第21章 故郷の名を呼ぶ声
「そこ、手を離すな。車輪が上がってからだ」
通りの先で、荷車が溝にはまっていた。
押しているのは店の男と、武具を身につけた二人だった。号令をかけた方が車体を持ち上げる。車輪が石の縁を越えると、もうひとりがすかさず後ろへ楔を差し込んだ。
ユーゴも手を貸そうと近づき、その横顔を見て足を止めた。
「ランバル?」
男が顔を上げた。
目が合っても、すぐには返事がなかった。ユーゴの顔から旅装へ視線が動き、また顔へ戻る。
「……ユーゴか。お前、どうしてここにいる」
「歩いてきた」
「そういうことを聞いてるんじゃない」
言い方が昔と同じで、ユーゴは笑ってしまった。ランバルも口元を緩め、荷車が動き出すのを見届けてから、腕についた埃を払った。
二つ年上の兄弟子だった。同じベルナールのもとで剣を振り、三年前に免許皆伝を受けて村を出た。そのときより、周りへ指示を出す声がよく通る。
「隊長。巡回の報告は私から」
もうひとりの男が言った。ランバルは頷き、確認を二つ返してから送り出した。
「隊長?」
「領都防衛隊を預かってる。自分だけ動いていれば済んだ頃の方が、楽だったな」
そう言いながらも、去っていく部下の背を確かめる目は落ち着いていた。ユーゴはしばらく兄弟子を見た。王国騎士団へ入ったとは知っていたが、目の前で隊長と呼ばれると、三年の長さが急に形を持った。
「今、話せるのか」
「ああ。ちょうど交代したところだ。お前こそ、畑はどうした。先生の使いか」
二人は荷車の邪魔にならない脇道へ入った。店先に積まれた空の木箱の向こうで、通りの声が少し遠くなる。
「旅に出ることになったんだ。ロゼットっていう行商人と。村にも来てた人で……」
ユーゴは言いかけ、どこから話せばいいのか分からなくなった。
ランバルは急かさなかった。片方の手袋を外し、もう片方も外して、腰の帯へ挟んだ。
「何かあったのか」
ユーゴは頷いた。
*
「収穫祭の日に、北の結界が止まった」
自分の口から言うと、祭りの飾りを見上げたときの空が戻ってきた。
そこから話した。村へ魔獣が入り、自分とベルナールが大きな熊のような魔獣と戦ったこと。さらに来た二匹を、ロゼットが退かせたこと。なるべく順に話そうとしても、一つの出来事に触れるたび、別の声が先に浮かんだ。
「先生は」
「無事だ。俺も。……でも、マルタンさんが亡くなった」
言い終えて、ユーゴは木箱の節目を見た。
村にいたときには、誰に話しても、相手はすでに知っていた。リネットの家の前で足を止める理由を、一から説明する必要はなかった。
「リネットの父親の?」
「うん。傷が、ひどくて」
ランバルの手が帯へ伸びた。挟んだ手袋を一度押さえ、そのまま止まった。
荷車の軸がきしむ音が、表の通りを過ぎていった。
「リネットと、アンヌさんはどうしてる」
ユーゴは、泣いていた顔だけを答えにはできなかった。
「家にいる。二人とも、仕事はしてる。リネットは、俺たちが出るときに食べ物を用意してくれた。」
話しながら、自分でも頼りない答えだと思った。元気なのかと聞かれたら、同じ言葉では返せない。それでも、二人の暮らしはあの家に残っている。
「俺が出る前には、笑ってた。でも、それで平気になったわけじゃないと思う」
「……そうか」
ランバルは壁際へ視線を落とした。
「次の非番に帰る。二人の顔を見て、マルタンさんの墓へ参ってくるよ。先生にも、直接話を聞きたい」
ユーゴは息を吐いた。次の非番。その日は自分には分からない。それでも、誰かがあの家の戸を叩いてくれる日を思い浮かべることはできた。
「来てくれたら、喜ぶと思う」
「何か伝えておいた方がいいことはあるか」
