第23章 時計が六時を打つ前に
領都で過ごす日々が半ばに差しかかった夕方、ユーゴは道場から一人で出てきた。
昨夜は隊員たちと酒場で食べた。自分が引っかかった誘いを、向かいの男がパンで再現し、手を伸ばしたところで皿を引かれた。笑っているうちに、食事が終わっていた。
今日はランバルに夜の任務があり、ほかの者にも用があるという。時計広場へ向かいながら、昨日と同じ酒場へ入ろうかと考えていた。
「ユーゴ?」
荷包みを抱えたロゼットが、通りの向こうで足を止めた。
「稽古の帰り?」
「ああ。ロゼットは、もう用事は終わりか」
「今日はね。まだ店を回るつもりだったけど、欲しい物は揃ったから」
「それなら、一緒に夕食に行かないか。今日は一人で食べるつもりだったんだ」
ロゼットは荷包みを抱え直した。
「……二人で?」
「ほかに誰かと約束してるなら、またにするけど」
「してない。行くわ」
すぐに返ってきた答えのあとで、彼女は広場の時計を見上げた。
「ただし、せっかく領都で食べるなら、ちゃんとした店にして。ゆっくり話せるところ。予約もお願いね」
「予約か」
「席がなかったら、二人で店の前に立つことになるでしょ。六時に、あの時計の下。それまでに荷物を置いてくる」
ユーゴが頷くと、ロゼットは来た道とは違う通りへ曲がっていった。
時計の針をもう一度見た。まだ時間はある。
店を知らない、という問題だけが残っていた。
*
「それで、戻ってきたのか」
道場で上着を整えていたランバルは、ユーゴの話を聞いて手を止めた。
「この辺で、予約して行くような店を知らなくて。昨日の酒場でもいいのかと思ったけど、ゆっくり話せるところって言われた」
「昨日は、隣の卓の歌しか聞こえなかっただろ」
「途中からは」
「なら、別の店がいいな」
ランバルは少し考え、通りの角と、その先の看板を教えてくれた。料理がよく、高すぎず、二人で話すにはちょうどよい店だという。
「席はこちらで頼んでおく。二人で、六時過ぎだな」
「助かる。何か、頼んだ方がいいものはあるか」
「ミラベルのタルトが名物だ。今の季節なら食べられる」
聞き慣れない名前を口の中で繰り返して、ユーゴは戸口へ向かった。
「待て。そのまま行くなよ」
呼び止められ、振り返った。ランバルはユーゴの襟を指した。稽古の汗が乾いて、布の色が違っている。
「水浴び場を使え。髪も洗って、汗をちゃんと落とす。服は洗ったものに替えるんだ」
「夕食を食べるだけでも?」
「お前だって、食卓へ道場の匂いを持っていきたくはないだろう」
襟をつまんでみると、たしかに汗の匂いがした。ユーゴは素直に頷いた。
「分かった。急げば間に合う」
「急いで、洗い残すなよ」
ランバルの声には、稽古で足を戻せと言うときとは違う、少し笑った響きがあった。
*
髪を乾かし、清潔な服へ着替えて広場へ戻ると、時計はまだ六時を指していなかった。
昼間は荷車が横切っていた広場に、店じまいをする人々の声が響いていた。窓の明かりが一つずつ増えていく。ユーゴは時計の台座の脇へ立ち、教わった曲がり角を頭の中で確かめた。
ロゼットは、鐘が鳴る少し前に現れた。
いつもと大きく違う服ではなかった。襟も袖口も整い、髪はきれいに梳かれている。その中に、巡回の道では見たことのない髪飾りが一つあった。
「待った?」
「いま来たところ。髪、それ」
ユーゴが目を向けると、ロゼットの手が途中まで上がった。
「変?」
「いや。かわいい」
上がりかけた手が止まった。
言い方が変だっただろうか。ユーゴが彼女の顔を見ると、ロゼットは髪ではなく襟元を直した。
「……そう。ありがとう」
鐘が鳴り始めた。ロゼットは音の方へ一瞬顔を向け、それからユーゴを見た。
「そっちも、ちゃんとしてきたのね」
「ランバルに言われた。髪まで洗えって」
「そこまで教わったの」
「店も頼んでくれた」
ロゼットは小さく息を吐いた。そのあとに浮かんだ笑みの理由までは分からなかったが、店選びを叱られることはなさそうだった。
*
教わった店では、窓辺に小さな灯りが置かれていた。
