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第47話 残ったもの、失ったもの

光の壁を、爪が引き裂こうとしていた。


 リシュアンは杖を支え直した。熊の肩を焼いた火は消えていたが、黒毛の下には傷が残っている。四つ足で迫り、立ち上がって腕を振り下ろす。そのたびに、傷ついた側を地面へつくのが遅れた。


 そこを見ながら、一歩下がる。


 石を調べていた場所は、獣の向こうだった。測定具を置いた低木へ戻ろうと足をずらすと、熊も向きを変えた。頭を低くし、道へ出る隙間まで塞いでくる。


 村へ続く道から、ロゼットの叫ぶ声が聞こえた。言葉は聞き取れない。続いて、何かが刃を弾く音がした。


 急いで攻撃へ移ろうとすると、爪が壁を叩いた。光の面に裂け目が走る。杖を握る手まで押し戻され、リシュアンは片膝を折った。


 先に、振らせなければ。


 息を吐き、壁を小さく張り直す。全部を正面で受けるのでなく、爪が落ちる先へ面を傾けた。重い腕が光の上を滑る。


 熊は踏み直そうとした。だが、焼けた肩側の前脚が体を支えるまでに間があった。


 その胸へ、風を叩きつけた。


 巨体がのけぞる。リシュアンは斜めに下がり、爪の届く距離を外した。息を吸い直して詠唱する。熊が四つ足に戻るまで、杖の先を下げなかった。


 火球が顔から胸へ当たった。


 短い黒毛が燃え、胸の板の間からも炎が噴いた。巨体は前脚を踏み出しかけ、そのまま横倒しになった。


 リシュアンは次の防護を構えた。まだ動くかもしれない。土を掻いていた爪が止まり、毛の縁が灰のように崩れ始めても、すぐには近寄らなかった。


 血肉が残らない。


 その異常を確かめたい気持ちを、道から響く剣の音が遮った。リシュアンは杖を下げず、倒れた体の脇を抜けた。



 猪の肩に刺さった矢が、幹へ擦れた。


 フィンはその音を聞き、次の木へ回った。前脚を傷めても、獣は逃げようとしなかった。長い牙が幹の横から突き出す。頭を振られれば、この幹だけでは身を隠しきれない。


 地面を蹴り、牙の届く先から離れる。


 走り出すたびに脚を使い、止まって弓を引けば息が乱れた。一直線に村の道へ向かうことはできない。後ろから追いつかれるだけでなく、あの牙まで連れていくことになる。


 木を挟み直した短い間に、新しい矢へ手を添えた。森で伝えられた言葉を唱え、鏃へ魔力を渡す。最初の、何も付与せずに放った矢は弾かれた。肩を貫いた一本と同じ手順を省けなかった。


 猪が幹を回り込んでくる。


 フィンは弓を引いた。猪が幹を回り、脇腹が見えた瞬間に放つ。着弾した所だけに現れた薄膜が砕け、矢が黒毛の中へ沈む。


 獣は止まらなかった。


 弦を戻した手で次の矢を取りながら、フィンは横へ走った。牙が服の裾をさらう。木の根を越え、振り向かずにもう二歩。背後で蹄が滑った音を聞いて、初めて足を止めた。


 傷ついた前脚が折れ、猪の肩が地面へ落ちていた。長い牙の先が土へ突き刺さる。それでも首を持ち上げ、彼へ向き直ろうとしていた。


 フィンはつがえた矢へ術を施した。自分の呼吸が狙いを上下させる。細く息を吐き、顎が土から離れるのを待った。


 放った矢は、顎の下を貫いた。


 薄膜が砕け、持ち上がりかけた頭が落ちる。蹄が一度土を掻き、その後は動かなかった。


 矢の根元から、黒いものが崩れた。血が流れる代わりに、体の輪郭がほどけていく。


 フィンは眉を寄せた。だが、道の方ではまだ金属の音がしていた。矢を回収するためにかがむことはせず、弓を持って走った。


 低木の切れ目にリシュアンがいた。互いに背後を確かめ、言葉を交わすより先に、二人は南西の道へ向かった。



 ユーゴは、狼の肩が動くより先に足を出した。


 村へ抜けようとする頭へ、剣先を寄せる。膜に弾かれた刃を戻すと、左腕の傷が引き攣った。今度の前脚は、避けきれなかった。


 剣を沿わせて軌道を逸らしたが、肩をぶつけられ、膝が地面へ落ちた。


 牙が来る。


 横へ転がりたい衝動を抑え、片足を道へ突っ張った。爪が土を掻く音と、自分の息が重なる。


 折れた柄を握る手が、脳裏をよぎった。フルーリの畑で、大熊を一人で食い止めていたマルタン。血に濡れながら、祭りへ行かせるなと言った声。村へ運んだあと、いくら待っても戻らなかった息。


