第24章 四人の出発
七日目の朝、ユーゴは左から来る木剣を、刃を合わせずに見送った。
浅い。届かせるつもりのない剣だった。踏み込めば、右にいる隊員の前へ出る。足を引き、二人が同じ側に見える位置へ回ると、ランバルがわずかに笑った。
今なら、届く。
ユーゴが打ち込むと、兄弟子は後ろへ下がった。もう一歩追ったところで、右肩に木の先が触れた。
「そこまで」
ユーゴは足を止めた。横にいた隊員の剣だった。
「最初は見えてたんだけどな」
「見えなくなったのは、いつだ」
ランバルに聞かれ、踏んだ場所を見直す。床の上には汗の跡しかなかったが、自分がどこで剣先を追ったかは分かった。
「ランバルが下がったとき。もう少しで当てられると思って」
「そう。避けた後で、また誘われた」
ランバルは先ほどの位置へ戻り、木剣を下げたまま一歩退いた。追う側から見れば、自分で作った隙に見える。ユーゴは息を整えながら、その足元と、隊員が立っていた場所を見比べた。
「前なら、最初ので飛び込んでいた。今日は一度、二人とも見える場所へ動けた。それは持っていけ。ただ、できた一回を頼りにするなよ」
「分かった。相手が替わったら、また分からないことが出るんだな」
「同じ相手でも出る。俺からもう一本取るつもりなら、なおさらだ」
ユーゴが笑うと、ランバルも剣を返しに歩き出した。
再会してから使わせてもらった木剣を、汗を拭いて戻す。並んだ柄を見ていると、明日もここへ来るような気がした。けれど壁際には、旅の荷と、シガゼルの革を巻いた自分の剣がある。
荷へ手を伸ばしかけて、ユーゴは振り返った。
「出る前に、もう一つ教えてもらえませんか」
先ほど肩へ一本入れた隊員が、木剣を棚へ置く手を止めた。若い隊員に混じって稽古をつけていた、年嵩の騎士だった。擦り切れた袖口を折り返し、ユーゴを見る。
「今の誘い方か?」
「いえ。怪我をした人の、血を止める方法です」
騎士の手が棚から離れた。ランバルも戸口へ向けていた身体を戻した。
「フルーリで、マルタンさんが倒れたとき、布で押さえたんです。でも、すぐに濡れて。押さえているところから、まだ出てきて……その次に何をしたらいいのか、分からなかった」
掌を見た。洗えば落ちた血なのに、布の重くなる感触は残っていた。戸板を持つよう言われるまで、そこから動くこともできなかった。
「今度は四人で行きます。治療のできる人もいるけど、その人が怪我をしたら。俺がそばにいても、また見ているだけになりそうで」
騎士は壁際の腰掛けへ向かい、小さな手当て袋を持って戻った。
「その傷なら助けられた、と俺には言えん。見てもいない傷だ。だが、今から覚えられることはある。ここへ座れ」
ユーゴは荷を脇へ置き、床へ膝をついた。
騎士は布を取り出した。折り畳んで腕に当て、傷口を押さえる手の置き方を見せる。それから、同じものをユーゴへ渡した。
「まず周りを見ろ。手当てをしているお前まで斬られたら、二人とも動けなくなる。ほかに仲間がいるなら、誰に周囲を任せるか、声に出して頼むんだ」
ユーゴは布を握ったまま、戸口に立つランバルを見た。
「ランバル、周りを頼む」
「任された。治療する者を呼ぶのも、俺がやる」
返事を聞いてから、差し出された腕へ布を当てる。騎士は空いている手で、ユーゴの指の位置を直した。
「傷がない今は、形だけだ。実際にやるときは、布を置くだけでは止まらん」
指先を揃えようとすると、布の端がずれた。直すために手を浮かせたところで、騎士がその手首へ触れた。
「見た目を整える方に気を取られるな。何のために押さえている?」
「……血を止めるためです」
ユーゴはもう一度、布を当て直した。
「押さえたら、確かめるために何度も手を離すな。布に血が染みても、傷口を見ようとして剥がすな。圧迫を続けろ」
騎士は腕や脚からの激しい出血に備える止血帯も取り出した。押さえるだけでは追いつかない場合に使うものだと説明し、丸めた外套で扱いを見せる。ユーゴにも持たせ、手を止めたところからやり直させた。
「これは腕と脚だけだ。傷の上や関節には巻かない。使ったら勝手に緩めず、巻いた時刻と場所を治療する者へ伝えろ」
マルタンの傷は横腹だった。同じ道具を使えばよかったのだ、と置き換えられるものではない。ユーゴは用途を一つずつ聞き直した。
「止まったら、運べばいいんですか」