扉を開けると、焼いた肉と香草の匂いがした。奥から皿の触れ合う音が聞こえる。席は埋まり始めていたが、隣の話を遮るほどの声はなく、若い男女の二人連れが窓越しの景色を眺めていた。
ランバルの名を伝えると、すぐに小さな卓へ案内された。
「ここだったのね」
ロゼットが椅子へ腰を下ろす。
「知ってる店?」
「友達に聞いたことがある。入るのは初めて」
「よかった。俺も初めてだから、何を頼んだらいいのか相談できる」
「それは二人とも分からないってことじゃない?」
笑われて、ユーゴも笑った。
献立を見れば、道中の宿より少し高いくらいだった。二人で料理を選び、出されたパンを割った。薄い皮が指の下で鳴り、温かい中身から湯気が上がる。
ロゼットは、ユーゴが二つ目へ手を伸ばしたところで尋ねた。
「道場では、食べる稽古もしてるの?」
「今日は、ずっと追い回されてた」
「ユーゴが?」
「一人を見てると、もう一人が来るんだ。分かってても、受けた方へ目が残る。それで肩を叩かれる」
食卓で木剣の動きを手で示しかけて、ユーゴは水の杯を避けた。ロゼットが自分の杯を卓の端へ寄せる。
「ここで再現しなくていいわ。お皿に勝っても、褒めてもらえないから」
「ランバルには一本取れたんだけどな」
「それ、先に話すことじゃない?」
身を乗り出した彼女に、ユーゴは勝負のことを話した。昔から知っていた足の癖を待ったこと。それまで何度も、来ない剣へ動かされたこと。
「一回勝ったら、できないことがこんなにあるって分かった。先生に教わった型へ戻れるから、何とか立っていられるけど」
「じゃあ、帰ったらベルナールさんに話せるわね。勝ったところだけじゃなくて、困ったところも」
「ああ。きっと、そっちを詳しく聞かれる」
ロゼットが頷いた。給仕が料理を置き、二人はしばらく、香草の香りや熱い皿に気を取られた。
肉を切り分けて口へ運ぶ。ロゼットが添えられた野菜の味を確かめ、何が入っているのか首を傾げた。ユーゴには分からず、もう一口食べてみた。それでも分からなかった。
「二回食べれば分かると思った?」
「分かったら、教えようと思って」
「じゃあ、分かったら教えて」
彼女は笑い、残りを急いで片づけようとはしなかった。
フルーリを出てから、こんなふうに次の時刻を気にせず向かい合って食べることが、どれくらいあっただろう。ユーゴはパンを皿に戻した。
「ロゼットに、頼みたいことがある」
*
冒険者登録をしたこと、グランジュの依頼を正式に引き受けたことを話すと、ロゼットは食器を置いた。
「森の集落と、奥の洞窟まで?」
「うん。外だけで五十くらいって見込みだった。着いたら、村の人と兵に今の様子を確かめる。ブリジットっていう斧使いと、ノエっていう治療と補助をする人が来てくれることになった」
ユーゴは二人の応募理由を伝えた。ブリジットの故郷であること。ノエは経験が浅いが、そのことを隠さず、前に出る者の動きと治療の場所を気にしていたこと。
「俺とブリジットが前で戦っても、何人も横を抜けて来たら追い切れない。離れた場所を見て、援護してくれる人が要る。ロゼットにも、一緒に来てほしい」
ロゼットはすぐには答えなかった。ナイフを皿の縁へ揃え、少し考えた。
「二人は、私も来ると聞いているの?」
「頼みたい人がいる、とだけ。参加するとは言ってない」
「出発は、予定していた日?」
「準備が済む七日目。無理なことがあれば、今言ってほしい」
ロゼットは卓へ置いた手を引き、背もたれから身を起こした。
「分かった。参加する。あの村の人たちが畑へ出られないのは、私も気になってる。干し草の調整はしたけど、安心して刈りに行けなきゃ困るもの」
「ありがとう。ギルドの手続きは、俺が聞いて――」
「登録なら、もうしてあるわ」
ユーゴの言葉が止まった。
「魔物の討伐もしてたのか」
「ちがう。 配送や回収、現地の修理も冒険者ギルド経由で受けることがあるの。行商人組合経由の仕事は、少量の配達や危険な道への配達は引き受けてもらえないことがあるんだけど、そういう依頼が必要な人も多いでしょ?」
初めてギルドへ行ったときに見た、小箱を抱えた老人を思い出した。剣を持たない者があの場所を使う理由が、目の前の彼女とつながった。
