第12章 帰りを待つ人
ルヴィエには、家より先に柵が見えた。
草を踏み分けた道が囲いへ入り、牛がゆっくり首を持ち上げる。別の囲いからは羊の声がした。フルーリで馴染んだ刈り跡の土とは違い、風に混じる匂いまで温かい。
朝から歩いて三時間ほど。日はまだ頭の真上へ来ていなかった。
「来たよ、ロゼットさんだ」
飼料庫の前で、袖をまくった女性が手を振った。ロゼットが遅れたことを詫びると、事情を聞いているから気にするなと、逆に二人の顔を確かめられた。
品物を下ろす場所を聞き、ユーゴは包みを置いた。
ロゼットは納品の数を相手と読み合わせ、修理した品をその場で動かしてもらう。代金を帳面へ記す手は速いが、使う人が首を傾げるとすぐに止まった。
「使いにくいところ、残ってる?」
「ここが少し、固いね」
「前より力がいる? それとも、指を掛ける場所?」
ユーゴが空いた包みを畳んでいると、日焼けした男が腰の剣を見た。
「旅の剣士かい。ひとつ、頼みたいことがあるんだが」
放牧していた家畜が襲われているという。狼は夜の家畜小屋にまで寄り、山へ入った者を追い回すようになった。
「俺は、冒険者にはまだ登録していません」
「ギルドを通した依頼じゃない。村から頼みたい。森の狼を残らず捕れって話でもないんだ。何頭か減らしてくれるだけで十分さ」
男は柵の向こうを見た。
「あそこへ出さずに済めばいいが、ずっと小屋へ閉じ込めてもおけなくてな」
「分かりました。どこで出たか、教えてください」
返事が先に出た。
*
「狼狩りを頼まれた。俺、引き受けたから、これから行ってくる」
飼料庫の入口でユーゴが告げると、ロゼットは帳面から目を上げた。外では案内の男が、森の方角を指して別の村人と話していた。
「結界は、ここではちゃんと動いてるの?」
ユーゴは続けて尋ねた。
「普通の狼なら、国家承認の結界の対象外。故障とは限らないわ」
「じゃあ、獣除けは。畑に置いてたものなら」
「狼には効くと思うけど、牛や羊にも効いてしまうと思う。同じ場所にいる家畜を残して、狼だけ追い払うようにはできないのよ」
囲いの中で、羊が柵に体を擦りつけた。
「範囲を狭くしても?」
「狼が来るのは、その家畜のいるところでしょう。強くすれば家畜が余計に怯えるし、人だって、フルーリの畑みたいになるかもしれない」
ユーゴは柵の先を見た。同じ草の上に立つものを、巻物の都合で分けることはできないらしい。
「手伝ってもらおうかと思ったけど、そっちもまだ、かかる?」
「私は、これを終わらせる。修理も注文も、飼料庫の調整も残ってるから」
ロゼットは言ってから、声を少し落とした。
「それに、二人とも戻れなくなったら、誰がフルーリへ巻物を持っていくの。もしあなたが戻れなくても、私は領都へ帰って、来た職員と選んで、届けなきゃいけない」
ユーゴはうなずいた。責められたとは思わなかった。
「うん。頼む」
「頼まれなくてもそのつもりだし、ちゃんと帰ってきてよ」
彼女は帳面を閉じ、待っている飼料庫の持ち主へ向き直った。
ユーゴは案内の男について村を出た。
*
最後に家畜が襲われた場所は、森の入口に近かった。
男が地面を指す。草の倒れ方と足跡を確かめ、ユーゴは森へ向く。
「ここから先は、戻っていてください」
「一人で行くのか」
「足跡がまだ追えます。見つけたら、近くへ来ているものを数匹狩ります」
男はためらったが、武器らしいものは持っていなかった。戻る方向と待つ場所を確かめて、村へ引き返した。
木立に入ると、音が変わった。背後の家畜の声が遠くなり、落ち葉を踏む自分の音がよく聞こえる。
足跡は、一頭分ではなかった。
ユーゴは剣を抜いた。茂みの奥に灰色の背が見え、別の影が右へ移る。真正面から飛びつく前に、横へ回ろうとしている。
左へ一歩動き、太い幹を背後に置いた。
先に来た狼の牙が、腿を狙う。横へ抜けながら斬る。刃を戻すより早く、もう一頭が低く入ってくる。木の根を越えて体を引き、その鼻先へ切っ先を返す。
倒れた一頭を、残りは踏まなかった。
低い唸りがして、左右の影が同時に動く。ユーゴは右の狼へ剣を向けた。左が来る。足を残さず回り、背中を幹から離さないように受け流した。
数を減らせば逃げる。そう考えていたが、狼たちは距離を取ってまた近づいた。
奥から白い体が出てきた。
ほかより一回り大きい。肩の毛が厚く、古い傷が口元を引いている。草を踏む足に、急いでいる様子がなかった。
白い狼が低く沈む。
ユーゴも腰を落とした。来る、と思った瞬間、白い体は横へ跳ねた。目がそちらを追い、別の狼が空いた側へ入る。
牙を剣の腹で押し返す。衝撃が肘へ走った。
白い狼は、もう正面に戻っていた。
