第32章 水から離して
足を置いた石が、靴底の下でわずかに動いた。
ユーゴは次の一歩を止めた。右手には浅い水路があり、流れの上にランタンの光が細く伸びている。左の岩壁へ手を添え、荷を擦らない幅を確かめた。
「石が浮いてる。俺が今、踏んだところは避けて」
後ろの明かりが止まり、ロゼットの靴音が近づいた。
「ここね。先は?」
「少し広い。左に穴がある」
水路はそのまま奥へ続いていた。左へ分かれる横穴は、口のところが低く盛り上がり、その先は乾いた床になっている。古い板が壁に立てかけられ、下には白い砂が残っていた。
男の描いた紙と合っている。ユーゴは鉈を下げず、水路の先へ目を戻した。
奥の水面が揺れた。
岩だと思ったものが、低く持ち上がる。小さな目の下に、横へ広い口があった。前脚が水を押し、灰色の腹が岩へ乗り上げる。太い尾が水面を打った。
ユーゴは息を止め、すぐに吐いた。向こうもこちらを見ている。口の縁が開くと、頭の大半が割れたように見えた。
「いた」
「池の手前ね。右奥に、取水の枠が見える」
ロゼットが灯りを上げた。魔物の後ろに石積みの堰があり、その一角に設備が据えてある。そこへ届くには、灰色の身体の脇を通らなければならない。
水際には枝と食べ残しらしいものが引っかかっていた。太い尾が動くたび、底から泥が浮く。
巨体が前へ出た。ユーゴは鉈を構えたが、顎のすぐ下に水路があるのを見て、刃を引いた。
「ここで斬ったら、血が流れる」
「横穴へ。水から上がっているところまで出したい。私が氷で池へ戻る方を狭めるわ」
「俺の退く側は、残してくれ」
「あなたが左へ入ったのを見てから撃つ。見えなくなったら止める」
ロゼットは横穴の入口脇、足より高い岩の窪みへランタンを置いた。水路と横穴の口が同じ明かりに収まる。銃の留め具が鳴った。
*
ユーゴは一歩だけ近づいた。
魔物の前脚が張る。鉈の柄を握り直した瞬間、口が飛び出した。後ろへ引いた膝の前で、顎が岩を噛む。
思ったより届く。
ユーゴは左へ退き、横穴の口を背にした。岩を踏む音へ、頭が向く。もう一度来れば、乾いた床へ出る。
だが、魔物はそこで止まった。
後脚はまだ水際にあり、腹だけが湿った岩を覆っている。ユーゴが下がっても追わず、頭を左右へ動かした。尾の先が池へ戻る。
「来ない。そこから噛めると思ってる」
「無理に近づかないで。右の水際を狭める」
ユーゴは壁へ寄った。銃口と魔物の間に自分の脚がないことを確かめ、短く声を出す。
氷が、魔物の右脇の浅い水際へ走った。巨体の足元全部を閉じ込めるほどではない。白くなった石へ後脚が乗りかけ、滑る。尾が強く打たれ、氷の端が砕けた。
魔物は身体を横へずらした。逃げられる水面は残っているのに、そちらへ引かず、前にいるユーゴへ頭を向ける。
ユーゴは鉈の背で岩を叩いた。
飛びかかってきた。
横穴へ退く。低い盛り上がりを靴が越えた。目の前を口が過ぎる。斬りつけたくなったが、まだ尾が水路の側に残っていた。
もう少し。
その尾が、横から来た。
ユーゴは跳ぼうとしてやめ、壁際へ身体を引いた。靴の先を打たれ、膝が落ちる。床へついた掌から、肘まで衝撃が抜けた。
「ユーゴ!」
「動ける!」
答えながら脚を引いた。さっきまで足があった場所へ、大口が落ちてくる。白い砂が跳ねる。横穴の中へ入ってきた腹が、床を擦った。
立つときに壁へ手をついた。湿っていると思った指が滑る。水ではない。岩へ擦れた身体が、粘りのある筋を残していた。
ユーゴは足元を見た。来た道をまっすぐ戻れば、粘りを踏んでしまう。
「床が滑る。左の壁には寄れない」
「右側は空いてる。そっちへ抜けて。尾が上がったら、戻る方へ氷を入れる」
声は入口の方から届いた。ロゼットの姿が、巨体の向こうに半分見える。銃はまだ上がっていない。
ユーゴは魔物の口へ鉈を見せ、半歩右へ動いた。頭が追ってくる。奥へ追い詰められる前に入口側へ戻りたい。けれど、腹の脇を通れば尾が届く。
魔物の前脚が踏み直された。
ユーゴはその動きに合わせて大きく右へ出た。噛みつきが空を切る。尾が持ち上がったのを見て、頭の横を抜ける。
「今、空いた!」
背後で氷が鳴った。
横穴の口、尾が離れた床が白く覆われた。水路との間に残っていた濡れた岩も凍り、巨体が後ろへ押し戻そうとした脚が滑る。尾が床を叩く。氷は割れたが、その間にユーゴは横穴の右壁沿いへ抜けた。足元はまだ、盛り上がった口の内側だ。凍った部分を踏まず、魔物と水路の間へ身体を入れる。
「尾まで上がった。ここで止める!」
「長くは止まらないわ!」
ユーゴは頷く代わりに、鉈を上げた。
*
長剣なら横へ振れるかもしれない。そう思う幅はあったが、抜き替える間に、口が来る。
ユーゴは鉈の柄を握り直した。
魔物が頭を振り、身体ごと向きを変えようとする。前脚が砂を押し、後ろの氷が鳴った。尾の先まで、横穴の乾いた側にある。
