第34章 最初の一杯
朝の井戸には、昨日と同じ桶が並んでいた。
ユーゴが岩場から戻ると、桶の主が腰を上げた。水を待っていた女だった。今朝はまだ何も聞かず、ロゼットが貯水槽へ進むための場所を空けた。
昨夜も水は澄んでいた。それでもロゼットは確認を続け、二人は村が貸してくれた寝床で夜を明かした。
朝になり、水の管理をする男と取水口を見てきた。スクロールは留めた位置で働き、水質の確認にも問題はなかった。夜と朝の記録を比べたロゼットは、村で最後の水を採った。
ユーゴが器を差し出すと、彼女の指が冷たい縁へ触れた。
女は桶の取っ手を両手で握っている。昨日、それを下ろさせたところが頭に浮かび、ユーゴは何か言いかけてやめた。
ロゼットは調べ終えたものを並べ、帳面へ一行書いた。管理の男を呼び、同じ箇所を見てもらう。
「こちらも大丈夫です。井戸を使ってください」
女は、すぐには動かなかった。
「食事に?」
「飲む分にも。今朝の確認を終えました」
「そうかい」
女は一度取っ手を放し、桶を汲み口へ寄せ直した。
水が落ちた。横で待っていた者も前へ出る。誰かが家の方へ声をかけ、その声を受けた戸が開いた。
女はいっぱいにする前に桶を引き、持参した椀へ水を移した。それをユーゴへ差し出す。
「先に飲んでおくれ。昨日から、何遍も持って歩いてくれただろう」
「運んだのは、空の方が多かったです」
「空でも要るんだよ」
押し戻せず、両手で受け取った。縁へ口をつけると、冷たさが唇に触れた。土の匂いはしない。飲み込んだ後、昨日から喉に残っていたような乾きが薄れた。
顔を上げると、女はもう一つの椀をロゼットへ渡していた。
彼女は少しずつ飲んだ。椀を下ろしてからも両手で持ち、井戸へ集まる人を見ている。
「待ってもらったな」
ユーゴが小さく言うと、ロゼットは頷いた。
「でも、今日は飲んでもらえた」
彼女の親指が、椀の濡れた縁を拭った。
ユーゴは返事の代わりに、残った水を飲んだ。結界の前で、スクロールを何度も広げたときには、こんなふうに終えられなかった。
「朝の食事も寄っておいき。多くは出せないけど、温かいものはあるから」
女が二人の椀を受け取った。
ロゼットは礼を言い、腹の前へ戻した自分の手を見てから笑った。
「その前に、道具を置かせてもらってもいいですか。持ったまま食べそうなので」
*
食事を終えて共同醸造所へ入ると、洗い桶の脇で人が動いていた。
昨日まで横へよけられていた道具が、水をくぐり、洗われ、決まった場所へ立てかけられていく。ユーゴは入口を塞がないよう荷を寄せた。
袖をまくった女が、ロゼットを見て近づいてきた。
「今朝から洗えるよ。そっちは、まだ休まなくていいのかい」
「今度は、こちらの約束を終わらせたいんです。昨日お借りした記録を、もう一度」
女は棚から帳面を取り、入口に近い醸造槽の前へ二人を通した。奥にも、通路を挟んだ向こう側にも槽が並んでいる。ロゼットは帳面の見取りと実物を照らし、今日見るものへ印をつけた。
槽の外側に、温度調整具が取りつけてある。ロゼットは働きを確かめる前に、昨日話を聞いた量と、今日の状態を尋ねた。
「水が戻ったから、すぐ普段の量へ増やす予定ですか」
「仕込みの方は、まだ人を戻しているところさ。この槽は今の量で続ける。次は増やしたいけどね」
「それなら、今の状態を先に合わせましょう」
ユーゴは言われた道具を渡した。ロゼットは槽の温度と、帳面に残った変化を見比べ、外側の器具を調べる。留め具を確かめた後、手を止めた。
「夜に下がりすぎる日は、この量になってから?」
女が帳面を引き寄せた。
「……そうだ。ここで減らした。昼は気にならないんだけど、朝に見ると、少し違ってね」
「中身が少なくなった分、同じ働かせ方では冷え方も変わります。昨日の量で合わせたまま増やすと、また変わる。量を替えるときは、ここも一緒に見てください」
ロゼットは調整する箇所を示した。
女が身を寄せ、指の位置を見ようとする。ユーゴは灯りをずらし、影になっていた部分へ向けた。
「私がやってもいいのかい。触りすぎたら、余計に悪くしそうだ」
「普段の確認は、こちらだけ。具合が違っても、奥の術式まで触らなくて大丈夫。量と、変わった時刻を書いておいてくれれば、次に私が見られます」