「ただ、雷だけでは、数が多い相手を全部止められない。撃ったところと違う方へ走られたら、そのたびに狙い直すことになる」
ロゼットは指先で、卓の空いた場所へ二つの道筋を描いた。
「行かせたくない方を塞ぐとか、足を止めるとか。明日、魔道具職人の友人に相談してくる」
「そういう使い方もできるのか」
「できるかどうか、確かめるの。人数に入れるのはいいけど、まだない道具まで数えないでね」
「分かった」
ロゼットが食器を取り直した。ユーゴも皿へ手を伸ばした。少し冷めた料理を食べながら、次は四人で顔を合わせる時間を相談した。
*
食後にユーゴが名物の名を告げると、ロゼットは水の杯を持ったままこちらを見た。
「タルトも、ランバルに聞いたの?」
「今の季節なら食べられるって。食べたことある?」
「ないわ」
「じゃあ、頼もう。二人で分けられるそうだから」
「……ええ」
運ばれてきた一皿の上に、蜂蜜色の小さな果実が花びらのように並んでいた。ミラベルというスモモだと、給仕が教えてくれた。薄い生地の縁に焼き色がつき、果実の汁が灯りを返している。
ユーゴは取り分けた片方を、ロゼットの皿へ移した。
「こっちでいい?」
「いい。ありがとう」
彼女は一口を切る前に、元の皿を見た。ユーゴも何か残っているのかと思って見たが、生地のかけらしかなかった。
口に入れると、香ばしい生地のあとから果実の甘さが広がった。噛むと酸味が出て、もう一口ほしくなる。
「うまいな」
「……うん。おいしい」
ロゼットはそう答えてから、もう一口を小さく切った。
「ランバルに、礼を言っておかないと」
「そうね。でも、食べた感想を全部報告しなくていいから」
「全部って?」
「おいしかった、くらいで十分」
何がまずかったのか分からず、ユーゴは頷いた。ロゼットの口元が緩み、今度は二人で笑った。
店を出ると、昼間の熱が石畳から引き始めていた。二人で宿へ戻る道で、ロゼットは窓に映る髪へ一度だけ手をやった。
「また明日から、忙しくなるわね」
「ああ。今日は誘ってよかった」
彼女は半歩遅れ、それから隣へ戻ってきた。
「私も」
並んで宿へ戻ると、廊下でロゼットが自分の部屋の前に立ち止まった。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
手を上げて別れ、ユーゴも自分の部屋へ向かった。洗った服を乱暴に椅子へ掛けないようにしようと思った。
*
翌朝、ロゼットは領都の通りにあるミレイユの工房を訪れた。
机の上には、分解した金具と開いた専門書が、互いの場所を奪い合うように並んでいた。戸を開けた音に、革の作業前掛けを着けた女が顔を上げる。後ろで結んだ暗い髪から短い毛束が落ち、頬には擦った汚れが残っていた。
「今日は、修理? それとも変な使い方をした報告?」
「まだしてない。これからする相談」
「それなら間に合うね」
魔導銃を作った職人は、工具を置いて卓の一角を空けた。ロゼットは銃を袋から出し、ゴブリンの討伐に加わることと、前で戦う二人を離れた場所から支えたいことを話した。
「雷で一体を止めても、ほかが抜けてくる。まとめて倒すより、通らせる場所を減らしたいの」
「前に試していたのが使えるかもしれない。氷の方も、調整が済んだところ」
ミレイユは箱からカートリッジを出した。火、氷、それから回復用。以前、試作の話を聞いた品だった。ロゼットは三つを順に手へ取り、自分の銃へ合わせてよいか尋ねた。
工房の試験場所へ移り、まず火の出方を見た。銃を構えるロゼットの横で、ミレイユが射線を確かめる。区切られた試験用の床へ炎が走り、ロゼットは狙った端とのずれを告げた。
「思ったより手前から広がる」
「それを見たかった。人の足元へ落とすつもりで撃たないで。止めたい進路へ先に置く。味方が横切るなら、使えない」
消火を確かめ、冷えるのを待ってから氷を試した。水を張った浅い容器の表面が白く固まる。端を押すと、厚くなったところと薄いところがあった。
ロゼットは、平らな試験場と、森の根が張った地面を比べた。
「同じ広さにはならないわね」
