第33章 同じ取水口
筒から出した紙には、泥一つついていなかった。
ロゼットは端にある小さな文字を読み、帳面の次の行へ写した。製造元、日付、番号。ユーゴが筒を戻しかけると、その横の印も見せるように言った。
「そこも要る?」
「同じまとまりで作られた品を区別する印。後で問い合わせるなら、筒と中身を取り違えたくないの」
ユーゴは印を隠さない向きで置き直した。古い紙を外した枠へ、ロゼットが新しい一枚を留める。
水の管理をする男は、通路から少し離れて待っていた。魔物を運び出した者たちも、もう村へ戻っている。今は水音のほかに、留め具が岩へ当たる音しか聞こえない。
「これで、村まで戻せるか」
「まず、ここで働くか見ましょう。灯りを、そのまま」
ロゼットが手を動かした。
ユーゴは枠の下を見つめた。流れ出した水が、用意した器の底を隠していく。薄い茶色だった。
待っても変わらない。
灯りが近すぎて、濁って見えるのだろうか。少し離してみたが、底は見えなかった。
「留めるところ、もう一度見ようか。端が浮いたとか」
「見せて。……ううん、合ってる」
彼女は一度外し、枠へ触れ、紙の向きも確かめ直した。同じように留めて起動を試みる。ユーゴは新しい器を差し出した。
結果は同じだった。
ロゼットの手が、留め具から離れなかった。
「新品でも、駄目なのか」
「この一枚は、ここでは動かない」
言ってから、彼女は帳面へ目を落とした。紙を押さえた指が、余白の端で止まっている。
フルーリの結界でも、紙は破れていなかった。ユーゴはあの場所で待った時間を思い出した。次なら動くと言ってほしくなるのは、今も同じだ。
彼は空の器を置き、番号の見える筒を次の一つへ替えた。
「ここを変えた方がいいんじゃないのか。少し上とか」
「今、場所まで変えると、次が動いても何が違ったのか分からなくなる。先に紙だけ替えたい。水も枠も、このままで」
「分かった。次の番号、こっちだ」
ロゼットが顔を上げた。伸ばした手へ、筒を渡す。
*
二枚目を留め終えても、枠の周りの岩は黒く濡れたままだった。上流の池には、まだ濁りがある。
ユーゴは先ほどと同じ位置へ灯りを寄せた。
水が落ちる。最初に受けた分には、薄い色がついていた。
「また――」
「待って。流れ口に残っていた水も出るわ」
ロゼットは器を下げさせ、流れを見た。ユーゴも黙って見続ける。
岩の上を滑る水の底に、細い傷が見え始めた。さっきは泥の色に隠れていた傷だった。
「新しい器を」
言われる前に、ユーゴの手が動いていた。
受けた水に、ランタンの光が透けた。器を傾けると、底に刻まれた細い線まで見える。顔を近づけても、あの土臭さがしない。
「見える」
「ええ。今度は起動してる」
ロゼットの声が少し大きくなった。ユーゴに器を持たせたまま、持参した水質確認の道具を並べる。
ユーゴは器を持ったまま、口の方へ上げかけた。
「それは待って」
手が止まる。
「今、見えるって言っただけだろ」
「顔も近かったから。飲めるかどうかは、見えるだけじゃ決められないわ」
「分かってる。……少し、冷たそうだと思った」
ロゼットは返事をせず、彼の水袋を顎で示した。ユーゴはそちらの栓を抜いた。
水の管理をする男が、足場を確かめながら近づく。
「きれいになったな。村へ知らせてくるか」
「動いたことは伝えてください。でも、まだ井戸から汲まないように。こちらで確かめたいことと、下の掃除が残っています」
男は入口の方を見た。それから、上着の内側に挟んでいた水路の図を出した。
「なら、どこから止めておけばいい」
*
ロゼットは、今働いた紙の番号をユーゴへ見せた。
「読み上げてくれる?」
彼が読むと、帳面の文字へ指を添えて照らし合わせる。その行の横に、起動したことと水の変化が書かれた。
「次も、ここで試す」
「今のを外すのか」
ようやく澄んだ流れを見て、ユーゴはつい聞き返した。
「これを戻せるように印をつけておく。予備も、ここで動くものを残したいの。それに、さっきの一枚が今なら動くのかも確かめたい」
外された紙は、他のものと離して置かれた。ユーゴはその脇へ筒を添える。水はまた濁り、やがて最初と同じ色になった。
ロゼットが初めに動かなかった一枚を戻した。
手順は変わらない。ユーゴも採る場所を変えず、水が入れ替わるのを待ってから、別の器を出した。
濁りは残ったままだった。
彼女は紙と留め具を確かめ、短く息を吐いた。
「水がよくなったから、次が動いたんじゃないんだな」
「少なくとも、それだけでは説明できない。同じ取水口で、紙を替えると違っている。ここは、書いて持ち帰れるわ」
ユーゴは池の方へ目をやった。枯れ枝が水際に引っかかり、底から上がった泥が、ゆっくり沈んでいる。
