第38章 戻ってくる熱
村の屋根が見えた時、ユーゴはようやく足を緩めた。夕日はまだ木々の上にあったが、物置の戸口には明かりが用意されていた。
「動いた。同じスクロールが、外では動いたよ」
ロゼットは手にしていた布を置いた。村長も寄ってくる。ユーゴは光の走った線と、使い終わった印を見せ、街道のどこで試したかを説明した。
「返事は、まだ分からないんだな」
「うん。けど、送れた。領主様にきっと届いていると思う」
「それでいいわ。伝わったか確かめようと領都まで行かれても、今度はあなたを捜せなくなる」
ロゼットは予備のスクロールを村長へ返し、控えを帳面に挟んだ。その指が一度、控えの端をつかみ損ねた。
ユーゴは、空の椀を引き寄せた。
「次、どの家へ持ってく?」
「……先に、あなたが食べて。私も少し食べるから」
二人は物置の壁際に座った。向かいの家から声がすると、ロゼットの手が止まる。治療をしている女が戸口から顔を出し、今は自分が行くと手を振った。
椀の底が見えるまで、ユーゴはいつもより長くかかった。
*
領都からの荷車が着いたのは、翌日の午後だった。
夜のあいだ、援助は来なかった。村人が交代で灯を守り、ユーゴは水と食事を渡す場所を往復した。夜が明けても、空になった寝床より、寝込んだ家の知らせの方が増えていた。
街道から車輪の音がした時、最初に立ったのは村長だった。
荷台には薬の包み、食料、清潔な布が積まれ、治療に当たる人も来ていた。先遣の責任者は、疲れた村長に全部を話させようとはせず、今すぐ診るべき家を尋ねた。
「案内なら俺が」
ユーゴが手を上げると、白髪を束ねた女が家の順を教えた。最後の家を告げても、女は一緒に歩こうとした。
「戻った時に分からないことを聞きます。それまで、ここにいていただけますか」
先遣の治療員が椅子を示した。女は戸口を見たまま腰を下ろし、まだ何か言いかけて、それをやめた。
ユーゴがひと回りして戻ると、女は壁に頭を預けて眠っていた。
起こさずに通るため、足音を小さくした。
*
王都からの馬車が着いたのは、知らせを送って三日後だった。
青と白の衣の裾を押さえ、金髪の男が降りてきた。フルーリで同じスクロールを何度も確かめてくれた、魔導局のリシュアンだった。
「ユーゴさん。ロゼットさんは?」
「奥の家に。こっちです」
続いて降りた若い女は、編んでまとめた茶色の髪を直し、瓶の触れ合う音のする肩掛け鞄を受け取った。淡い色の上着に、緑がかった服。足を地面につけると、村の戸口を順に見た。
「王都の診療所から来たエステルです。途中までご一緒していいですか。今こちらで診ている方にも会いたいの」
ユーゴが頷くと、彼女は鞄を掛け直した。リシュアンは先に行くよう手を添え、自分は荷台の箱を受け取った。
ロゼットは、家の入口で二人を迎えた。
「来てくださったんですね。医療のスクロールも、通信も、ここでは……」
「まず経過を聞かせてください。調査の品と、今使う品は分けましょう」
リシュアンの返事に、ロゼットが帳面を開く。その脇から、エステルが中の寝床を見た。
「お話の途中だけれど、先に診ても?」
「はい。こちらは村で治療を続けてくださった方です」
ロゼットが女を紹介すると、エステルは膝を折って目の高さを合わせた。患者の名と、楽になった時、苦しさが戻った時を尋ねる。女が言葉を探す間も急かさず、領都から来た治療員の記録と見比べた。
ユーゴは入口で、家族の男から空の桶を受け取った。使用済みの物を置くはずの所へ向かうと、そこには水を汲んだ桶も並んでいた。
「これ、まだ置かない方がいいですよね。あっちは、次に運ぶ分だと思うんだけど」
エステルを呼ぶと、彼女は水の入った方へ掛けられた札を確かめた。
「ええ。その桶は、少し持っていてください。置き場所を分け直します」
次の水を取りに来た支援員が、空いている手でユーゴの桶も受け取ろうとした。
「一緒には運ばないで。これは病人の家から戻った物です。回収する方へ任せてください」
エステルの声で、その手が止まった。