 この後ろにも、人がいる。


 ユーゴは道へ突っ張った足に力を込めた。


「ユーゴさん、その線から離れて!」


 リシュアンの声だった。


 狼の後ろに、杖が見えた。ユーゴは杖先の向く線を外れ、草の薄い道の脇へ倒れ込んだ。


 火球が狼の肩から胸を包んだ。


 熱が頬を打った。狼の体が横へ跳ね、肩が落ちる。ロゼットの火では跡も残らなかった場所に、今度は焼けた毛と裂けた皮が見えた。胸の板にもひびが入っていた。


「立てるか!」


 フィンが矢へ手を添え、短く唱えた。猪の肩を貫いた時と同じ仕草だった。指を離し、弓を引く。


「ユーゴ!」


 村側の曲がり角から、ロゼットの声がした。走る足音も聞こえる。ユーゴは狼から目を離さなかった。


 ユーゴは地面を押した。起き上がる動きに合わせて狼が頭を振る。傷を負っても、まだ村へ向く隙を探していた。


 矢が飛んだ。


 狼の肩、板の継ぎ目で膜が砕けた。刺さった矢に押され、狼の前脚が傾く。


 そこだ。


 ユーゴは剣を大きく引かなかった。矢が開いた箇所へ刃を差し入れ、踏み込んだ足に体重を乗せる。


 腕と胴と脇腹がひどく痺れる。


 何度も腕へ返ってきた反発が、今度はなかった。


 刃が奥へ通る。柄を引き寄せると、獣が傾いた。ユーゴは剣を抜き、倒れてくる長い脚の外へよろめきながら離れた。


 狼は起き上がらなかった。


 剣を下げた途端、柄が指から滑った。


 拾おうとして膝を曲げたはずなのに、地面が急に近づいた。腕も、胴も、脇腹も、どこへ力を入れればいいのか分からない。


「ユーゴ!」


 ロゼットの声がすぐそばにあった。肩を支えられ、彼女の袖をつかもうとした。


「村は……」


「みんな、家の奥にいる。もう止めなくていいのよ」


 そうか、と言えたかどうかも分からなかった。


 彼女の顔が見えなくなった。


     *


 肩へ預けられた重さが変わった。


 ロゼットは膝をつき、ユーゴの頭が地面へ落ちないよう支えた。呼んでも返事がない。裂けた服の下で、胸が小さく動いていた。


「フィン、手を貸して。血が……」


 道具袋から布を出そうとした指が、留め具を滑った。二度目で開く。フィンが隣へ膝をつき、傷を押さえる手を引き受けた。


「村へ運ぼう。治療者を呼んでくれ」


 曲がり角まで来ていた村人へ、ロゼットはエステルの名を叫んだ。男が走って戻る。


 すぐ横で、黒い粉が落ちた。


 狼の脚が輪郭を失い、灰が光の粒へ変わって消えていく。胸の割れ目に、小さな硬いものが残っていた。


「工具を貸してください。あれだけでも採取しておきたい」


 リシュアンが言った。


 ロゼットは開いた袋から挟み具を出し、布とともに渡した。彼が杖を添えて欠片を抜き取る間、布の端を広げて受ける。包みを彼へ返すと、すぐユーゴへ両手を戻した。狼がいた場所には、もう運び出す体が残っていなかった。


