第28章 振り下ろす
壁が遠ざかると、臭いが変わった。
湿った岩に、古い食べ物と獣皮の匂いが混じっている。広間の端には袋や農具が積まれ、擦り切れた毛布の間から骨が突き出していた。
その奥で、大きなものが動いた。
座っていたゴブリンが立ち上がる。ユーゴは思わず顎を上げた。外で戦った大型より、まだ大きい。普通のゴブリンなら肩がある場所に、厚く張った腹があった。
手には、鉄の塊をつけた粗雑な長柄の武器を持っていた。石床へ先を落とすと、通路で聞いた音が響いた。
巨体が口を開いた。唾が飛び、こちらを追い払うような声が広間に満ちる。
その間に、ユーゴは鉈を収めた。
長剣が鞘を離れる。柄の革が掌へ戻った。隣ではブリジットがダガーを床へ捨て、背の斧を両手で構えていた。
「横、任せたよ」
「ああ」
ユーゴは入口の前を空けた。ノエが入口脇の低い岩へランタンを置く。広がった明かりの中で、ブリジットが広間の中央へ出た。ユーゴはその斧が通る幅を避けて横へ回り、床に落ちた農具を跨いだ。後ろにはノエとロゼット、さらに後ろに入ってきた通路がある。
「ユーゴ、足を。ブリジットは、身体を支えます」
ノエが手を向けると、足の重さが薄くなった。ブリジットは膝を落とし、斧を持つ手を握り直す。
巨体が、歩き始めた。
*
振り上げられた武器を見て、ユーゴは横へ動いた。
ブリジットは逃げなかった。斧を斜めに立て、大きな刃の根元で相手の柄を受ける。
音が身体へぶつかってきた。
靴が床の砂を削った。ブリジットの肩が下がる。それでも刃を滑らせ、振り抜かれそうな武器を脇へ逸らした。
ユーゴは空いた側面へ入った。脚を斬る。剣が皮を裂き、硬いものへ噛んだ。もう一段深く、と力を込めた瞬間、膝がこちらへ動いた。
剣を引き、身体を退く。蹴りが腹の前を通った。
傷から血が出ている。だが、相手の足は止まらなかった。
「浅い!」
声を出すと、ブリジットが短く答えた。
「こっちは、斧を振り上げる暇がない!」
彼女の斧は敵の武器を受けた低い位置にある。大きく振りかぶれば、その間に叩かれる。
ユーゴは背後まで回ろうとして、やめた。巨体がこちらを追って半身になると、長柄の先がブリジットの斧から外れる。二人の間へ振られれば、ロゼットとノエの方へ通してしまう。
斬れる側から踏み込み、脇腹へ刃を引いた。今度は血が横へ飛んだ。相手は声を上げたが、止まらない。剣の間合いから押し出すように、肘が迫る。
ユーゴは退き、床の農具に踵を引っかけた。踏み直す間にブリジットの斧が入り、肘の先を受け止める。彼女が歯を食いしばったのが見えた。
「無理に回らないで。こいつ、あんたへ向くたび、こっちへも振れる!」
「分かった。見えるところにいる」
どこへでも回れる広さがあっても、離れていいわけではなかった。ユーゴは農具を足で脇へ押し、ブリジットから自分の剣先が見える位置へ戻った。
雷が巨体の脇へ走った。
腕が一度引き攣る。ユーゴはその隙へ剣を入れたが、相手はすぐに武器を引き戻した。麻痺で止まった時間は、一歩を入れるほどしかなかった。
「もう少し、止められるか!」
ロゼットが銃を持ち替える。巨体の足元が白くなり、薄い氷が岩を覆った。ゴブリンは片足を取られたが、倒れずに踵を踏み下ろした。
氷が割れた。
砕けた欠片がユーゴの脛へ当たる。巨体は怒号を上げ、またブリジットへ武器を振った。
彼女が受けた。今度は片足が後ろへ流れた。