エステルは村の治療者に相談し、家の入口で物を受け取る人と、寝床へ近づく人を分けた。手を洗う場所、看護で使った布や上着を外す場所も確かめる。ロゼットが籠に目印をつけると、ユーゴは桶をその隣へ置いた。
「忙しくても、この順番は省かないでください。お二人も、具合が変わったら仕事へ出る前に知らせてね。誰の世話をしたかも記録に残します」
頷いてから、ユーゴは洗い場へ向かった。代わりの桶は、手を拭き終わってから受け取った。
入口へ戻ると、エステルが寝床へ声を掛けていた。寝ているのは、最初の日に荷車で運ばれてきた木こりだった。男は目を開けたが、体を起こしかけて顔をしかめた。
袖から見える腕には、赤い発疹と水疱があった。乾いてかさぶたになったものもある。エステルは家族へ、熱が出た日と、最初に肌の変化へ気づいた日を分けて尋ねた。
「仕事の話は後でしましょう。今は、ここで休んでいてください」
「寝てると、皆に……」
「皆さんが困ることは、外で分けて引き受けています。あなたにしか分からないことがあったら、起き上がらず教えて」
男はしばらく彼女を見てから、枕へ頭を戻した。
エステルは鞄から薬の包みを出した。先に使った薬を治療員と確かめ、患者の様子を見て、そのうちの一つを選ぶ。使った時刻を書き、後でどこを確かめるかも伝えた。ユーゴには包みに記された名は分からなかったが、薬を渡して仕事が終わるわけではないのだと分かった。
エステルが診ている間、ロゼットは水の器と小さな道具を用意した。いつもの調子で冷やそうとすると、エステルが手を止めてもらい、患者の状態を確かめる。
「この方には、そこまで冷たくしないで。それと、隣の方は寒がっているから、別にできますか」
「できます。同じ部屋でも、器と寝床ごとに分けます。ただ、ずっと強くは使えません。弱めて保つ方が長くもちます」
「それでお願いします。変える時はこちらから声を掛けますね」
ロゼットは二つの道具の置き方を変えた。患者に当たる風を確かめ、開いた戸の隙間を少し狭める。ユーゴは桶を運びながら、彼女が一人で全ての顔を見る必要がなくなったのだと気づいた。
*
新しく運ばれてきた医療のスクロールも、村では動かないものがあった。
リシュアンが封と品の記録を確かめ、決められた手順で試す。ロゼットが使えなかった備蓄の一枚と並べても、どちらにも反応は出なかった。
「運んでくれば済むと思ったんだがな」
村長の声が落ちた。
「通信は、外へ持っていったら動いた」
ユーゴは街道を指した。
「そっちで、このスクロールも使えないかな」
「試しましょう。患者を動かす前に、同じ品を持っていきます」
リシュアンは起動の記録を閉じず、試した品を包んだ。ユーゴが案内し、ロゼットも同行した。村の屋根が隠れ、通信が作動した場所へ着くと、リシュアンは道の脇でスクロールを広げた。
さっきは沈んだままだった線に、淡い光が通った。
ロゼットが顔を上げる。リシュアンは光の続き方を確かめ、ようやく頷いた。
「ここでは作動しています。ただ、人を運ぶかは医療側の判断です」
戻ってそれを伝えると、エステルはすぐ全員を外へ出そうとはしなかった。
「移動で悪くなる人がいます。それに、通る人のそばへ寝床を並べるわけにはいきません。場所を用意してから、運べる方を決めます」
ユーゴは借りた荷車の取っ手から手を離した。
「先に、場所か。何を持っていけばいい?」
村長と支援員が、街道から離した平らな場所を選んだ。覆いと寝床、飲み水を置く所、使った物を集める所。通行人が近づかないよう入口を限り、世話をする人も決めた。ユーゴは杭を打つ人へ縄を渡し、空の寝台を二人で運んだ。
リシュアンは、その寝床の場所でも医療の品が働くことを確かめた。準備が済んでから、エステルが選んだ患者を移した。
村に残る患者の家には、領都から来た治療員と、休息を取ったあの女が回っていた。ユーゴは空の荷車をそちらへ向けかけたが、女が首を振るのを見て止めた。今は動かせない。その戸口には、薬と食事を運ぶ役を残した。
