第46話 村へ向く牙
光から、爪が出る。
村へ戻る細い道に、黒い獣が立ち上がった。狼だ、とユーゴは思った。だが、四本の長い脚の上にある胴は、見慣れたものよりかなり大きい。短い黒毛の間から板のようなものが生え、脇から胸と腹を包んでいる。
頭の上から鼻先まで、白い筋が一本通っていた。その両脇の黒い眼がユーゴを捉え、すぐに南西の道へ向いた。
あの先は村だ。
「待て!」
ユーゴが剣を抜いて追うと、ロゼットも記録の袋を押さえて走り出した。
リシュアンが二人を呼び、振り返りかけた視界へ大きな黒い背がせり上がる。東の低木を照らしていた光から出た獣が、道へ踏み出しリシュアンの前を塞いだ。
熊に似ていた。四つ足のままでもリシュアンの腰より高く、後脚で立つと、尖った耳が低木の上へ抜けた。胸から腹へ重なる黒い板も、鼻先へ通る白い筋も、狼と同じだった。
前脚が振り下ろされる。リシュアンは咄嗟に掲げた杖の先で光の壁を作り爪を受けた。
「ユーゴさん、ロゼットさん、先へ! 村へ向かったのを止めてください!」
さらに右で、フィンが跳び退いた。
低木の間から長い牙が突き出し、彼のいた場所を薙ぐ。猪の形をした黒い巨体が、蹄で土を蹴って追ってきた。頭頂の白い筋が、低い枝の下へ潜る。
フィンは脇に生えている幹の裏へ体を隠す。追おうとする牙が幹に当たり、樹皮を剥いだ。
リシュアンとフィンの方をしっかり確認する余裕はなかった。狼の長い後脚が、村へ続く曲がり角へ迫っていた。
「ユーゴ、脇へ!」
ロゼットが銃を上げた。
ユーゴは何が来るのかをすぐに理解し、道脇の草へ踏み込み、斜線を空ける。氷が狼の足元へ走った。前脚の踏み出しが少し鈍り、体がわずかに傾く。
今しかなかった。
ユーゴは氷の外を回り、狼の鼻先を越えた。南西の村を背にして、剣を横へ振る。
胸の板と首の間。毛の薄いそこへ、刃が届くはずだった。
何もなかった空間に、薄い膜が現れた。
剣が弾かれた。反動で肘が開く。同時に狼が足を引き抜き、砕けた氷を蹴散らした。
ユーゴは剣を引き戻しながら身をひねった。牙が肩の横を通る。後ろへ一歩逃れたが、そのまま二歩目は退かなかった。もう一歩退けば村への道を空けてしまう。
狼がユーゴを見る。膜はもう見えなかった。
ユーゴのすぐ後ろに曲がり角があり、狼の両側は茂みが迫っている。ここを抜かせなければ、村への細道に立っていられる。
硬い所を斬ったのではないのに、肉にも毛にも触れる前に、剣が止められた。
*
「離れて。雷を使う!」
ロゼットは狼の斜め後ろ、道の縁に立っていた。ユーゴが横へ少し退くのを待ち、銃口を振る。
雷が黒い体へ走った。
音に肩が縮んだ。だが、狼の脚は折れなかった。頭を下げたまま、空いた道へ踏み出す。
ユーゴは剣先を鼻へ向けた。また、先端の触れる所だけが薄く光った。獣が牙を開く。彼は刃を抜き取り、横から来る前脚を避けて道の中央へ戻った。
「効いてない!」
「見えてる。次は、足を――」
ロゼットが氷へ替えた。狙いを脚へ絞った一射が、黒毛を白く覆う。狼が踏み出すと、その白さは砕け、残った氷も消えた。
ユーゴは今度こそ斬り込もうとしていた。狼の踏み込む前に自由になった脚が、顔の高さまで上がる。
爪の先が頬を掠め、熱い筋が残った。
ロゼットが息を呑んだ。
「火を試す。土のある方へ寄せられる?」
足元を見る。曲がり角の内側は、草の薄い踏み固められた土だった。ユーゴはそちらへ半歩ずつ移り、狼が追って体を向けるのを待った。銃の先には家も、人もいない。
「今だ!」
炎が狼の肩へ当たった。
黒毛に燃え移るより早く、火は押し潰されたように消えた。焦げ跡も残らない。ユーゴは一瞬だけ、撃った後の銃口を見てしまった。
狼が走った。
腕を引きつけて剣の腹を前脚へ沿わせ、体ごと押し返す。触れた場所に膜が生まれ、柄が掌の中で跳ねた。爪をまともに受けずには済んだが、その先が左腕を裂き、続いて狼の肩が傷口を打った。
足が流れる。踏みとどまったところを、二本目の爪が胴を裂いてくる。服の内側へ温かいものが伝う。
ロゼットが銃を持ち直した。
「もう一度――」
「同じ所に撃つな。銃じゃあいつを止められない」
ロゼットの指が止まった。彼女は狼と銃を見比べ、唇を噛んだ。
魔導銃のおかげで追いつけた。それでも、これを倒すための一発にはならなかった。