ユーゴは脇へ剣を入れ、相手の腕が下がる方向へ引いた。刃は肉を裂いたが、太い腕の動きを断てない。逆に武器を押し返され、ブリジットと一緒に退くことになった。
「雷も氷も、長くは止まらない!」
ロゼットの声に、ユーゴは頷いた。火を使えとは言わなかった。入口へ流れる空気の中に煙を満たせば、引く道まで失う。
巨体の攻撃が、また上がる。
ユーゴは正面へは入らず、肘の内側へ剣を走らせた。相手が腕を引く。その短い動きで、ブリジットが一息を得た。
深く切るだけでは足りない。けれど、触れられたくない場所はあるはず。
「斧なら、届くか」
ユーゴが尋ねると、ブリジットは巨体から目を離さずに答えた。
「ちゃんと振れれば。受けたままじゃ、この重さを乗せられない」
ユーゴは肘を狙うふりをして、相手の目を引いた。巨体が腕を戻した瞬間、ブリジットの斧が少し上がる。だが、敵はそれを見ると柄を押し出した。上げかけた斧がまた低く戻される。
足りない。腕を引かせるだけでは、次の攻撃を止められない。
自分がもっと強く斬れれば、と剣を握り込んだ。上腕の傷が疼いた。何度も同じ場所へ力を込めている。その間も、ブリジットは受け続けていた。
ユーゴは柄の握りを緩めた。剣を低く戻し、相手の肘と、押さえ込まれた斧を見た。ブリジットが上げかけるたびに、巨体の腕が戻ってくる。
*
次の踏み替えで、足が遅れた。
思った場所に脚が届かない。武器の端が肩をかすめ、ユーゴは床へ手をついた。上腕の傷が開くように熱くなった。
ブリジットが割って入る。斧がぶつかった後、彼女の膝が床へ近づいた。
「ノエ!」
「分かっています。今――」
声が途切れた。
ユーゴは転がって武器の軌道から出た。顔を上げると、ノエが入口の脇で腕を上げていた。指先が揺れ、唇だけが動く。膝を伸ばそうとして、伸ばせていない。
「もう、続けられません……!」
ブリジットの斧が押し下げられた。長柄の武器が、彼女の顔へ近づく。
ユーゴは相手の足へ剣を入れた。倒すための一撃にはならない。それでも傷ついた脚を引かせ、ブリジットが転がる場所を作った。
自分も立ち上がる。息が詰まった。二人で退いても、ノエとロゼットのところへ押し込まれるだけだ。
入口までの床が見えた。ノエは片手を岩へついている。あの狭い通路へ四人が入るまで、誰かがここで受けなければならない。
ユーゴは剣を上げた。持ち上がった敵の柄を正面から受けたら、今の腕では弾かれる。脚へ刃を見せ、こちらを向かせて退く。巨体の足が一つ進む。もう一歩来れば、背中のすぐ後ろはノエがいた。
ブリジットが横から斧を当て、相手の踏み出しを止めた。ユーゴは彼女の隣へ戻った。息を整えるために休ませることさえ、できていない。
「ノエ、魔力を戻すスクロールを使う。あなたが二人を支えて!」
ロゼットの声がした。
彼女は銃を置き、荷から取り出した筒の封を切っていた。すぐそばに回復用のカートリッジも見えたが、手はそちらへ戻らなかった。
「傷の手当てでは、強化は戻せない。あなたに任せるわ」
紙を引き出し、ノエの腕へ押し当てる。
「でも、それは――」
「残り少ない販売分よ。でも使う。手をここへ」
巨体が顔を向けた。ユーゴはその手前で剣先を上げ、胸へ突く姿勢を見せた。相手の武器がこちらへ戻る。
「ユーゴ! ルヴィエの白狼の毛皮、私がもらうわ。受け取るのも、何に使うかも、売るのも全部、私の権利よ!」
スクロールには、もう光が走っていた。
「分かった! 使ってくれ!」
「言ったわね!」
ロゼットの手は止まらなかった。ユーゴは最後まで見る余裕をなくし、迫る鉄塊を避けた。