女は言われた場所を指で示し返した。ロゼットが頷く。
「今は、槽から熱を逃がす働きが強すぎるので、少し弱めます。温度を見ていてください」
女が槽へ目を戻すのを待って、外側の器具にある術式を調整した。ユーゴは渡した道具を受け取り、次に差し出された留め具を支えた。ロゼットの指が離れるまで動かさず、彼女が頷いてから手を引く。
ユーゴには、彼女が触れた細部までは分からない。作業を終えた後も道具が片づかず、三人で槽の前に残ったので、まだ待つものがあると分かった。
女が口を開いた。
「これで、昨日遅れた分も取り戻せるかね」
「急がせる道具ではないので。まず、今入っているものを無駄にしないようにしましょう」
「そうだったね。水が出ると、つい全部できる気になってしまう」
女は槽から手を離し、洗い場の方を見た。
ユーゴも振り返った。桶を抱えた男が入ってきて、待っていた者へ置き場所を聞いている。空いたところへ道具が運ばれ、また次の仕事が始まる。
ロゼットがもう一度、器具の働きと槽の変化を確かめた。調整前より温度の下がり方が緩み、女が記録を見て顔を上げる。
「このくらいでいいんだね。もっと温め直すのかと思った」
「変えすぎずに、ここで止めておきます。今の量なら、これで様子を見てください」
ロゼットは作業した箇所と確認結果を記し、今夜と明朝もいつもの時刻に記録を取るよう頼んだ。
女は帳面を受け取り、書き足した箇所を読んだ。
「量を増やしたら、ここへ書く。夜と朝の分も。分かったよ」
*
その日のうちに、全部が終わることはなかった。
ロゼットは次の槽へ移り、使っている量と調整具の状態を確かめた。昼でも冷える奥の槽と、戸口から暖かい空気の入る槽とでは、帳面に残った温度の動きも違う。一つを合わせた手つきで隣も済ませられるのだと思っていたユーゴは、道具を片づけかけて、また布の上へ並べ直した。
翌朝、彼女が最初に向かったのは、昨日調整した槽だった。夜の記録を読んでから実物を確かめ、女と話し合う。その後で、まだ見ていない列へ進んだ。
ユーゴは道具の受渡しが済むと、洗い場へ回った。最初は空の桶を並べ、乾いた器具を戻す場所を教わった。午後には畑へ持ち出す籠を運び、傾いた支柱を村人と起こした。
「そっちを、もう少し起こしてくれるか」
蔓を押さえる男に言われ、ユーゴは支柱の根元へ足を寄せた。手前へ引くだけでは、隣の枝を巻き込む。葉を避けて持ち直し、男が頷くまで待った。
「今だ。そこで止めて」
男が結び直す間、支え続けた。風に裏返った葉が、手の甲を撫でる。街道から見た一面の緑の下には、こんな仕事が幾つもあるのだった。
夕方に醸造所へ戻ると、ロゼットはまだ槽の間にいた。
「今日は、どこまで?」
「奥の列まで。明日はこっちを調整して、今日の分の経過も見る。あなたは?」
「畑で支柱を直した。明日も手を貸してほしいって」
ロゼットの目が腕へ向いたので、ユーゴは袖を上げた。傷は塞がり、荷を持っても引き攣らなくなっていた。彼女の前で肘を曲げ、伸ばす。
「もう、痛まない」
「それならよかった。でも、治った分を一日で使い切らないでよ」
「畑の人にも、同じことを言われた」
彼女が笑った。ユーゴは袖を下ろし、まだ台に残っていた道具を指した。
「それは、しまっていい方か」
「ええ。そちらは、今日の分が終わった方」
そうして数日、醸造所の点検と村の手伝いを重ねた。ユーゴの腕の傷はすっかり治り、朝の仕事を済ませてから荷を持っても、気にならなくなった。ロゼットは全ての槽の点検と必要な調整を終え、最後に手を入れたものも一晩動かしてから、朝の記録を作り手と確かめた。村の水も、その間、澄んだまま流れていた。
*
仕事の控えには、温度調整具の使用状態と、直した内容が書かれた。
ロゼットは作業代の欄を指し、女へ見せた。村長も来て、給水設備の交換品と予備品の記録を横へ並べる。
「最初の日は洞窟にも行ってもらった。それもここへ入るのか」
「こちらは、いつもの点検と調整の代金です。浄水の交換品は、この別の欄へ。どの仕事で何を使ったか、後でも分かるようにしておきたいので」