息が上がる。柄が汗で滑り、握り直した。白い体を追ったぶんだけ、横から来る灰色の影に遅れていた。
ユーゴは幹に寄り、見る範囲を狭めた。白い狼の肩と前脚を、両脇の狼と一緒に視界へ収める。
白い狼が動くたび、周りの狼も寄る。だが、すべてが同じ速さではなかった。一頭が、いつも少し早く飛び出す。
その一頭が動いたとき、ユーゴは半歩退いた。
白い狼はまだ来ない。先走った体が、木の根を越える。横へ開いて刃を振り下ろすと、次の狼が勢いを失った。そこへ切っ先を向け、踏み込んで退かせた。
白い狼の前に、空間ができた。
低く唸り、白い体が地面すれすれに動く。今度も横へ跳ぶかもしれない。ユーゴは剣を振り始めず、足の位置を保った。
後脚が土を蹴った。
肩の下へ入り込むように、牙が伸びる。
ユーゴは軸足をずらした。頬に獣の息が触れ、避けた分だけ、剣の通るところが開く。刃を押し込んだ。
白い体が地面へ落ちた。
剣を引き抜いて構え直す。残った狼は倒れた体へ寄らず、茂みの奥へ消えていった。ユーゴは追わなかった。
腕の震えが収まるまで、木に背を当てて立っていた。
*
村へ戻ると、飼料庫の前にいたロゼットが顔を上げた。
入口に置いた修理品はなくなり、畳まれた包みだけが積んであった。庫の持ち主が、扉を開ける時間を忘れずに記しておくとロゼットへ言っている。彼女は返事をしかけ、ユーゴの姿を見ると途中でやめた。
「遅かったじゃない」
「白い、大きいのがいて。なかなか退かなくて」
彼女はユーゴの袖と、剣の柄を見た。
「怪我は」
「擦ったところはあるけど、歩ける」
「袖を上げて。歩けるかどうかだけ聞いたんじゃないから」
ユーゴは言われたとおり腕を見せた。ロゼットは浅い擦り傷を確かめ、布を渡した。その手から布を受け取って初めて、自分の指先が冷えていると気づいた。
「案内の人は先に帰ってた。あなたも、すぐ後ろにいると思ったら……」
言葉を切り、彼女は包みの紐を結んだ。結び目を引く指に、少し力が入っていた。
ユーゴは村人へ結果を伝えた。討伐した場所へ戻れるよう、目立つ倒木と足跡の分かれる場所を覚えている。複数の村人が運搬の道具を持ち、一緒に現場へ向かった。
白い狼が村へ運ばれると、人々が足を止めた。
「これは、立派な白だな」
皮革を扱う男が毛の流れを確かめ、ユーゴを見た。
「どうするつもりだ、この毛皮」
「俺には価値も、扱い方も分かりません。村で使えるなら、任せます」
「任せる、にも二通りある。あんたの物を、値打ちも知らせず村の物にはできん」
男は手を離し、まっすぐ言った。
「皮を剥いで、防腐して、鞣すところまでは請け負える。仕事代はもらうぞ。明日の朝には仕上がらんから、次に来るまで預かる。それでいいか」
ロゼットが横から毛皮を覗いた。
「本当に分かってないのね。白い毛皮なら、相当な値がつくかもしれない。加工した出来も見ないと、値段は言えないけど」
「そんなに違うのか」
「違うの。正直な人に聞いてよかったわね」
彼女は、加工の代金と保管の約束を一緒に確認してくれた。買い手の話はしなかった。ユーゴは有料の加工を頼み、次に来るまで預かってもらうことにした。
*
その夜は村に泊まった。
飼料庫の調整も、ロゼットの修理も終わっていた。外は暗く、街道へ出るには遅かった。
翌朝、村人へ依頼の完了を改めて伝え、二人は領都へ向かった。背負う荷が軽くなり、ユーゴは昨日より楽に歩けた。隣の足音は、しばらく黙ったままだった。
「一人で行くとは、思ってなかった」
道が曲がったところで、ロゼットが言った。
「村の人か、狩りに慣れた人と行くものだと思ったの。帰ってきた案内の人に聞いて、そこで初めて知った」
「案内だけしてもらえば、大丈夫だと思ったから。……人数は、話してなかった」
「あなたは、そう思ったんでしょうね」
ロゼットは足を止めた。
「次に誰かを助けるときは、決める前に、私にも話して。止めたいからじゃない。どこへ、誰と行くのか、何を頼まれたのか。それくらいは知っていたいの」
ユーゴは昨日の「うん。頼む」を思い出した。戻らなければ巻物を届けてくれと、簡単に任せてしまっていた。
彼女が待っている時間のことは、考えていなかった。
「ごめん。次は、行く前に話す」
「行くことを決めてから報告するんじゃなくて、相談して」
言い直されて、ユーゴはうなずいた。
「分かった。どうするか、一緒に考えてからにする」
ロゼットが歩き出す。ユーゴも隣へ戻った。
約三時間で領都へ着き、帰還を知らせた。残りの待機の間、ロゼットは在庫を確かめ、ユーゴは宿を拠点に過ごした。
王都から二人の魔導局員が到着したという知らせは、そうして待っていたところへ届いた。