ユーゴは考え、首を振った。
「俺からの言葉より、会って話してほしい」
「分かった」
それから少しの間、二人とも何も言わなかった。通りへ出る人を避けて、並んで一歩だけ壁へ寄った。
*
「その剣」
歩き出してしばらくしてから、ランバルが言った。
ユーゴが腰へ目を落とすと、兄弟子は柄の下を見ていた。歩く拍子に上着の裾がずれ、はめ込まれた印が見えている。
ユーゴは裾を少し持ち上げた。ランバルの視線が、その印で止まった。
「先生から、もらったのか」
「ああ。出発前に。全部の型を修めたって」
ランバルは足を止めた。
「そうか。お前も、とうとう」
差し出された手で、ユーゴの肩が一度だけ叩かれた。さっきまでと違う温かさがあった。村で木剣を握っていた頃、先にできるようになった型を、ランバルは何度も見せてくれた。ユーゴがようやく真似できたときも、こんなふうに肩を叩いた。
「今なら、少しはついていけるかもな」
「少し、で済ませるつもりか。先生が渡した剣だろう」
「でも、お前は隊長だろ」
「肩書きで剣が速くなったら苦労しないさ」
ランバルは曲がり角の先を示した。
「道場へ来ないか。俺の勤め先だ。一本、付き合ってくれ。どれだけ仕込まれたのか、話だけじゃ分からない」
ユーゴは腰の剣へ手を添えた。ベルナールに認められたことは嬉しかった。その剣を見て、兄弟子が自分と打ち合いたいと言っている。
「今からでいいのか」
「俺はいい。お前に用事があるなら、別の日にする」
「なかったんだ。さっきまで」
ランバルが笑った。ユーゴも笑い、今度は彼の隣に並んだ。
マルタンの名を話した脇道が、後ろへ遠ざかった。帰ると約束した兄弟子の歩幅は、ユーゴの足に無理なく合っていた。
*
道場の戸を開ける前から、木剣を打ち合わせる音がした。
中は通りより涼しかった。汗と磨かれた木の匂いがする。壁に沿って置かれた武具、その前で息を整える隊員。奥には広い稽古場があり、二組が間を空けて打ち合っていた。
ランバルが声をかけると、壁際の男がこちらを向いた。
「故郷の兄弟弟子です。先生から免許を受けたそうなので、一本、見ていただけますか」
道場の指南役だという男は、ユーゴの挨拶を聞き、立ち方と腰の剣へ目を向けた。
「道具を合わせよう。試合はこちらで止める」
借りた防具の紐を締め、木剣を受け取った。握りの太さを確かめていると、稽古を終えた隊員たちが端へ寄ってくる。上着の整った年嵩の男に、ランバルが一礼した。防衛隊を監督する王国騎士団の幹部だと、短く教えられた。
見られる人数が増えた。
ユーゴが木剣を握り直すと、向かいのランバルが笑った。
「そっちを見ていると、始まる前に疲れるぞ」
「こんなに集まると思わなかった」
「俺も、少し多いと思ってる」
その一言で、肩から余計な力が抜けた。
互いに礼をする。ランバルの剣先が上がり、笑みが消えた。
「始め」
*
右肩が動いた。
来る、とユーゴは剣を上げた。だが、ぶつかるはずの重さが来ない。
ランバルの剣先は止まり、足だけが間合いへ入っていた。腹へ回る木剣を、ユーゴは肘を畳んで受けた。音が胸元で鳴る。押し込まれる前に足を引いた。
間に合った。そう思う間もなく、今度は下を見られた。
足を狙うのか。
重心を下げかけたところへ、剣が高く走った。ユーゴは身を開いて避けた。木剣が防具のすぐ外を通り、脇の下へ風が入った。
村では、師が間合いを変えても、打ち込まれる剣に型を合わせて返せた。今は、打ち込まれると思った瞬間に、剣が来ない。その空白へ、自分から手を出してしまう。
ユーゴは息を吐き、構え直した。