「魔物がいるせいなら、どれも同じように駄目だったはずか」
「汚れを増やしたのは確か。でも、紙が起動しない理由まで、あれだけのせいにはできないわね」
彼女はもう一枚の筒を開いた。
ユーゴは残る品を、試す前と試した後に分けて置いた。使った器も空のものから離す。水を採るときは、腕だけを遠くへ伸ばさず、足場を寄せ直して身体ごと水際へ向けた。その方が、器の中の水も揺れずに済んだ。
紙の製造元や日付が違っても、ユーゴには見比べただけではどちらが働くか分からなかった。ロゼットも、次の結果を言い当てようとはしなかった。
一枚ずつ取りつけ、待つ。記録をつけてから外す。
やがて、もう一枚、濁りと匂いを取り除く品が見つかった。
水の管理をする男は、村へ知らせに下り、戻ってきていた。ロゼットはその目の前で予備にする紙を示し、同じ場所で確かめたことを帳面に残した。
「これを乾いたところへ。外した筒へ戻して、番号の札も一緒にしてください。もし交換することになったら、日時と、その前に何があったかを書いてほしいんです」
「今度も止まったら?」
ロゼットは、開きかけた筒の蓋を止めた。
「飲むためには使わないでください。水が変わったことを村の皆さんに知らせて。それから、こちらへ連絡を」
男の指が蓋の縁をなぞった。
「絶対に止まらん、と言われるよりはいい。前は、こうなると思ってなかった」
彼女は頭を下げ、保管場所をもう一度聞いた。男が湿気の少ない棚を説明すると、そこへ日が当たらないかを確かめてから、筒を渡した。
*
最初に働いた紙が、取水口へ戻された。
ロゼットが留め方を確かめ、起動する。流れが入れ替わった後も水は澄み、彼女が他の品を片づける間、止まらずに流れ続けた。
外した旧品には古い番号の札、新しく試して動かなかった品にはそれぞれの札が添えられる。紙に傷がないことと、持ってきたときの保管状態を確かめて、封印袋へ分けて収めた。
「使えない紙を、そんなに持っていくのか」
男に聞かれ、ロゼットは袋の口を押さえた。
「ここで動かなかった紙です。他でも同じかは、まだ分からない。壊れていると決めて捨てたら、それも調べられなくなるので」
フルーリでは五枚のうち、三枚が動き、二枚が動かなかった。
ユーゴは目の前の袋を見た。今度は、村の水をきれいにする紙だった。結界とは違う仕事の紙なのに、また、使えるものと使えないものがある。
「そのことも、クラリス様に?」
「ええ。ここで試した順番も、水がどう変わったかも。一緒に」
帳面を閉じかけた彼女が、目をこすった。ユーゴは灯りを寄せ、まだ書き終えていない袋の番号を、もう一度読んだ。
*
洞窟を出ると、日が岩場の向こうへ傾いていた。
村の井戸の脇には、空の桶が並んでいた。汲み口の前で待っていた女が立ち上がり、ロゼットの顔を見た。
「戻ったんだね。もう、いいのかい」
「上では動いています。でも、下に残った水はまだ入れ替えているところです」
女は桶を持つ手を下ろした。
「夕方には使えると思って、洗い物を全部寄せてしまったよ」
ロゼットは貯水槽の方を見た。水路を見てきた男が、泥の溜まっていた場所と、掃除を終えた区間を指で示す。男から話を聞いた村人たちが、先に作業を始めていたのだ。
「こちらも確かめます。いちばん急ぐ水は、どちらで使うものですか」
「食事だよ。その次が明日の仕込み。飲む分は、少し取り置きがあるけど」
「その取り置きは食事の方へ。洗い物は待ってください。足りそうですか」
「食事だけなら、どうにかね」
女はもう一度、桶を見た。
「なら、この桶は、掃除の方で使ってくれないか」
ユーゴが受け取ろうとすると、水の管理をする男が横から桶を取った。
「あんたは空のをこっちへ。俺は掃除に使う水を運ぶから」
「お願いします。どこへ並べれば、邪魔になりませんか」
空いた場所を教わり、ユーゴは一つずつ運んだ。
ロゼットと男が汚れの残るところを確認する。必要な場所を洗い、残っていた水を抜き、新しい流れへ入れ替える。枯れ葉の塊が取り除かれると、水路の音が変わった。
すぐには澄まなかった。最初に汲んだものを捨て、しばらく待ってから、また採った。
井戸の脇に座った女は、空の桶を膝の間へ寄せたまま、二人を見ていた。ユーゴも急いで次を持ってきたくなったが、ロゼットが頷くまで待った。
次の器には、夕空の色が映った。
女が腰を浮かす。ロゼットは器を持ち上げ、匂いを確かめた後、水質を調べる道具の前へ置いた。
「よくなっています。もう少し、確かめさせてください」
女はゆっくりと腰を戻した。
ユーゴはその隣へ空の桶を返し、まだ濡れた石の上で、次の器を待った。
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