第51話 向こう側にも道はある
最後の坂を登り切ると、風が正面から抜けていった。
ユーゴは足を止め、肩を持ち上げて荷の位置を直した。空が広かった。木々に隠れていた日の光が、山の端へ傾きながら、向こうの土地を斜めに照らしている。
「着いた」
後ろでロゼットが息を吐いた。彼女も最後の段差を越え、ユーゴの隣へ並ぶ。
見下ろす斜面の先には森が重なっていた。その向こうに、畑らしい色の違う面が続いている。細く光る筋が道なのか水なのか、遠い所は分からなかった。夕日は全てを同じ橙色へ染めながら、窪んだ所だけを深い影にしていた。
「あっちが、来た方だよな」
「ええ。ボーシャン領」
「フルーリもあるんだな、この中に」
ロゼットは遠くを見て、小さく頷いた。
「どれかまでは、見えないわね」
ユーゴにも分からなかった。だが、見分けられないことが、かえって遠くまで来たのだと思わせた。歩いている間は、次の曲がり角と、目の前の村しか見えない。あの広がりの中を何日も歩き、幾度も荷を下ろしていたのだ。
足元の石へ腰を下ろすと、太腿がようやく仕事をやめた。ロゼットも隣で革鞄を外した。肩紐の跡を服の上からさすり、しばらく空を見ている。
「あの朝は、領都へ行って、話を聞いてもらえば済むと思っていた」
彼女が言った。
ユーゴはロゼットの方へ顔を向けた。
「フルーリを出た時?」
「そう。結界が止まった理由を調べてもらって、私の道具のせいじゃないと分かれば、またいつもの巡回へ戻れるって」
風で彼女の髪が頬にかかった。払いのけた指が、そのまま膝へ戻る。
「私、帳面に予定を書いたままにしてあるの。何日にはここ、次はここって。もう、そのとおりには回れないのに」
「俺も、こんなに遠くへ来るつもりじゃなかった」
最初に借りた時と同じ剣が、腰にあった。柄の革も、免許皆伝の印も、今は自分のものだと分かっている。それでも、村の稽古場へ戻れば、ベルナールが明日の手順を決めてくれそうな気がする時があった。
グランジュで見た荒れた畑。ベルフォンの葡萄畑を渡る風と、洞窟の水音。ロレで寝床の間を運んだ湯の重さ。ここから眺めても、そのどれも見えなかった。
「畑は、広いな」
ユーゴが言うと、ロゼットは視線を戻した。
「歩いている時は、そう思わなかった?」
「思った。でも、ここからだと、あんなにある。それぞれに畑を見てる人がいるんだろ。水が出ないとか、干し草が乾かないとか、そういうことを毎日考えて」
彼女はすぐには答えなかった。やがて、鞄の留め具へ手を置く。
「買って帰れる物が、あるといいわね」
*
風が冷えてきた。ユーゴは立ち上がろうとして、隣の手が動かないことに気づいた。
ロゼットは留め具をつかんだまま、何もない斜面の先を見ていた。
「あの石、見つけなかったらどうなっていたのかしら」
「村のスクロールは、止まったままだったかもしれない」
「ええ。見つけてよかったとは思うの。でも」
金具がかすかに鳴った。
「私たち、まだ何も分かっていなかった。ただ、あそこにあるって気づいただけ。それで、殺そうとされたのよね」
ユーゴの目に、振り下ろされる魔獣の爪が浮かんだ。
襲ってきたのは獣の形をしていた。けれど、現れた時も、狙った相手も、腹をすかせて森から出てきた獣とは違っていた。
「次は、もっと気をつければいいって言おうとするの。でも、何に気をつけるのか、分からないわ。石に触る前から、あの近くへ行く前から、見られていたのかもしれない」
ロゼットが自分の手を見た。留め具から指を離し、膝の上で伸ばした。
ユーゴは景色へ目を戻した。誰があそこへ来たのか、どこでこちらを見ていたのか。いくら周りを見ても答えはなかった。
「俺も、相手が見えないのは怖い」
言うと、ロゼットが顔を向けた。
「あの時、次がどこから来るか分からなかった。全部見ていられるわけじゃない。フィンがいなかったら、気づけなかった」
「……そうね」
また黙った。下の森へ、長い影が伸びていた。
「でも、スクロールがまた止まっても、何も調べないことにはできないわ」
ロゼットは鞄の口を確かめ、留め具を掛けた。