正面の剣先を見ると、足が出る。足を見ると、剣が遅れてくる。ランバルは一歩で届く場所を保ちながら、その一歩を踏むかどうかだけで、何度もこちらを動かした。
受けて、離れる。
ランバルの腹が空いた。ユーゴがそこへ剣を出すと、相手はもう半歩退いていた。届かない。返ってくる木剣を辛うじて弾き、ユーゴも後ろへ跳んだ。
次は逆へ回った。追ってくる剣を、肩ごとひねって押し流す。剣先を下げすぎるな、とベルナールの声が頭に浮かんだ。押されるたび、足と手が教わった場所へ戻った。
ランバルが、さっきとよく似た位置へ出た。
同じように腹が空く。ユーゴは打ち込みかけた足を止めた。前にあそこへ剣を出したときは、返しが間に合わなかった。
それでも、次に来た上からの一撃には遅れた。刃を合わせるので精一杯だった。
分かったわけじゃない。
喉が乾く。防具の中で汗が流れた。壁際の私語が、いつからか聞こえなくなっていた。
*
ランバルの足が、ほんの少し内へ入った。
剣が来た。受けた木剣が肩口まで押し戻され、ユーゴは踏みとどまった。まともに打ち合うと、次の動きへ移るまでの早さが違う。
いまの足。
幼い頃、ランバルは強く打とうとすると、踏み出す足をわずかに内へ入れた。ベルナールに直されるところを、ユーゴは何度も隣で見ていた。
ただ、さっきの誘いにはなかった。
右肩を動かしたときにも、足元へ視線を向けたときにも、昔の動きは出ていない。今だって、見えたと言い切れるほど大きくはなかった。
次の剣を受けた。違う。
続けて突き出された剣先を払おうとして、手を止めた。止めたせいで足が遅れ、今度は後ろへ下がるしかなかった。
分からないものは、まだ分からない。その中に、一つだけ知っているものがあった。
ユーゴは剣を正面へ戻した。
ランバルの視線が脇へ流れる。剣先が一度、低くなる。ユーゴの手がつられかけた。
踏み出す足の向きが変わった。
今度は来る。
大きく避ける余裕はなかった。ユーゴは半歩だけ外へ出て、落ちてくる木剣へ斜めに自分の剣を合わせた。腕へ衝撃が走る。その力を正面で止めず、剣先を横へ送り出す。
ランバルの肩が、目の前にあった。
ユーゴは返した木剣を打ち込んだ。
「一本!」
指南役の声で、足が止まった。
二人の間に木剣が一本ぶんの隙間が戻る。ユーゴはまだ次の剣が来る気がして、構えを下ろせなかった。
「そこまで。礼」
ようやく息が漏れた。
*
礼を終えたランバルは、打たれた防具を指で押さえた。
「今の、足か」
ユーゴは頷いた。
「昔、強く打つ前に少し内へ入れてただろう。さっき一度、それに似たのが見えた。それで……待ってた」
「先生にずいぶん直されたんだけどな。まだ残ってたか」
苦い顔をしたのは一瞬だった。ランバルは木剣を下げ、ユーゴの構えがあった場所へ目をやった。
「こっちは、お前を同じ受けに戻そうとしてた。腹へ意識を向けさせれば、次に肩が空くと思ってな。でも、下がる足も戻す剣も、毎回ちゃんと収まる。反応は引き出せるのに、そこから崩しきれなかった」
「受けるので精一杯だった。あと一度同じことをされても、取れる気がしない」
「同じようには出さないよ。もう知られたからな」
ランバルが笑った。ユーゴも頷いた。
一本を取ったのは、自分だった。その手応えは腕に残っている。同じくらいはっきりと、何度も空振りさせられた自分の判断も残っていた。
防具の紐を解こうとすると、指が少し震えた。
壁際から拍手が起きた。だがユーゴが見ていたのは、ランバルの足だった。何も来ない場所へ剣を出させた、あの一歩を、もう一度教わりたかった。
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