「治療する者へ引き渡す。何をしたかも伝えろ。血が見えなくなったからといって、治ったわけではないからな」
騎士は外套を解き、ユーゴへ布を戻した。
「もう一度。今度は、仲間を呼ぶところから」
ユーゴは顔を上げた。ランバルはまだ戸口にいて、呼びかけを待っていた。
*
練習に使った布を返すと、騎士は畳み直して袋へ収めた。節の太い指が、ほどけかけた紐を結び直す。
「旅の手当て道具は、治療役にも見てもらえ。底へしまい込むなよ。使うときに探していたら困る」
「はい。今日のやり方も、もう一度見てもらいます」
自分の荷に入れた布がどこにあるかを確かめ、口に近いところへ移した。教わった手つきを、膝の上でもう一度なぞる。誰かが傷つくところを考えると、やはり指は固くなった。それでも、最初に誰を呼ぶかは言えた。
「ありがとうございました。剣の方も、手当ての方も」
騎士が頷いた。ユーゴは立ち上がり、ランバルにも向き直る。
「世話になった。みんなにも」
礼を言うと、隊員の一人が、肩を叩いた分は返しに来いと言った。
「また寄れよ。次は困ったところを持ってこい」
ランバルの差し出した手を握った。
「勝った話もできれば、する」
「それは聞いてから判断する」
戸の外へ出ると、朝の空気が汗の引いた首筋に触れた。ユーゴは荷紐を締め直した。教わったことを全部、すぐ使えるわけではない。右肩に残った軽い痛みが、そのことを忘れさせなかった。
*
出発の待ち合わせ場所には、もう三人が揃っていた。
ロゼットが大きな革のリュックの口を閉じ、ブリジットは道を塞がない向きへ斧を立てている。青い上衣のノエが二人の間で顔を上げた。
「遅れたか」
「ちょうど。こちらは名前を教え合ったところよ」
ロゼットは立ち上がり、ブリジットの斧へ目を戻した。
「聞いてはいたけど、近くで見ると大きいわね」
「振るところは、もっと広いよ。あんたの銃がどこから来るのか、先に聞こうと思ってた」
ユーゴは荷を下ろした。出発前に話したいことが、皆にもある。それだけで、募集の紙へ名前を書いたときとは違う気持ちになった。
「その前に、依頼の話をもう一度いいか。俺の聞いたことと、皆の知ってることが違うと困るから」
紙を開き、森の集落と奥の洞窟を示す。外にはおよそ五十体。ただし数え切れたわけではなく、洞窟の中の数は別だ。村を警戒する領兵は二人。ユーゴが前に寄ったときも、畑と支道を回るので手一杯だった。
「五十を倒したら終わり、とはいかないんだね」
ブリジットが洞窟の文字を指した。
「ああ。中に何がいるか、村で聞きたい。道のことは、頼めるか」
「森へ入る道なら。ただし、あたしが通れた場所を連中が使ってないとは限らない。着いてから確かめよう」
ユーゴは紙を畳みかけ、もう一度開いた。道も確認、と余白へ書く。書き終わるのを待ってから、ノエが口を開いた。
「洞窟へ入る前にも、休める場所を見たいです。外でどのくらい使うか、今は言えないので」
「魔力か」
「はい。それと、お二人の傷です。歩けるから大丈夫、と先へ行かれると、後で追いつけなくなります」
「それ、あたしにも言ってる?」
ブリジットが笑った。ノエは笑い返しかけたが、斧を握る彼女の手を見て頷いた。
「お二人にです」
「分かったよ。止まれって言うなら、聞く」
言い終えたブリジットが、こちらも待った。ユーゴも頷く。募集のときにした約束が、今度は前で戦う二人の約束になった。
「ノエ。これも、見てほしい」
ユーゴは荷の口から畳んだ布を出した。今朝、道場で教わってきたことを話す。治療までの間、自分たちでできることを確かめたいと言うと、ノエは荷を置き、隣へしゃがんだ。
「傷ができたら、まず僕に場所を教えてください。誰かの手当てをしていたら、ほかの人の傷まで見えないことがあるので」
「俺が押さえている間に、ブリジットを診るとか、そういうことか」
「はい。どちらを先に診るかは、そのとき決めます。押さえているから軽い傷だとは思いません」
ユーゴは布を自分の腕へ当て、騎士に直された位置へ手を置いた。ノエは横から見て、傷もないところを強く押さえる必要はないと止めた。
「ここで痛くして出発しないでください」
ブリジットが吹き出した。ユーゴも手を緩める。覚えたところを見せようとして、力が入っていた。
「あたしも布は持ってる。使うときに探さず済むようにしとくよ」