ユーゴは身体の正面から少し外れた場所へ足を置いた。逃げるだけでは、また水の方へ頭を戻される。ここを通るつもりなら、自分の方を向かせなければならない。
口が開く。
踏み込むふりをすると、魔物の頭が伸びた。ユーゴは斜めへ引き、顎の下を床へ通した。閉じた口の付け根へ、短く刃を入れる。
鉈を抜くより早く、身体が暴れた。
引きずられる前に柄を引いた。鉈の重みが手に戻る。尾が戻ってくる。ユーゴは追撃せず、入口側の乾いた岩へ退いた。
「腕、大丈夫?」
「大丈夫だ。でも、こいつを力で押さえるのは無理だ。動く方で合わせる」
ロゼットが一度銃口を下げた。魔物の後脚と、その前のユーゴの足を見比べている。
「右へ一歩。脚の下だけ止める」
ユーゴは言われた方へ動いた。氷が身体の下へ伸びる。魔物は前脚で床を掻いたが、後脚が一瞬遅れた。
さっきのように尾が回らない。
ユーゴは伸ばされた頭の脇へ入り、先ほどの傷へ鉈を振り下ろした。一度、引く。口が床を擦った。まだ動く身体の外へ足を運び、もう一度。
尾が岩壁を打ち、それから力を失った。
ユーゴは刃を戻したまま待った。小さな脚の動きが止まるまで、ロゼットも銃を下ろさなかった。
血は砂の上へ広がっていた。水面の光は、横穴の口の向こうにある。
「そっちへ、流れてない?」
ユーゴが尋ねると、ロゼットは足元を見てから頷いた。
「まだここで止まってる。片づけるまで、踏んで水の方へ持っていかないで」
そこでようやく、ユーゴは鉈を下げた。強化が切れたのではない。初めから自分の足で動いていたのだと、膝の重さで思い出した。
*
ロゼットが岩の窪みからランタンを取り、ユーゴへ渡した。ほかに動くものがないか、明かりを向けて確かめる。
横穴の先は狭くなり、足音も水音も返ってこない。池の縁へは近づきすぎず、取水の枠へ通じる足場を見る。ユーゴが戻ると、ロゼットは入口側から血の広がりを確かめていた。
「二人で担ぐのは、無理ね」
「引きずるならできるかもしれないけど、水路へ落としたら困る」
彼女は頷いた。
「運ぶ人と、包む物を借りましょう。私はここを見ている。洞窟の外から声をかけて、戻ってきて」
ユーゴは鉈を手放さず、通ってきた足場を戻った。外で待っていた男が立ち上がる。
討伐した場所と、運ぶには人手が要ることを伝えると、男は村へ人を呼びに走った。
戻ってきた者たちを、二人で横穴まで案内した。魔物を厚い布で包み、板と縄を使って動かす。ユーゴが引き綱へ手を伸ばすと、ロゼットが入口を指した。
「あなたは足場を見て。浮いた石の場所を知っているでしょう」
ユーゴは綱を離した。
「ここから先、水路側へ傾けないでください。入口に近い浮いた石の手前で、一度止まって」
返事を待ってから先へ出た。荷が動くたび足元を見て、乾いた側を通す。洞窟を出ても、池へ雨が集まる窪地には置かず、村の男が選んだ別の場所へ運んだ。水路から離れたところで処理を頼み、汚れた布もそこで分ける。
横穴に残った血と粘液は、砂ごと集めて持ち出した。洗い流すための水は使わなかった。
手と道具を整えてから、ユーゴは袖を上げた。塞がりかけた傷に、新しく血が滲んだところはない。ロゼットにも見せて袖を戻し、岩へ腰を下ろした。ようやく脚の力を抜くと、さっきまで床を踏みしめていた疲れが出てきた。彼女が銃のカートリッジを調べる間、座って息を整えた。
「これ以上、氷を当てにする戦いはしたくないわね」
「俺も、しばらく受け渡しの方がいい」
「じゃあ、交換品は頼む。番号を隠さず渡してね」
*
取水口の前へ立っても、水の匂いは変わらなかった。
ロゼットは枠の周りを見て、まずその状態を書き留めた。濡れている場所、泥が溜まった端、粘液の筋。紙の番号を、水の管理をする男の記録と照らす。
「ここは、剥がれていませんか」
「縁の汚れね。術式までは切れてないわ。持っていて」
渡された灯りを、ユーゴは枠へ向けた。ロゼットは必要な汚れを除き、留め方と水の通りを確かめ直した。
傷はなかった。巨大な口も尾も、ここを壊してはいない。
「もう一度、動かしてみる」
ユーゴは灯りを少し上げた。
ロゼットが手順を確かめながら起動を試みる。待っても、流れ出る水には濁りが残った。彼女は枠へ触れ、術式面へ顔を近づけた。
「水が汚れすぎてる?」
「それも調べる。でも今は、働きが弱いというより、始まっていないの」
彼女は起動しなかったことを記録した。魔物がいた場所から設備へ視線を移し、もう一度枠を見た。
ユーゴは鉈を鞘へ収め、交換品の入った荷を引き寄せた。
「次を、ここで試すんだな」
「ええ。同じところで」
最初の筒を渡すと、ロゼットはその番号を読み上げた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
よかったら、感想やリアクションをいただけると、励みになります!