*
道の向こうで、風が唸った。
狼の向こうで熊の巨体がよろめくのが見えた。リシュアンが杖を向け直す。次に飛んだ火球が肩へ当たり、今度は炎が黒毛を焼いた。
同じ火に見えたのに、こちらの狼に当てた時とは違う。
理由を考える間もなく、熊は四つ足へ戻って突進した。リシュアンの光の壁が爪を受け、彼の姿が巨体の陰へ隠れる。
「こちらも抜けられません。もう少し耐えて!」
声だけが届いた。
狼の肩が沈んだ。ユーゴは正面の立ち、噛みついてきた頭を避け、狼の胸に剣を突き刺すがやはり弾かれる。
踏み直した先で、木立の間が一瞬、フィンの姿が見える。
木の間で弦が鳴る。猪の胸元に薄膜が現れ、矢が横へ跳ねた。フィンは命中を待って立ち止まらず、次の幹へ走っていた。
「普通の矢は駄目だ。森の魔法を使う!」
次に彼が取り出した矢には、手を添えて言葉を落とす間があった。木々の間へ猪を引きつけ、身をかわして放つ。
猪の肩口で薄い光が砕けた。矢が弾かれずに残り、猪の前脚が沈む。
フィンがまた横へ動いた。猪の長い牙が、先ほど彼の立っていた所を突き抜ける。
二人とも戦っている。だが、こちらへ来る道がない。
ユーゴが狼へ視線を戻すと、黒い眼は彼の肩越しに向いていた。
曲がり角の先から、人の話す声がした。村ではまだ、この三体を見ていない。
「ロゼット。先に村へ行ってくれ」
彼女は答えなかった。
「家の前にいる人を、奥へ。寝ている人も、道から離してほしい」
「あなたを置いて?」
狼が踏み出す。ユーゴは返事を切り、剣先を下げずに間へ入った。前脚の振りに合わせて身を引き、獣が通りたい側へ足を戻す。
ロゼットは狼の脇を大きく回り、ユーゴのいる村側まで下がった。銃は向けたままだった。
「その体で、どれだけ止められるの。剣も弾かれてる。 私が行った後、通さないって言っても……」
「ずっとは無理だ」
言うと、彼女の目が腕と胴へ落ちた。
牙が剣先を追った。ユーゴは刃を引きながら左へずれ、ロゼットを背に庇い直した。
「だから今行ってほしい。あの道に人がいたら、退くこともできない。逃がしてもらえたら、俺も下がれる」
ロゼットが背後を見た。家は曲がり角の先で見えなかった。聞こえてきたのは、荷をどこへ置くかを尋ねる声だった。
「こいつを行かせたくない。頼む」
狼が頭を低くした。
ロゼットの銃口がその頭を追い、止まった。彼女は引き金へ掛けていた指を外した。
「村の人に知らせてくる。避難できたら戻るわ。それまで、ここで倒してしまおうなんて考えないで」
「ああ。止めるだけだ」
彼女は一度、彼の顔を見た。ユーゴは頷いた。それを受け取ってから、ロゼットは村へ走った。
*
足音が曲がり角の向こうへ消えると、道は急に広く見えた。
狼は追おうとした。
ユーゴは剣を鼻先へ突き出した。膜に弾かれるより先に引き、噛みつきに出た頭を横へかわす。斬れないと知っていても、近づけば牙は彼へ向く。それを使うしかなかった。
左へ来ると見て足を出した。狼は止まり、反対側へ蹴った。
間に合わない。
ユーゴは伸びた前脚へ剣を添えた。反発を腕で押さえ込まず、肘を畳んで逃がす。体を寄せた分、爪が脇腹の服を裂いた。
焼けるような痛みが走った。息を吐き、次の一歩を出す。
狼の顔が、まだ自分の方を向いていた。
横へ逃げ切るだけなら、できたかもしれない。だが、いつものように相手の外へ大きく回れば、そのまま村へ通してしまう。避けた後に戻る場所まで決めておかなければならなかった。
腕の血が肘まで伝った。押さえたかったが、手を離せば剣の反発を支えきれない。左手を柄へ添えたまま、狼の肩の動きを見た。
村から叫ぶ声が上がった。
「建物に入って! 荷物は置いて、すぐに中へ!」
ロゼットだ。
ほかの声が応じた。誰かを呼び、戸を開ける音がした。ユーゴは振り返らなかった。何人が入れたのか、まだ聞くことはできない。
狼が体を揺らしながら足を動かす。
ユーゴも同じ方へ寄る。剣を握った指が痺れ、柄の位置を直すのに、さっきより時間がかかった。
刃の先を低くしすぎるな。息を止めるな。
稽古で何度も戻された構えへ体を戻す。腕には十分な力が入らない。胴と脇腹の痛みを動く足で支えた。
次に狼が向いた先へ、ユーゴもまた自分の足を置いた。




