第35章 閉じた戸の向こう
葡萄畑の端を過ぎると、道へ落ちる木の影が増えた。
ユーゴは荷紐の位置を少しずらした。歩くたびに揺れていた荷が背に落ち着くと、前を歩くロゼットが振り返る。
「荷、落ち着いた?」
「ああ、もう揺れない。そっちは、軽くなったな」
彼女の荷に括られた筒は、村へ入る前より少なかった。
「置いてきた品と、送った品があるからね。全部売れたわけじゃないけれど」
「それでも、仕事は終わった」
「ええ。次に行ったら、使ってどうだったかを聞ける」
ロゼットは前を向いた。
ユーゴは、今朝の井戸を思い出した。自分たちが出発するときにも、人が水を汲んでいた。二人が見ていなくても、あの村の仕事は続く。
水袋を揺らしながら歩いていくと、石の多い道が土へ変わった。轍が深いところでは、荷をぶつけないよう縁を選ぶ。
「ロレでは、何から始めるんだ」
「頼まれていた品を渡して、交換する分を聞いて。それから、使いづらいところがないか見て回る。全部、今日のうちとは限らないわ」
「また、俺が灯りを持つか」
「明るいところなら、ほかを頼む。村でやることを聞いてから、分けましょう」
ユーゴは頷いた。ベルフォンでも、手を出す前に置き場所を聞くだけで、仕事が早く済むことがあった。
途中で一度腰を下ろし、村でもらった食べ物を分けた。ロゼットは包みを戻す前に、納品するものを確かめている。ユーゴが水袋を渡すと、帳面を膝へ伏せて受け取った。
また歩き出し、ベルフォンを出発して二時間を越えた頃、木々の間に畑が見えた。
*
畝の端に、農具が一本置かれていた。
使うために寄せてあるのだろうと思った。けれど、近くの畑にも人がいない。道へはみ出した枝が、そのまま車輪の跡へ垂れている。
ユーゴは耳を澄ませた。
葉が擦れる音の奥で、家畜が鳴いた。
囲いの中に頭が見える。餌を入れるところの底は露出し、柵へ結ばれた縄の先が地面へ落ちていた。誰かが中へ来るのを待つように、獣が道の方へ首を伸ばした。
「いつも、こんなに静かか」
ロゼットも歩みを緩めた。
「前に来たときは、ここで人に会ったけれど」
家の煙突へ目を向けた。煙の上がるものもあったが、道へ出てくる者はいない。
木材を積んだ場所に小さな荷車が止まっていた。材を載せかけたまま、片側に縄が垂れている。ユーゴは車輪の手前で立ち止まり、家々へ声をかけた。
「こんにちは。行商の方と来たんですが」
返事はなかった。
もう一度呼ぼうとすると、遠くで戸が動いた。細く開いたところから顔が見え、すぐに隠れる。
「今、いたよな」
「ええ。まず、村の人に話を聞きましょう」
ロゼットは荷を下ろさず、彼の横へ並んだ。
道の先から男が一人、早足で来た。上着の前を留めず、片手をこちらへ突き出す。
「そこで止まってくれ」
*
ユーゴは足を止めた。男は近寄りきらず、道の向こうに立った。
「今日は商売にならん。引き返した方がいい」
「ロゼットです。前にも、交換と点検で伺いました。村長さんはいらっしゃいますか」
男は彼女の顔を見た後、背負った荷へ目を動かした。
「覚えてる。だから言ってるんだ。中で病人が出てる。入って、あんたまで寝込んだらどうする」
背中の荷が急に重く感じられた。
「どちらのお宅ですか」
ユーゴが聞くと、男は家の方へ手を向けた。指した先で止めず、そのまま別の戸へ動かす。
「そこだけじゃない。向こうもだ。隣へ世話を頼みに行ったら、その家でも起きてこられなくなってた」
「いつからですか。どんな具合に?」
ロゼットが聞いた。
