。剣を持っている俺だけじゃない。調べていた二人にも」
話すうちに、足元の感触が土から割れた地面へ変わる気がした。ユーゴは椅子に置いた手を握り直した。
フィンが、襲撃の位置と逃がした人々の動きを補った。村を狙った個体がいたこと、倒した後に普通の獣の死骸が残らなかったことも。
「その石は」
長が尋ねた。
「なくなりました。戦っている間に。持ち去った人は、誰も見ていません」
言い終えた後の静けさが長かった。
クラリスが、観測の写しを置いた。
「石がなくなった後、村の止まっていた品は再び働きました。ただ、石そのものの検証はできていません。魔獣の残した欠片と記録は、王都へ運んでいます。誰が置いたかもまだ分かりません」
「森の結界も、その石に止められていたと言えるのですか」
ユーゴは口を開きかけた。どちらも魔法が弱まった。時期も近い。けれど、森の結界の仕組みを、彼は知らない。
「俺には、言えません」
長は写しの石を見つめていた。
「こちらでは結界が弱まり、魔物が入り、草木が枯れた。病は外へ出た。人間のスクロールに起きたことと、無関係だと決めることもできませんね」
長の視線がフィンへ移る。
「外で何が起きているか、調べてきてください。使えなくなったスクロールと、その場所。森へどのような影響があるのか。分かったことだけでなく、分からなかったことも持ち帰ってほしい」
フィンは即座に返事をせず、膝の上で手を組んだ。
「私の巡回を、引き継いでもらうことになります」
「相談して決めましょう。ここに残る者と、外へ行く者が必要です」
ユーゴは、先ほど聞いた人手の話を思い出した。一人増える、と喜ぶだけでは済まない。その一人が見ていた道を、明日から別の誰かが歩くのだ。
「承りました。ユーゴたちと行きます」
フィンがこちらを向く。
「ロゼットにも伝えてくれるか」
「もちろん。助かる。でも、いつ出られる?」
「数日は必要だ。家に話をして、巡回を引き継ぐ。弓と矢も、山を越える支度も整えたい」
ユーゴは頷いた。明日には、と言わずに済んでよかったと思った。
*
協議の続きを待つ間、フィンはユーゴを家族のもとへ連れていった。
ロレで世話になった礼を、家にも伝えたかった。フィンの妻は話を聞くと、持ち帰った空の薬袋を受け取り、口の部分を広げて確かめた。
「今度はどちらへ?」
「山を越える。ロシュベルへ。それから、人間の魔法が止まる原因を追う。長からの任務だ」
袋を扱う手が止まった。
「村へ薬を届けるのとは、違うのね」
「ああ。帰る日は、まだ言えない」
子供がフィンの弓へ触れた。フィンはその手に自分の手を添え、弓を脇へ立てかける。
「また、薬を持っていくの?」
「薬も持つ。けれど、今度は森で困っていることを、外へ聞きに行く」
子供の指が、弓を離しても袖をつかんでいた。フィンは急いで荷を広げなかった。しゃがんで顔の高さを合わせ、戻る日がまだ分からないことを、もう一度伝えた。
ユーゴは戸口へ少し身を寄せた。待っているから大丈夫だと、代わりに言える話ではなかった。
妻が、空の袋を折り畳んだ。
「巡回の人にはあなたから話して。それから、持っていく物を全部出しておいて。途中で足りないと分かっても、取りに帰れないでしょう」
「そうする」
「帰りがいつか分からないのは分かったわ。どこへ行ったかまで分からなくならないようにして」
フィンは妻を見て頷いた。
ユーゴも、そこで口を開いた。
「俺たちの行き先も伝えます。ロシュベルでは冒険者ギルドへ寄るつもりです。その先が決まったら、知らせを出せる所を探します」
確実に毎日知らせるとは約束できない。それでも妻はユーゴへ顔を向け、頼みます、と言った。
*
翌朝、ユーゴはゆっくり体を起こした。前日の道を歩いた後も傷から血は出ず、横になって休んだ間に痛みが強くなることもなかった。
フィンとその具合を確かめ、帰りも荷は護衛に頼むことにした。ロレへ戻る支度をすると、フィンは矢束を置いて外へ出てきた。
「森に残る者への引継ぎが済んだら発つ。長から、外で調査の任務を示せるようにもしてもらう」
「俺たちは先に山を越えていいんだな」
「ああ。向こうの工房に、古い規格の品を探すのだったな」
「ロゼットが、村々で使える物を揃えたいって。買った後も、止まった品の話は調べるつもりだ」
「待ち合わせを決めておこう。道の途中で探し合うのは避けたい」
二人で行き先を繰り返した。ロシュベル領の領都、冒険者ギルド。先着した方が名を知らせ、泊まる場所も預けておく。
「ロゼットが工房を回っていても、それなら会える」
ユーゴが言うと、フィンの口元が少し緩んだ。
「見つけた物の前から、なかなか動かないからな」
「今回は仕入れだし、もっと動かないかも」
その先の道を考えると、初めて少し楽しみになった。フィンも一緒に工房へ入り、彼女の説明を聞く。その時には、自分より先に大事な所を尋ねる気がする。
クラリスは護衛とともに集落を辞した。森との協議を領主側へ持ち帰る彼女は、ロレまでは同じ道を戻る。
ユーゴが振り返ると、フィンはもう弓を持っていた。旅のために出るのではない。引き継ぐ相手と、巡回の道を歩くためだ。
「じゃあ、向こうで」
「ああ。ギルドで」
フィンが森の奥へ向き直る。ユーゴは前を向き、来た道へ足を踏み出した。