「理由が分からないまま、次も大丈夫ですと言って売れない。私の道具でなかったと分かれば終わり、ではなくなってしまった」
「じゃあ、俺も行く」
彼女の手が止まる。
「行き先、まだ分からないのよ」
「一緒に探そう。俺に分からないことは聞くから、そっちも一人で決めないでほしい」
必ず守る、と言えればよかった。言ったところで、あの時よりもっと深い傷を負うことだって考えられる。
ロゼットは少し目を伏せた。それから、ユーゴの荷の上に載った工具の包みを見た。
「私も、怖いと思ったら言うわ。平気な顔をして、ついてきてとは言わない。それで、行くか戻るか、一緒に考えてくれる?」
「ああ」
留め具に残っていた彼女の手が離れた。ユーゴも、待たせていた肩紐を持ち上げた。
「明日は、まず下り道よ」
「それは分かる」
「その先は、工房。分からないことがたくさんあると思うわ」
「じゃあ、教えてもらう」
彼女が頷き、立ち上がった。ユーゴも荷を背負う。二人とも黙ったまま、最後にもう一度、夕日の当たる土地を見た。
*
山頂の宿には、もう明かりが入っていた。
戸を開けると、暖かい空気と煮炊きの匂いが顔に当たる。食堂の長い卓には旅人が並んでいた。商人が荷の行き先を話し、道具袋を足元に置いた職人が靴を乾かしている。壁へ武器を立てかけた客たちが席を詰め、後から入ってきた一組を通した。
「お二人で一組ですね。部屋はあちらです。寝台は二つあります」
帳場の従業員が鍵を置いた。
ロゼットが料金を確かめ、泊まりの手続きをする。その後ろでも、別の一行がまとめて名を告げていた。客が多い今日は、一組に一部屋ずつしか割り当てられないのだという。
階段を上がると、脚が急に重くなった。ユーゴは手すりに触れ、荷を壁へぶつけないよう曲がった。
部屋には、間を空けて二つの寝台が置かれていた。ユーゴは戸に近い方へ荷を下ろし、預かった工具を机へ置く。ロゼットは窓側の寝台へ鞄を置いた。
「乾いてる。包みも傷んでないわ」
「水しぶきがかかったかと思ったけど、大丈夫か」
「外側だけね。助かった」
短い言葉を聞くと、背中の重さがようやく取れた気がした。
湯は男女で分かれていた。案内された場所で泥を流し、温かい湯へ浸かると、脚の奥がじんじんした。ユーゴは明日の下りを考え、張った所をゆっくり伸ばした。
食堂で落ち合ったロゼットも、昼間より肩の力が抜けていた。二人は温かい食事を取りながら、宿の人に下山の道を確かめた。曲がる場所と、雨の後に滑りやすい所。彼女は工房の場所を尋ねる前に、ユーゴを見た。
「領都へ着いたら、まずギルドね」
「ああ。フィンへの伝言を預ける」
「それから、宿を決めましょう。荷を持ったまま工房を回っても、今日と同じことになるわ」
ユーゴはスプーンを持つ手で頷きかけ、こぼしそうになって器を寄せた。ロゼットは見なかったことにして、明日の順序を帳面へ書いた。
部屋へ戻る頃には、窓の外は暗くなっていた。
剣を手の届く所へ置き、ユーゴは寝台へ腰を下ろした。隣ではロゼットが帳面を閉じる音がした。
「昔の予定は、そのままでいいんじゃないか」
彼女がこちらを見る。
「何日遅れたかは、覚えておいた方がいいだろ。次に会ったら、待たせたって言えるし」
「……そうね。消しても、早く着いたことにはならないものね」
ロゼットは帳面を鞄へしまった。明かりを落とす前に、二人は起きる頃合いを決めた。
「おやすみ、ユーゴ」
「おやすみ」
横になると、湯で温まった脚が寝具の中で重かった。眠ろうと目を閉じても、夕日の筋がまだまぶたの裏に残っていた。
明日は、今日見た土地へ背を向けて下る。ユーゴは目を開けて剣の位置を確かめ、それから、もう一度目を閉じた。
第51章までお読みいただき、ありがとうございます。
フルーリ村から始まったユーゴとロゼットの旅も、ひとつの区切りを迎えました。
出会った人々の暮らしや、二人の関係の変化を、少しでも楽しんでいただけていたら嬉しいです。
次は、山の向こうのロシュベル領へ。
これからの旅も見届けていただける方は、ぜひブックマークをお願いします。
好きな人物や心に残った場面など、ひと言でも感想をいただけると励みになります。
引き続き、よろしくお願いいたします。