「あんたらが来る、ずっと前からだ。高い熱が何日も下がらん。肌に赤いものが出て、それが水ぶくれになる。かさぶたになったところもあるのに、まだ寝てる者もいる」
ユーゴは、男の指した戸へ顔を向けた。ロゼットの手が、彼の前へ出る。
「近くで見に行かないで。まず、ここで聞きましょう」
「ああ。分かった」
彼女は自分も距離を詰めず、道の端へ寄った。
男が手を下ろす前に、背後から別の声がした。
「道を空けてくれ」
布を巻いた荷を抱えた男が来た。足を止めずに抜けようとし、二人を制した男に肩を向ける。
「どこへ行くんだ」
「姉のところだ。ここにいたって、誰も来ない」
「よその村へ、そのまま行ってどうする。何の病気かも分かってないんだぞ」
「じゃあ、ここで誰を待てばいい。俺が飯を運んでた家に、今日はまだ行けてない。自分の家だけでも手が足りないんだ」
声が上ずった。荷を押さえ直した拍子に、布の端から椀が滑りかける。男は慌てて肘で挟んだ。
ユーゴは一歩出かけて止まった。荷を持ってやるだけで、この話が片づくわけではない。
脇の道から女が現れた。
「ロゼットさん?」
呼ぶ声に、ロゼットが顔を向ける。
「帰さないで。せっかく来てくれたんじゃないか」
女は空の籠を腕へ掛け直した。
「食事を持っていく先が増えてるんだよ。作る人が戻ってこない。家で起きられない人を置いて、ずっとここにもいられないんだ」
上着を留めていない男が目を伏せた。
「分かってる。でも、来た人まで」
「分かってるなら、追い返さないでよ」
ユーゴはロゼットを見た。彼女は女へ向けていた身体を戻し、男にも顔を見せた。
「私たちが入らない方がいいと思って、止めてくださったんですね」
「ああ」
「事情を教えてください。今は家へ入らず、ここで聞きます。食事を用意している場所と、病人を診ている方は、別ですか」
女が籠を下ろした。
「食事は、あそこの家を借りてる。診てる人は、家を回ってるはず。今どこにいるかまでは……」
説明しかけたところで、奥の戸が開き、女の名を呼ぶ声がした。女は振り向き、すぐ行くと答えた。
「ごめん、また後で」
空の籠を拾って走っていく。
ユーゴはその背を見送った。籠へ入れるものを受け取らないまま、女は戻っていった。
*
村を出ようとした男は、まだ荷を抱えて立っていた。
「お姉さんは、どちらに?」
ロゼットが聞くと、男は村を出る道の方角を示した。
「お姉さんから、人を頼めそうですか。今、お一人で運んでいる分だけでも」
男は答えかけ、口をつぐんだ。
「人がいれば、誰か来てくれると思った」
荷の布を、指で握り込んだ。
「寝てる者へ飯を持っていくと、隣からも呼ばれる。そっちへ行けば家の世話が止まる。どこへ戻っても、まだ来ないのかと言われるんだ」
ロゼットは男の言葉が切れるまで待った。
「今、運べていない食事は、作る材料が足りないんですか。それとも、作る人と運ぶ人?」
「どっちもだ。あるものを分ける相談さえ、途中になる。家畜を見に行った者が戻らなくて、探しに行くと自分の家で倒れている」
ユーゴは来る途中の囲いを思い出した。鳴いていたのは、通りがかった自分を呼んだのではない。いつもの人が来なかったのだ。
道を止めていた男が、低い声で言った。
「最初は、隣同士でなんとかしてた。今は年寄りだけじゃない。働きに出る者も、世話をしてた者も寝込んでる。治療のスクロールがあればと思ったが、それも役に立たんと言う」
ロゼットの目が男へ戻った。
「使った方に、会わせてもらえますか」
「直せるのか」
すぐに問い返された。
彼女の手が、背負った筒へ触れた。一本を確かめた後、腕を下ろす。