「なると思わないで。どこまで凍ったか、自分で見ること。滑るのは、こっちの仲間も同じだから」
ミレイユはカートリッジを外し、接続部を覗き込んだ。作動のあとも部品が熱を持ちすぎていないか、指先で確かめている。
待っている間に、ロゼットは昨日の店の話をした。
「そういえば、前に教えてくれたレストラン、行ったわ。時計広場から曲がったところの」
「あそこ? どうだった?」
「料理もよかった。ミラベルのタルトも食べた」
工具の先が止まった。
「誰と?」
「ユーゴ。フルーリから一緒に来た、護衛の」
「二人で、あのタルトを?」
「そうだけど。……その聞き方、やめて」
ロゼットは銃を置き、空いた袋の口を広げた。
あの店で男女が一皿のタルトを分けると結ばれる。そんな噂を教えてきたのは、目の前の友人だ。昨日は、皿が運ばれるまで忘れていようとしていた。ユーゴが何も知らずに半分をこちらへ寄せたせいで、余計に意識してしまった。
「予約はランバル。ユーゴは噂なんか知らない。ただ夕食を食べただけよ」
「じゃあ、店を選んだ人は、知ってたかもね」
「それは私に聞かないで」
ミレイユが笑った。
「少しはおしゃれして行った?」
「いつもの服。洗って、整えただけ。髪飾りは着けたけど」
「あれを? 何か言われた?」
言わなければよかった。ロゼットが袋の紐を指へ巻くと、ミレイユは工具を机に寝かせたまま、答えを待った。
「……かわいいって」
「へえ」
「飾りの話よ」
「私、何も言ってない」
ロゼットは紐をほどき、銃の脇に並んだカートリッジを指した。
「回復の確認がまだ。そっちを先にして」
「はいはい。昨日は一緒に食事で、今日は一緒に戦う準備ね」
「四人で行くの」
ミレイユは笑いながらも、回復用を取ると接続部をもう一度見た。
*
回復用に替えて出力を確かめると、ミレイユは作業で擦っていた指の小傷を示した。
「浅い傷だけど、まだ曲げると痛い。ここで確かめよう」
指示された位置へ銃を合わせ、ロゼットは起動に必要な魔力を送った。傷に沿っていた赤みが薄れた。ミレイユがゆっくり指を曲げ、伸ばす。
「さっきより痛まない。あなたの魔力でも、ちゃんと働いてる」
「もう治った?」
「表面はね。だからって、深い傷にも同じでいいとは思わないで」
差し出された指へ顔を寄せ、ロゼットは残った傷跡を確かめた。痛みが減ったと本人に聞かなければ、それも分からなかった。
「痛みが引いても、動かしていいかは別なのね」
「傷の状態を判断する人まで、銃には入ってないよ。とりあえず悪くなるのを抑える、その間に治療を受ける。そう使って」
「ノエっていう人が来てくれる。私が全部やる必要はないわ」
回復用を分けて収め、ロゼットは残った火のカートリッジを手に取った。
「これ、国家承認の扱いは?」
ミレイユの笑みが薄くなった。
「火のスクロールに掛かる規制と、同じに扱われる可能性はある。私は魔道具の部品として作ってるけど、その区別を向こうも認めるかは、別の話」
「スクロールではない、という解釈ね」
「そう。絶対に問題ないとは言わない」
ロゼットは外装を指で撫でた。村の草も、森の木も、進路を塞ぐつもりで燃やせば味方の逃げ道を奪う。使う場所の判断も、持ち歩く責任も、友人に預けてはいけない。
「分かった。その扱いを承知で受け取る。使ったら、どう広がったかも記録してくる」
「無事に帰って、教えて。記録だけ届いても困る」
ロゼットは顔を上げた。ミレイユはもうからかっていなかった。
「ええ。直してほしいところがあったら、私が持ってくる」
受け取った三種類を確かめ、銃と一緒に袋へ収めた。
戸口で、ミレイユが声をかける。
「それと、タルトの感想も、続きがあれば」
「続きはないわ。おいしかった。それだけ」
昨日、ユーゴにもそう言ったことを思い出した。ロゼットは友人が何か言う前に戸を開けた。
外の空気は、工房より涼しかった。袋の留め具を締め直す。四人で顔を合わせたら、まず、火と氷を使う場所を皆で確かめようと思った。
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