村長は二つのスクロールを見比べ、頷いた。
帳面の額を確かめた村長が、ロゼットへ顔を上げた。
「支払いは、商会の荷受証でいいか。それとも現金にするか」
「荷受証でお願いします。こちらが取引しているのは、お酒の扱いが得意な商会ですか?」
「ああ、ヴァリエ商会だ。うちのワインも主にそこへ卸している。運んで売るところまで任せられるから、助かっているよ」
「醸造所を出た後も、扱いに慣れたところへ任せられるんですね」
村長が頷き、荷受証を手元へ引き寄せた。譲渡する額とロゼットの名前を書き入れ、署名の横へ村の印を押す。
ロゼットは渡された荷受証を受け取った。商会の印と、譲渡される分を確かめ、自分の名前のある欄を見直す。
ユーゴは荷受証を入れる袋を開いた。ロゼットはそこへスクロールを収めてから、仕事の控えを彼へ渡す。
「こっちは、私が道具を戻す間に読み合わせておいてくれる? 予備の番号も」
「残した筒の方だな。村長さん、お願いします」
村長が持つ記録と、順に読み合わせた。作業代を確認するところで女にも声をかけると、濡れた手を拭って隣へ来た。
村長は、その作業が終わるまで待ってから、小さな包みを出した。
「これは、仕事の代金とは別だ。村からの礼として受け取ってほしい。泊まってもらった分も、こちらで持たせてくれ」
ロゼットは帳面を閉じた。ユーゴを見てから、村長へ向き直る。
「ありがとうございます。二人で受け取ります」
ユーゴも頭を下げた。
醸造所を出るとき、袖をまくった女が声をかけた。
「次は、最初からあっちの槽を見てもらえるようにしとくよ」
「そのときの記録、楽しみにしています」
ロゼットは歩き出してから、自分の控えの角を揃えた。来たときよりも、その手が軽く見えた。
*
封印した袋は、村長の机の上へ並べられた。
ロゼットは滞在中にまとめた報告書を開き、ユーゴに番号を読み上げてもらった。旧品、試した交換品、村へ残した二枚。それぞれの製造元、製造日、ロット、運んできた状態が、試験の順に並んでいる。
村長は途中で、筆を止めた。
「この、動かなかった後に動いたというところは、俺は見ていない」
「試験は私たちの記録です。村長さんには、交換前の水の状態と、給水を再開してから今日までの様子を確認していただきたいんです」
ロゼットは書く場所を分けた。
水の管理をする男も、全部を見ていたわけではないと言った。自分が見た試験と、設置した品、預かった予備を確かめ、村側の確認に名を記す。
ユーゴは取水口の枠に破損がなかったことを、ロゼットと読み直した。スクロールが切れていなかったこと、汚れを除いて正しく取りつけても動かなかったこと。同じ場所で働くスクロールがあったこと。
「原因も書いた方がいいんじゃないのか」
村長に聞かれ、ロゼットは首を横に振った。
「今は、分かっていません。分からないままでも、この違いは調べてもらいたいんです」
村長はしばらくスクロールを見ていたが、やがて署名の脇へ手を添えた。
「なら、水が戻ったことも、戻らなかったスクロールがあることも、両方届けてくれ」
「はい」
報告書と封印袋を一つの荷にまとめた。村長と管理の男が封を確かめ、ユーゴが荷紐を通す。男に荷を支えてもらい、緩まないよう結んだ。
領都へ向かう連絡便の担当者が来ると、ロゼットは荷と宛先を示した。
「領都の行政窓口へ。そこから、王都にいらっしゃるクラリス様へお願いします。領主様と、魔導局の調査担当の方へ渡していただく報告も入っています」
担当者は宛先を読み返し、封を確認して受け取った。ユーゴは荷が他の品へ紛れないよう置かれるのを見てから、手を離した。
王都に着くのは、まだ先だ。開かれたところを自分たちが見届けることもできない。
ロゼットは手元に残す控えをしまい、荷紐の切れ端を拾った。
「行こうか」
「もう一度、井戸を見ていかないか」
「ええ。道もそちらだから」
井戸には水を汲む人がいた。使えるようになった朝ほど長い列ではない。女が桶を引き上げ、傍らの相手へ場所を譲る。
ユーゴは、自分の水袋を持ち上げた。村で詰め直した分が、重く揺れた。
ロゼットが待っていた。彼が並ぶと、二人は桶の当たる音を背に、ロレへ続く道へ出た。