足が重い。さっきのようには動けない。ブリジットが斧で武器を叩き、わずかに向きを変えてくれた。
「あと、少し!」
自分へ言うような声だった。ユーゴは彼女の肩の血を見て、剣を戻した。
*
「ユーゴ、動きを戻します!」
ノエの声が、今度ははっきり届いた。
前へ踏んだ足が、身体を支えた。引き戻す剣に指が追いつく。痛みはある。息もまだ苦しい。それでも、敵の腕が動き始めるところを見てから、避けることができた。
「ブリジット、受ける方を!」
「来な!」
ブリジットが腰を落とす。敵の武器を斧で受けたとき、靴は滑ったが、膝は床につかなかった。
ユーゴは相手の脇へ回った。
さっきと同じ場所を深く斬っても、また引き戻される。ブリジットが振りかぶるだけの時間が必要だった。
「上げられるか!」
「そいつが、止まれば!」
ユーゴは一度だけ頷いた。
巨体はブリジットの斧を押し潰そうとしている。ユーゴが足元へ剣を落とすと、傷のある脚を少し引いた。
まだ当てていない。こちらの剣に、動いた。
道場で、追えると思わされた半歩が頭を過ぎった。
ユーゴはもう一度、同じ脚へ剣先を向けた。踏み込む足を見せる。相手が脚を引き、武器の柄を横へ戻そうとした。
そこへは入らない。
ユーゴは外へ小さく踏み替え、剣を肘の内側へ返した。腕が跳ねる。続けて膝の脇へ、もう一度腕へ。強く斬り込むより、戻される前に刃を離す。
ノエの支えで、足が細かな切り返しに追いついた。
巨体が身体をねじり、武器をこちらへ引こうとする。その柄を、ブリジットが斧の刃元で押さえていた。
足と腕が別の方へ動いた。
ほんの一瞬、膝が折れ、上体が前へ流れた。
ユーゴは剣を引いた。
「今だ!」
ブリジットが武器を押し放す。大きく斧を振り上げた彼女の足元へ、ノエの手が向いた。
ユーゴは巨体の脇から外側へ踏み退いた。ブリジットと相手の首の間に、自分の腕も剣も残さない。踵が床を捉えたときには、彼女の斧が頭上にあった。
斧が空気を裂いた。重い刃が首と肩の間へ食い込み、巨体が前へ崩れる。武器の柄が岩を叩き、転がった。
倒れても、ユーゴは剣を下げられなかった。
*
ブリジットは斧を握ったまま立っていた。
ユーゴは、床の武器を踏まないように回った。巨体の手が動かないかを見た。長い息が漏れ、その後は音がなかった。
「ブリジット」
「ああ。いるよ」
返事があった。肩が上下している。
「ノエ。ロゼット」
「こっちにいます」
ノエの返事に顔を向けると、ロゼットも片手を上げた。もう一方の手は、使い終えた紙を握っている。
ユーゴはようやく、剣先を下へ向けた。
誰も次の仕事を言わなかった。ノエが壁へ背をつけ、ゆっくり座る。ブリジットは斧から片手を離そうとして、握り直した。ユーゴはそばへ行き、持っていようか、と尋ねた。
「いい。もう少ししたら、離せる」
声がかすれていた。
ロゼットが銃を拾い、紙と筒を荷へ戻す。筒の口を押さえたまま、しばらく手を動かさなかった。
「これ一本で、今回の取り分より高いのよね」
その声で、ユーゴは白い狼のことを思い出した。毛皮はまだルヴィエにある。ここにあったのは、彼女が持ってきた商品と、それを使う手だった。
「助かった」
ロゼットはこちらを見た。
「四人ともね」
ユーゴは頷いた。次に息を吸ったとき、ようやく肺の奥まで空気が入った。
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