「見ないうちには、約束できません。持っているものも限られています。それでも、何が起きているかは聞きたいんです」
ユーゴも筒を見た。ベルフォンでは、一枚ずつ試し、動くものを残せた。だが、ここで必要なのは、水の出る場所を一つ直すことだけではない。
閉じた戸が幾つも道に面していた。そのどれへ食事が届き、どれに人の手が足りないのか、外からは分からなかった。
「村長さんを呼んでくる」
道を止めた男が言った。
「待ってる間、勝手に入らないでくれ。呼ばれても、どこの家か、まずこっちへ言ってほしい」
「分かりました」
ロゼットが答えると、上着の男は、道を出ようとしていた相手の包みへ目を向けた。
「あんたも、少しだけ待ってくれ。出ていくなと言うだけで済まそうとしたのは、悪かった」
荷を持つ男は返事をしなかった。しばらくして、腕の中の包みを道端の石へ下ろした。
*
ユーゴはロゼットの隣へ寄った。
「食事を運ぶなら、俺にもできる。でも、勝手に回るのは駄目なんだな」
「ええ。それと、手を洗ってから。病人の使った器や布を、食べ物と一緒には持たないでね。水を飲む時も、自分の器を使いましょう」
ロゼットは自分の水袋を荷の脇へ戻し、手を洗う水を少しずつ注いだ。ユーゴも両手を出す。食事の前には畑の泥を落としていたが、今は目に見える汚れがなかった。
「洗えば、運びに行っていい?」
「それだけで大丈夫とは言えないわ。何の病気かも分からないもの。どこで渡せばいいか、診ている方に聞いてからよ。私も同じにする」
ユーゴは拭いた布を自分の荷へしまった。呼ばれた戸へそのまま駆け込む前に、できることが幾つもあった。
「どこへ何を届けるか、分かる人と話してからにしましょう。私たちまで行き違うと、待っている家が増えてしまう」
「お前は、スクロールを見に行く?」
「まず、診ている方の話を聞きたい。誰に何が必要か、私だけで決められないもの」
ロゼットは肩の紐を緩めたが、荷はまだ地面へ置かなかった。
ユーゴは、その手を見た。
「二人じゃ足りないな」
「ええ」
返事はすぐに来た。
「でも、今、俺たちが帰ったら」
「帰るために言っているんじゃないでしょう」
ロゼットがこちらを見た。
ユーゴは頷いた。ここへ来る途中に休んだことさえ、もう遠いことのようだった。昨日、一緒に荷を運んでくれた村人の顔を思い出す。あの手が、この村では足りなくなっている。
「どこから手をつけるか、聞こう」
ロゼットは頷き返し、帳面を取り出した。
道の奥から、呼びに行った男が戻ってきた。村の取りまとめをしているという年長の男が一緒だった。
ロゼットが名乗り、二人でできることを確かめたいと伝えた。男は家々を見回した後、道脇の物置を示す。
「品を受け渡すのは、あそこにしている。空いた台があるから、まずそこで話してくれ。診て回っている者にも、来てもらう」
ユーゴは教えられた方を見て、荷を背負い直した。家の戸へ向かう道を外れ、物置の前へ回る。
台の上には空の籠があった。先ほどの女が持っていたものと、よく似ていた。
「荷は、ここへ置いてもいいですか」
男が頷いてから、ユーゴは自分の荷を下ろした。ロゼットも隣へ腰をかがめる。
戸の向こうから、誰かを呼ぶ声がした。
ユーゴはそちらへ走らず、上着の男に家の方を示した。
「あそこは、何を待っているんですか」
「食事を取りに行った者を、呼んでるんだと思う。俺が聞いてくる。台の手前を空けておいてくれ、運んできたものを置くから」
ユーゴは頷き、自分の荷を脇へ寄せた。空いた場所へ運ぶものを教えてもらうため、ロゼットとともに、村を取りまとめる男へ向き直った。




