第40章 森にも守るものがある
畑の間を抜けると、車輪の跡が細くなった。
ユーゴは朝のうちにロレを出た。身支度と包みを確かめてもらい、村長に聞いた道を歩く。後ろで鳴っていた食器や荷車の音は、もう聞こえなかった。
一時間ほど進んだ先で、木々が近づき森に入る。徐々に木々や草木に囲まれ薄暗い森の中でまるで敵軍の中で喉元に剣先を突きつけられているような感覚を覚える。
村から見えていた森は、一枚の薄暗い壁ではなかった。手前の低い枝の奥に幹が重なり、その間に草木が茂り、辛うじて細い通り道があるだけだった。
ユーゴはそこで止まった。
「誰か・・・いますか。ロレから来ました」
声が木の間へ入っていく。返事を待つうち、左の低い枝が動いた。
「そのまま。剣に触るな」
いつの間にか、男が立っていた。
茶色の髪を後ろで束ね、顎には短い髭がある。葉に似た色の外套が枝に紛れ、さっきまで人の形に見えなかった。片手には木の弓。もう一方の手は、矢をすぐ取れる位置にあった。
ユーゴは腰へ寄りかけた手を離した。枝の音に体が先に反応していたのだと、遅れて分かった。
「抜かない。話を聞いてほしいんです」
「何の用だ」
「村で病人が増えています。王都と領都から支援が来ているんだけど、全然収まらなくて。もしかしたら、森の人々が何か知恵があるんじゃないかって、確かめてもらいたくて」
男は森の外へ目を走らせた。
「ほかには」
「俺一人です。病人は連れてきていません。手紙と、熱が出た順や、治療の記録を持ってきました。荷を開けてもいいですか」
男が頷いてから、ユーゴはゆっくり包みを出した。
「村長と、治療をしている人からです。体と持ち物は、出る前に言洗ってきました。でも、それで何も持ち込まないって、俺には言い切れない」
弓を持つ手が、わずかに下がった。
「そっちへ行くが、そこで動くな」
ユーゴは包みを抱え直し、足を止めたまま頷いた。
*
男はフィンと名乗った。森の境を巡り、入り込むものを見張っているという。
差し出した記録のうち、開いて見せてよい写しをユーゴが示すと、フィンは距離を取りながら目を通した。高い熱が続き、赤い発疹が水疱になり、かさぶたができること。熱が一度引いても戻り、痛みと衰弱が続くこと。その辺りで、読む手が止まった。
「似たものを知っている。だが、俺は治療をする者じゃない。これを見せる相手がいる」
「会わせてもらえますか」
「集落へ案内する。ただ、その前に今の巡回を代わってもらう必要がある。俺が抜けた分を空けておけない」
ユーゴは森の奥を見た。風に葉が触れ合うほか、何も起きていないように見える。
早く、と言いかけて飲み込んだ。
フィンは、さっき枝の下で見つからずに立っていた。同じように、ユーゴには見えていないものがあるのかもしれない。
「待ちます。どこにいればいい?」
示された木陰へ下がり、包みを荷に収めた。フィンは道から外れた地面にしゃがんだ。ユーゴも見ようと足を出しかけたが、そこで止めた。
「その土、踏まない方がいいですか」
「ああ。通った跡を見ている」
フィンは土の窪みと、そばの草を見比べた。
「森の内側には、あまり来なかった魔物の跡だ。この頃は、境を越えて入ってくる」
「結界があるのに?」
「以前と同じ働きではなくなった。だから、毎日歩く回数を増やしている」
村の見張りを思い出した。何も来なかった夜にも、見ていた人は眠れなかった。
別の巡回者が来ると、フィンは跡の場所と、まだ見ていない区間を伝えた。ユーゴはその話が終わるまで待った。
「待たせた。歩けるか」
「はい」
「ここからの方が長い。俺の後を来てくれ」
*
森の中では、道があっても真っすぐには進めなかった。
根が盛り上がり、落ち葉の下で石が動く。フィンは足を置く場所を選び、曲がる前に必ず後ろを見た。ユーゴも同じ所を踏もうとしたが、歩幅を合わせるには少し急がなければならなかった。
「急がせてしまってるか」
フィンが振り返った。
「いえ。こっちが、早く着きたくて」
「なら、足元を見てくれ。転んだ人間を運ぶことになる方が遅い」
ユーゴは息を整え、剣の鞘が根へ当たらないよう持ち直した。
途中、緑の下草が途切れていた。そこだけ葉が縮れ、茎が地面へ倒れている。ユーゴは霜にやられた畑を思い出したが、周りの草まで同じようにはなっていなかった。
「あそこも、前からですか」
「いや。枯れる所が増えた」
フィンは短く答え、道へ目を戻した。しばらく歩いてから、もう一度口を開いた。
「村は、どれほど悪い」
ユーゴは荷紐を握った。
「寝ている人の世話をする人まで、足りなくなっています。王都や領都から助けが来て、少し休めるようにはなった。でも、よくなったと思った人が、また苦しむ」
「死んだ者は」
「います」
フィンの足が、少しだけ遅くなった。
「村長に聞きました。確かめられた数を、手紙に入れてくれています」
「そうか・・・」
フィンは進む向きを示した。
木の間から、人の声が届き始めたのは、境を離れて二時間ほど経ってからだった。
*