斧の脇へ置いていた荷を、ブリジットが開いた。ノエはその手元を見てから、ユーゴへ向き直った。
「僕が手を出すまで、勝手に外さないでくださいね。交代できるところで言います」
「分かった。代われるって言われるまで、押さえてる」
ノエへ布を渡し、畳んで返してくれるのを待った。ユーゴが荷の口を開いてしまう場所を示すと、ノエも自分の手当て袋を持ち上げて見せた。
*
ロゼットは道脇の空いた場所へ移り、銃から雷のカートリッジを外し、袋から出した三種類と並べた。
「雷は今まで使っていたもの。相手を一時的に止める。新しく受け取った氷は足場を塞ぐのに使えるけど、凍った場所へ踏み込めば私たちも滑るわ」
「斧を振り下ろす足元まで凍らせないでよ。踏ん張ったところで転ぶのは嫌だからね」
「だから、あなたが立つ場所を先に知りたいの。火も同じ。進路を区切るために使うけど、味方が通る方へは撃てない」
ブリジットは斧を寝かせ、手で柄を引く動きをした。
「右から振るなら、こっちまで使う。ユーゴが抜けるなら、振り終わってから。途中で潜られると止められない」
ユーゴはその外へ一歩離れた。離れ過ぎれば二人の間を抜けられる。半歩戻すと、今度はロゼットから斧の陰に隠れた。
「そこでは、私が向こうを狙えない」
彼女が銃を下へ向けたまま、少し横へ動く。ユーゴも立ち位置を変えた。剣の間合いだけを見ていたときには、考えなかった場所だった。
「俺が横へ回ったら、後ろが空く。そこへ来る相手を止めてもらえるか」
「見えていれば。だから、黙って遠くへ行かないで」
「呼ぶ。そのとき、ブリジットの前には戻らない」
「それなら、あたしは目の前を押せるね」
ノエは少し離れて、二人の足を見ていた。
「ユーゴには、踏み替えと反応を助ける方がよさそうです。ブリジットは、振る力だけでなくて、戻すときの身体も支えたい。強めれば同じように動ける、とは思わないでください」
「ずっと効いてるわけでもないんだよね」
「はい。弱くなる前に伝えます。痛みや、いつもと違う重さがあれば、そちらからも」
ブリジットは腕を曲げ伸ばしして、自分の肩を確かめた。ユーゴも剣を抜かずに腰へ手を添える。誰かに強めてもらって戦う自分の身体が、まだうまく想像できなかった。
「最初は、慣れたつもりにならない方がいいな」
「そのつもりでいてもらえると、助かります」
ノエの返事は、さっきより早かった。
ロゼットは回復用を別にしまった。
「これは非常用。傷を悪くしないための応急処置はできる。でも、治ったかどうかの判断はノエに頼む。痛くなくなったから走っていい、とは限らないそうよ」
ノエは頷き、しまう場所を確かめた。
「僕がすぐ手を離せないときは、お願いします。その後で、どこへ使ったか教えてください」
「ええ。銃だけで全部済むとは、数えないでおくわ」
「一つ撃つたびに、交換するんですか」
ノエが、収めかけた袋を見た。
「中の魔力を使うの。空になっても捨てずに、あとで充填して使える。でも、戦っている間にいくらでも撃てるわけじゃない」
「僕の魔力と同じですね。なくなる前に、教えてください」
ロゼットは袋へ視線を落とし、それから頷いた。
「あなたにもね。残っている方だけを当てにして、先へ行かないようにしましょう」
四種類を収め終わるまで、誰も出発を急がせなかった。
*
街道へ出ると、領都へ向かう荷車と行き違った。車輪の溝に足を取られないよう、ユーゴは荷を背負い直した。
ブリジットが先の道を指す。
「グランジュへ着いたら、村長と兵のところだね。畑へ出ている人にも、話を聞けるといい」
「干し草を扱っている人にも会いたいわ。この前の調整で、使い具合がどうなったか聞きたいの」
ロゼットの言葉に、ユーゴは刈った草を手で広げていた村人を思い出した。戻ってきたときに使った様子を聞かせてほしい、と頼んでいた。
「討伐が終わったら、俺も運ぶのを手伝う」
「まず四人で帰ってからよ。手の怪我を隠して束を持たないでね」
「そのときは、僕にも見せてください」
ノエまで加わったので、ユーゴは自分の両手を見た。まだ傷のない手だった。
ブリジットが笑い、歩幅を少し緩めた。四人が同じ道幅へ収まる。ユーゴはその隣を歩きながら、森へ入る道のことを尋ねた。
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