 戸板を持った村人が来た。フィンとリシュアンがユーゴを載せ、ロゼットはその脇について村へ戻った。


     *


 エステルは寝床を空けさせ、ユーゴの服を傷から外した。


 左腕と、胴を横切る傷。脇腹にも血がにじんでいる。ロゼットは、戦っている間に見えた赤い染みが、一つの傷から広がったのではなかったと知った。


「呼びかけには?」


「倒れてから、返事がないの。さっきまでは立っていたのに」


「布をこちらへ。フィンさん、使える薬草を見せてください」


 エステルが手を止めずに言った。フィンが包みを開き、傷に用いるものと、その扱いを伝える。エステルは確かめて頷き、彼に準備を頼んだ。


 ロゼットは鞄から医療スクロールを出した。村で動かなかったスクロールだ。


 据えて、起動する。


 線が光った。


 もう一度手順を確かめても、光は消えなかった。午前中には暗いままだった線が、端から奥へつながっている。


「エステルさん、動いてる。ここで使えるわ」


 エステルは効果を確かめ、ユーゴの傷へ用いた。フィンが整えた薬草で処置を補い、エステルが血のにじみと呼吸を繰り返し見た。ロゼットは言われた器を渡し、使い終えた布を離して置いた。


 呼吸の間が少しずつ揃っていった。


 それでも、ユーゴの目は開かなかった。


「今は、治療を続けます。変わったことがあれば、すぐ呼んでください」


 エステルは寝床の脇に場所を空けた。ロゼットはそこへ椅子を寄せた。


 横たわるユーゴを見つめていると、フルーリの畑で戸板へ載せられたマルタンの姿が浮かんだ。横腹を押さえる手も、当てられた布も、血に濡れていた。


 大熊を一人で食い止め、村を守った人だった。村へ運び込まれたあと、次の息が戻らなかったと聞いた。ロゼットは結界のそばに残っていて、その最期には立ち会っていない。ロゼットの記憶にあるのは息をひき取った後のマルタンの姿だけだった。