集落へ着いても、ユーゴは家々の中へ通されなかった。
人が出てきて、フィンの話を聞いた。ユーゴは示された場所で待ち、治療を担うという人が来てから包みを開いた。封じた要請書、発症の順、森へ行った仕事、試した処置。その順に渡していく。
森の治療者は、最初から最後まで読み、途中の一枚へ戻った。
「楽になった後、このように戻ったのか」
「はい。村の外へ運んだ人です。医療のスクロールが働く所へ。一昨日の朝はまた熱があって、その前の晩は自分で椀を持てたと、家族が」
「スクロールの働きが切れたわけではない?」
「ロゼットが、動いているって確かめていました。俺はそのあと記録で聞きました」
治療者が次の行を指す。ユーゴは分かる所だけ答え、知らないことは記録をもう一度見てもらった。
やがて、その手が止まった。
「この病は、森では珍しいものではない。最初の症状だけでなく、その後の経過も合っている」
治療者は、発疹の出た日を記した欄へ指を置いた。
「感染してから症状が出るまで、大体十日。肌に出る一日か二日前には、人へうつす。赤いものが見えてから離せば間に合う、とは考えないでほしい」
「じゃあ、元気で働いていた人も、その時にはもう」
「その可能性がある。お前は、村へ入って何日だ」
ユーゴが数えて答えると、治療者は頷いた。
「今は何ともなくても、まだ分からない。ここでも、皆の家へは行かずにいてくれ」
ユーゴは自分の手を見た。朝、洗って出てきた手だった。
「分かりました。その日数も、村へ伝えます。俺たちが着く前から、世話をする人まで寝込んでいました」
記録の余白へ聞いた日数を書き、治療者に見てもらった。到着した日より前へ戻って考えなければならなかった。
ユーゴは息を吸ったまま、すぐには吐けなかった。
「治し方も、分かるんですか」
「対処してきた知識はある。ただ、一枚のスクロールで誰も彼も元に戻せるという話ではない。村で何を続けているか、こちらからも確かめる必要がある」
「それでも、知っている人がいるんですね」
ユーゴは、丸まりかけた紙の端をそっと押さえた。届ける相手がいると信じて持ってきた記録を、今、その人が読んでいる。
フィンは、ユーゴではなく治療者を見ていた。
「外へ出たということか」
「これだけの人が森の外で発症している。内に留まるはずのものが、流れ出ていると考えなければならない」
ユーゴは二人の間を見た。
「結界は、外から入れないようにするものじゃ……」
「その働きもある。だが、この森の結界は、内にあるものを外へ出さないためのものでもある」
治療者は、ロレの家の位置を書いた紙を見下ろした。
「魔物が入ってくるだけではなかったんだ」
フィンの声は低かった。ユーゴも、道で見た枯れた下草を思い出していた。
*
森の長は、要請書を読み終えても、すぐ人を出すとは言わなかった。
「こちらの事情も聞いてもらいたい」
ユーゴは姿勢を正した。隣にフィンが立ち、治療者も記録を持っている。
「結界を守る者も、病人を診る者も、余ってはいない。古くから使っている魔法がここ最近は以前ほどの力を保てなくなっている。外へ手を貸している間に、ここを守れなくなるかもしれない」
「薬だけでも、分けてもらうことは」
言いかけて、ユーゴは治療者を見た。薬だけ持ってきてもらえれば、と村長が言った時の、ロゼットの返事が浮かんだ。
「……使う人や、扱い方も要るんですよね」
「そうだ。ここで必要な分も残さなくてはならない」
長の向こうで、人が道具を運んでいった。別の人に声を掛け、そろって森の方へ向かう。ロレと同じように、話をしている間にも仕事があった。
フィンが口を開いた。
「俺の妻子も、ここにいる。村へ行って戻った時、こちらで何か起きていたら、俺はどうしていいか分からなくなる」
ユーゴはフィンの弓へ目を落とした。案内の前に待たされた理由を、ようやく自分のこととして考えられた。
「ここでも余裕が無い中で守るべきものを皆で守ってきているのですね」
「ああ」
「でも、ロレの人たちも、今のままじゃ……」
そこで言葉が止まった。どちらかを後にしていいとは言えなかった。
ユーゴは、持ってきた記録をもう一度指した。
「村には、治療する人が来ています。水や食事を運ぶ人もいる。全部を森の人にやってもらわなくても、教えてもらえれば引き受けられることがあると思います。俺も、持っていく物があれば運びます」
治療者が、王都と領都の処置を記した紙へ目を戻した。
「そこにいる者と、仕事を分けられるか」
「はい。何をしてほしいか、聞いて帰ります。俺に決められないことは、向こうの人に確かめます」
長はしばらく黙っていた。それから、フィンと治療者へ顔を向けた。
「こちらで相談する。すぐに返事を求めず、待っていてくれるか」
「待ちます」
ユーゴは頷いた。村のことを考えると、胸の奥がせわしなくなる。それでも、次の言葉を継ぎ足さなかった。
フィンが木陰を示した。境で止められた時と同じ手だったが、今度はそばへ来て、水を置いてくれた。