木こりの乗る荷車が窪みへ差しかかる。ユーゴは隣で押す男に声を掛け、歩調を緩めた。患者が荷台の縁を握る。平らな所へ抜けるまで、その手は離れなかった。
村外の寝床で医療のスクロールが働き始めると、木こりの肩から少しずつ力が抜けた。
ユーゴは幕の入口で待った。やがて家族の男が出てきて、空の椀を差し出した。
「自分で持てた」
それだけ言って、男は息をついた。
中では、木こりがエステルに何か話していた。聞き取れなかったが、相手の返事を待つ余裕のある声だった。ユーゴは椀を受け取り、底に残った水を見た。
昨日は、こんな声ではなかった。
*
交代の人に任せて腰を下ろすと、足の裏が熱かった。
ロゼットは道具袋を膝に載せたまま、まだ締めていない留め具へ手を伸ばした。隣から椀が来る。
「その道具を納めたら、今度はあなたの番。ちゃんと食べて休んで」
エステルが言った。ロゼットは留め具を掛け、椀を受け取った。
「さっきの人、ずいぶん話せるようになりましたね」
「ええ。けれど今夜ももう少し診ます。楽になった時間を長くできるか、見ていきたいから」
エステルは自分の椀にも口をつけた。幕の向こうで声がして、二人とも顔を上げる。交代した治療員が返事をしたので、また座り直した。
少し離れた机では、リシュアンが使った品と記録を照合していた。
「あの人も、食べていないんじゃ」
「さっき持っていきました。置いておくだけだと忘れるから、食べるまでちゃんと見てあげないといけないの」
エステルはそこで、小さく笑った。
「昔から、区切りがついてからって言うのに、区切りなんて自分でつけなけたことないの」
「長いお知り合いなんですか」
「王都の同じ孤児院で育ちました。物心ついたときからずっと知っている仲で。」
エステルの声が柔らかくなった。彼女は机の方を見てから、椀の縁へ視線を落とした。
「幼馴染って紹介するのが、一番間違いはないのだけれど。私は、もう少し近いつもりでいるんです」
「恋人、とか?」
「ええ。私は、そう思ってる」
今度はロゼットが黙る番だった。エステルは頬に掛かった髪を耳へ寄せた。
「そういう話を、ちゃんと確かめたわけではないの。だから、あの人の前で言わないでね」
「言いません。でも、私に話してしまってよかったんですか」
「急にこんな話してごめんなさい。こんなこと他の人に話したことないんだけど。ロゼットさんと一緒に仕事して、一息ついたら、なんだか話してしまったわ」
ロゼットは椀へ目を戻した。エステルは、仕事を頼み合う相手として近づいただけではなかったのだ。
「じゃあ、今のは預かっておきます。私の帳面には書かずに」
「それは助かるわ。あの帳面なら、いつまでも残りそうだから」
二人は声を抑えて笑った。ロゼットは椀に残った食事を食べ、初めて、まだ温かいことに気づいた。
*
翌朝、同じ寝床から呼ぶ声がした。
木こりの額に、また熱があった。握った布はしわになり、昨夜は話せていた男が、エステルの問いに短く答えるだけになっていた。
「戻ったのかい」
家族の男が、二人の顔を交互に見た。
「昨日、あれだけ楽になったのに。スクロールが、また動かなくなったのか」
ロゼットは作動中の線を確かめた。リシュアンにも見てもらった品だった。光は途切れていない。
「動いています。今も」
答える声を、無理に明るくすることはできなかった。
エステルが患者を診直し、必要な物を治療員へ頼んだ。ロゼットも水の器を取り替える。男の指が動くたび、布のしわが深くなった。
「今の処置は続けます。昨夜休めたことも、食べられたことも、この方の力になっています。でも、それで病気そのものを取り除けたとは、まだ言えません」
家族は寝床のそばに座った。差し出した手を、木こりが弱く握った。
村から届いた朝の記録には、新たに寝込んだ家があった。ロゼットは昨夜楽になった時刻を消さず、その後ろに今朝の経過を足した。
スクロールは働いている。薬も、人の手も、この人を支えている。
それでも戻ってくる熱の理由を、まだ誰も説明できなかった。