 あの戸板の上の姿が、目の前のユーゴに重なった。


 掛け物がわずかに持ち上がる。下がる。次に動くまで、ロゼットは自分まで息を止めていた。


 この人が帰ってこなくなるんじゃないかという不安が胸を押し潰す。


 もう一度胸が上下したのを見て、ようやく息を吐いた。椅子に座り直しても、目を離すことはできなかった。


     *


 窓の明るさが薄れる頃、リシュアンとフィンが戻ってきた。


 ユーゴをエステルへ託してから、二人は魔導石の場所を確かめに行っていた。リシュアンの手には記録があったが、石を運ぶ包みはなかった。


「固定具ごと、なくなっていました」


 ロゼットは椅子から立たず、彼を見上げた。


「私たちが掘った場所から?」


「寄せた草も、窪みも残っています。場所は間違っていません」


「足跡が混じっていた。誰がどちらへ運んだかは、追えなかった」


 フィンが続けた。


 ロゼットはユーゴへ目を戻した。村へ向かう狼。それを追った二人の後ろを塞いだ、別の獣たち。


「引き離されたのね」


「発見した直後の襲撃でした。誰かが見ていて、私たちを消そうとした可能性があります。ただ、回収した者を見た人はいません」


 リシュアンは、紛失と記した欄を示した。ロゼットは自分が最後に石を見た時と、村へ走った順を答えた。


 動かなかったスクロールが村内で再び働いたことも、記録へ加わった。石との関係は疑えるが、現物を並べて確かめることはできない。


「村長さんから領主様へ知らせてもらいましょう。王都へは領主様からクラリス様へ、そこからレイモンさんへ。同じ内容が届くように」


「ええ。詳しい記録は後で送ります」


 リシュアンが書面を閉じる。エステルは村外の治療場所も残すよう頼んだ。働くスクロールが増えても、病気まで消えたわけではない。


 しばらくして、村長が用意した領都宛の通信スクロールも作動したと知らせが来た。襲撃と装置の発見・紛失、スクロールの変化は送れたという。


 ユーゴだけが、その話を聞いていなかった。


     *


 夜になっても、ロゼットは椅子を離れなかった。


 エステルが傷を確かめに来るたび、布を替える間だけ手をどけ、終わるとまた寝床の縁へ戻した。指が冷えている気がして、布の上から包む。握り返してはこなかった。


 自分が村へ走った後も、彼はあの場所へ戻り続けたのだ。


 ロゼットは顔を伏せた。足音が近づくと、目元へ触れてから顔を上げた。


「少し休んでください。ここは私が見ています」


 エステルが言った。


「ここにいても、邪魔にはならない?」


「それは、なりません」


「なら、ここにいる」


 差し出された水は受け取った。食事も、寝床の脇で少しずつ口に入れた。ユーゴが動いた気がするたびに、器を置いて顔を覗き込んだ。


 夜が明け、窓から差す光が床をゆっくり移っていった。


 まだ、目は開かない。


 起きたら、何と言おう。怖かったと話せば、彼はまた、自分が悪かったと言うかもしれない。ずっとここにいたことも、知ってほしいわけではない。


 ロゼットは乱れた袖を直し、寝床の横へ椅子を寄せ直した。


     *


 最初に気づいたのは、腕を動かせないことだった。


 何かに留められたのかと思い、力を入れる。胴から脇腹へ痛みがつながり、息が止まった。


「動かないで」


 ロゼットが顔を寄せた。


 見たことのある天井だった。ロレの村だ。剣も、狼も見えない。腕には布が巻かれ、上着の代わりに薄い掛け物が胸までかかっていた。


「……倒したんだよな」


「ええ。三体とも。村の人も無事よ」


 ユーゴは息を吐いた。そこで初めて、彼女が椅子に座っていることに気づいた。


「俺、どれくらい」


「昨日の今頃から。丸一日よ」


 窓へ顔を向ける。同じ午後の光なのに、一度、夜を越えていた。


 エステルが呼ばれてきた。問いかけに答え、傷を確かめてもらう。フィンも薬草の包みを持って入ってきた。


「村へ運んだ後、止まっていた医療のスクロールが働いたんです。傷の処置に使えました。フィンさんの薬草も合わせて、治療を続けていました」


 エステルが説明した。


「目が覚めたからといって、すぐ歩き回ってはいけません。今日はここで休んでください」


「……はい。ありがとう。みんな」


 ロゼットは水の器へ手を伸ばした。


「飲めるか先に確かめてもらって。話は逃げないから」


 彼女の目元は赤かった。聞こうとすると、器を受け取る手を支えられた。ユーゴは礼を言って、少しずつ飲んだ。


     *


 息をつけるようになってから、ユーゴはさっきの説明を思い返した。


「ここで、スクロールが動いたって」


「ええ」


「あの石を外したから?」


 ロゼットは器を置いた。すぐに答えず、フィンを見た。


「俺とリシュアンが戻った時には、もうなかった」


 ユーゴは顔を上げた。


「なくなった?」


 フィンは寝床の横へ椅子を持ってきた。ユーゴを運んだ後で、茂みへ戻ったこと。掘った場所と寄せた草はそのままで、石と固定具だけが消えていたこと。混じった足跡からは、運んだ者を追えなかったこと。


 聞いているうちに、ユーゴの手が掛け物を握った。


 自分で土を払った、あの硬い縁。村で何が起きたかを確かめるために持ち帰るはずだった物だ。


「俺が真っ先に村の方へ行かなければ」


「行ったから村で犠牲がなかったんでしょ」


 ロゼットが言った。


「でも、残せたものもあるのよ」


「何が?」


「狼の胸から取れた欠片。体が消える前に、回収できた。それと、測った結果と、石を見て写した記録」


 死骸まで残らなかったと聞き、ユーゴはしばらく黙った。最後に刃が通った感触は覚えている。その先を、ほかの人に教えてもらっていた。


「誰が持っていったかは、分からないんだな」


「ああ」


 フィンが答えた。


 ユーゴは掛け物から手を離した。腕を持ち上げようとして、今度は途中でやめた。


「俺が最後に見た所なら、話せる。石から離れる前のこと」


「聞きます。少しずつで構いません」


 入口からリシュアンの声がした。記録を抱えていたが、筆を出す前にエステルへ目を向けた。彼女が短く話すだけなら、と頷く。


「あの獣は、普通の獣だったんですか」


「自然に育ったものとは考えにくいです。人為的に組まれたものを疑っていますが、生物を作り出す魔法が実在するなんて話は聞いたことが無い」


 リシュアンは記録を開いた。ユーゴは土を掘った時のことから話し始めた。


 ロゼットが椅子の位置をずらし、リシュアンのために場所を空けた。彼女がいつからそこに座っていたのかを、ユーゴは知らなかった。


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