第31章 水を待つ道具
街道が緩い坂を越えると、一面に葡萄畑が目の前に開けた。
道の両側から、向こうの丘の肩まで。杭に支えられた蔓の列が斜面に沿って幾重にも続き、風が渡るたび、葉の裏が日に光った。手前で起きた明るい揺れが遠くへ走り、次の畑へ抜けていく。ユーゴは坂を下りかけた足を緩めた。
フルーリで見慣れた麦畑とは全く違う、幹と葉と葡萄の房のコントラストに目を奪われる。葉の陰には葡萄の房が垂れ、畝の間を歩く人の帽子が、ときおり緑の上へ浮かんで見える。
「ここから、ベルフォンの畑?」
「ええ。あの丘の向こうにも続いてるわ」
「まだあるのか。……きれいだな」
口にしてから、ユーゴはもう一度奥を見た。低い石垣が畑を区切り、その間の細道が、遠くに見える屋根へ集まっていた。二人の歩く街道も、葡萄の列の中へ入り込んでいく。
「房を見ながら歩いて、脇へ落ちないでね」
「そんなに見てない」
「さっきから、三度は足が遅くなったわ」
ロゼットに言われ、ユーゴは前を向いた。グランジュを出て二時間余り。ゴブリンを討伐した日からは、もう数日が過ぎている。ブリジットたちを見送った後、村で休んでいる間に、腕の傷もほとんど塞がった。荷紐を掛け直しても、あの日のように顔をしかめずに済む。
道の先には、石を積んだ低い家々が寄り合っていた。家の前で籠を直していた男がロゼットを見つけ、戸口へ声をかける。すぐに別の顔が出た。
「今回は醸造所かい」
「そのつもり。温度の具合を見てから、注文を聞いて回るわ」
「なら、先にあっちへ行ってやってくれ」
男の手が、籠の縁で止まった。ロゼットも足を緩めたが、男はそれ以上言わず、村の奥を指した。
共同醸造所は、家々の向こうに長い屋根を連ねていた。開いた大戸の中へ入ると、木の匂いに甘酸っぱい匂いが重なる。太い梁の下に大きな槽が並び、その間を人が通れる広さの通路が奥まで延びている。外の葡萄畑を思い出し、ユーゴはようやく、これだけの広さが要るのだと思った。
槽から離して、柄の長い道具や桶が並べてあった。人はいるのに、道具を洗う音がしない。
袖を肘まで巻いた女がこちらを見た。ロゼットへ声をかけ、それからユーゴの腰の剣へ目を移す。
「連れが増えたのね」
「ユーゴ。護衛と、荷物を運ぶのを頼んでるの」
「フルーリから来ました。邪魔になるものがあれば、動かします」
桶へ手を伸ばすと、女が先に取っ手を押さえた。
「それは、まだそっちへ移さないで。洗い終わったものと分けてあるから」
女はそう言って桶を引き寄せた。底に残る水を確かめ、まだ洗っていない道具の側へ置く。
ロゼットは槽の脇へ荷を下ろし、外側に据えた調整具へ手を添えた。
「前に見たときと、仕込みの量は同じ?」
「減らしてある。使った日と量は、そこへ書いてあるよ。温度の方は、急におかしくなった感じはしないんだけど」
「量が違えば、前の合わせ方のままとはいかないかもしれないわね。記録を見せて。それと、この道具は洗うのを待ってるの?」
女の目が、床に並べた柄へ戻った。
「水がね。いつもの井戸から汲んでも、濁るの。煮て使っているけど、飲む分と炊事の分を先にすると、ここまでなかなか回せなくて」
ユーゴは槽を見た。
「酒を作るのにも、あの水を入れるんですか」
「中身は葡萄の汁だよ。でも、これを洗わずに次の仕事はできないでしょう」
女は長い柄を持ち上げた。先にこびりついた汚れを爪で落とそうとして、やめる。
「濁った水で洗って、きれいになったつもりにはなれないからね」
ロゼットは調整具から手を離した。
「その水、見せてもらえる?」
*
共同井戸の縁には、汲み上げた水を入れる容器が置かれていた。底は見えるが、陽の当たる側に薄茶色の濁りが浮いている。近づくと、乾いた土とは違う、湿った泥の匂いがした。
柄杓を持つ女が、水を汲みかけてロゼットを見た。
「そのまま飲んでは駄目だよ。腹を痛くした者もいる」
「重くなった人は?」
「そこまでは聞いてない。けれど、飯の支度のたびに、先に水を煮て。洗濯も後回しさ」
女は空の容器を持ち直した。ロゼットは水へ顔を近づけるだけで口をつけず、袖を巻いた醸造所の女へ目を戻す。
「水の管理をしている人と、村長さんに話せるかしら」
ほどなく、腰に鍵束を下げた男と、村長だという髪の薄い老人が来た。男は紙を何枚か挟んだ板を持っている。ロゼットが濁り始めた頃を尋ねると、板の端へ指をかけた。
「まだ交換の日には早いんだ。前に見たときは、破れもなかった。だから最初は、水路へ泥が入ったかと思った」
「この井戸の底から?」
ユーゴが覗くと、男は上の斜面を指した。
「ここは受ける方だよ。水はあの岩場の下、洞窟の池から来る。井戸と呼んでいるが、深く掘って湧かせているんじゃない」
家の間を、石で組んだ水路が下っていた。ユーゴはその傾きを目で辿った。
「山の水が、ずっと湧いてるんですか」
「雨をためるんだ。上の窪地に集まった水が岩の隙間を通って、下の池へ入る。出口に堰を作ってある。日に当たらないから、ためた分も減りにくい」
「雨が降らないと、なくなる?」
「長く続けばね。だから残りは見に行く。今日は、水が足りないわけじゃないんだが」
男は板を持ち直した。
畑へ水を回す溝なら、ユーゴも泥をさらったことがある。雨の後には葉も土も流れ込む。森の中の水だから、そのまま飲めるというわけではないらしい。
「池から出るところで浄水してるのね。設備を見せてほしいわ」
ロゼットが言うと、男の指が紙の上で止まった。
「行けなくなった。大きな、サンショウウオみたいなのがいる。交換品を持って入った者が追われたんだ。口を開いたら、こんなで」
両手を広げかけ、板を落としそうになって抱え直す。ユーゴが手を添えると、男は礼を言った。
「水が悪くなったのは、そいつのせいじゃないのか?」
村長の問いに、ロゼットはすぐには答えなかった。
「泥を巻き上げたり、汚したりはするでしょうね。でも、浄水の方が止まっているかは、設備を見ないと分からない。追い出せば全部戻るとは、まだ言えません」
「なら、その両方を見てもらいたい。中へ入れるようにして、交換も頼めないだろうか」
ユーゴはロゼットを見た。彼女もこちらを向いていた。
*
醸造所へ戻る途中で、二人は水路の脇へ寄った。
「俺が先に入って、道を空ける。その後で交換、でいいか」
「それだと、私が見ていないところで戦うことになるわ。水のそばで倒していい相手かも、分からない」
ロゼットは斜面へ目を向けた。
「一緒に場所を見ましょう。あなたは前、私は後ろから。設備と魔物の場所を確かめてから、どちらへ動かすか決めたい」
「後ろから撃つなら、俺が通路を塞がない方がいいな。動く前に、そっちから見えるか聞く」
「お願い。私も、あなたの逃げる方を凍らせないようにする」
「腕は?」
「ほとんど治った。剣を振るのも平気だ。ただ、思いきり伸ばすと少し引く」
「分かった。私も休んでいる間に充填はしておいたけれど、撃ち続けられるわけじゃない。長引きそうなら一度出る。そこは先に決めておくわよ」
「ああ。引くときも、一緒に」
戻ると、醸造所の女が道具の前で待っていた。ロゼットは開きかけた点検の記録を閉じる。
「先に水の方へ行ってきたいの。こっちは途中にしてごめんなさい。戻ってから、順に見直すわ。これだけの槽があるから、点検と調整で何日か。それぞれ、夜を越した後の働きも確かめたいの」
「そうして。道具だけ直っても、洗えないままじゃ仕事にならないもの」
女は作業台の片側を空けてくれた。
ロゼットはそこへ、浄水用の筒を並べ始めた。村の交換品だけでなく、自分の荷からも取り出し、印と小さな文字を読み比べる。ユーゴが同じ形の筒へ手を伸ばすと、彼女は一つを別へ寄せた。
「それとこれは、同じところの同じ時期の品。こっちを先に持ちたい」
「新しければ、いいわけじゃないんだな」
「フルーリで、同じ場所へ置いても動くのと動かないのがあったでしょう。今度もそうなるかは分からない。でも、一枚だけ持って行って、駄目だったら取りに戻るのは避けたいの」
五枚の結界スクロールを広げたときのことを思い出した。三枚は働き、二枚は働かなかった。見た目の違いを、ユーゴは見つけられなかった。
彼は筒を戻し、代わりに布を広げた。
「番号が見える向きで並べればいいか」
「ええ。使う前の状態も書いておく。泥をつけた後では、最初から汚れていたのか分からなくなるから」
記録する順に筒を渡した。ロゼットは封印用の袋と採水の容器を分け、魔導銃のカートリッジを確かめる。ユーゴも鉈を手の届く場所へ移した。
村長が置いてくれた食事を取り、少し休んでから立つ。水の管理をする男は、その間に洞窟までの道と、貯水池の取水口へ続く足場を紙へ描いていた。
*
岩場へ上がると、家々の屋根が下に見えた。
洞窟の口から、細い水路が伸びている。男はその脇で足を止め、内側を指した。
「池の手前に、乾いた横穴がある。道具を置くこともあった場所だ。奥は見えないが、取水口へ行く道とは別れてる」
冷たい空気が頬へ触れた。入口から見える岩床は濡れ、黒い筋が奥へ続いていた。
「ここで待っていてください。呼ぶまで、入らないで」
ユーゴが言うと、男は板を胸へ抱えた。
「交換する場所まで、案内した方が」
「場所は、この紙で教えてもらった。中へ入れたら、また確かめます」
ロゼットが頷いた。男が道を空けるまで待ち、ランタンを掲げる。
ユーゴは長剣の柄に触れた。天井を見てから手を離し、鉈を抜く。今日は後ろに、斧も、ノエの手もない。
「灯り、今の高さで見える?」
「見える。先へ進めたら、声をかける」
返事をして、濡れていない石を一つ選んだ。




