15.八つ当たり
その夜も、リュミリアはライアンに付き添って夜会へと出席していた。
ノワールが毒に倒れてから、まだ幾日も経っていない。
ノクティス公爵家で療養することになった彼の容態は安定している。リュミリアの力で毒は完全に取り除かれ、後遺症も今のところ出ていない。けれど、いつまた彼が危険に晒されるか分からないと思うと、リュミリアは落ち着かなかった。
(少しでも早く彼を守るための魔道具を完成させたい……)
そう考えて、ここ数日は睡眠時間も削って研究を続けていた。もっとも、それを誰かに話すつもりはなかったのだけれど。
「リュミリア」
隣から名を呼ばれ、リュミリアはゆっくりと顔を上げた。
「……はい?」
「珍しいね、君がこれほど、ぼんやりしているのは」
「……申し訳ありません。少し考え事をしておりました」
「考え事、ね」
ライアンの視線が、リュミリアの顔をじっと見つめる。
夜会の会場は、相変わらず華やかな音楽と人々の談笑に満ちていた。今宵もまた、ライアンは婚約者であるリュミリアを伴い、貴族たちとの交流を深めている。その傍らで、リュミリアは微笑みを貼り付け続けていた。
けれど、身体は正直だった。頭が重く、視界の端が時折ぼやける。立ち続けているだけで、足元が頼りなくなっていた。
「……少し、顔色が悪い」
「そうでしょうか?」
「自覚がないのかい?」
「……少々、疲れているだけですわ」
そう答えた直後、ふっと視界が揺れた。足元が遠のくような感覚に、リュミリアは思わず一歩よろめく。
「リュミリア!」
咄嗟に伸びてきたライアンの腕が、彼女の身体を支えた。
ライアンの手が背に回り、倒れかけた身体を抱き留める。周囲の視線が集まる気配に、リュミリアは慌てて姿勢を正そうとした。
「ライアン様……大丈夫ですわ。少し、足がもつれただけで……」
「いいから……着いて来て」
いつになく強い口調だった。
ライアンは周囲に短く声をかけると、リュミリアを連れて廊下へ繋がる扉へと歩き出す。
「ライアン様、どちらへ……?」
「休憩室へ行く。そこまで歩けるかい?」
「……はい」
そう答えたものの、リュミリアの足取りは覚束なかった。
ライアンに支えられるようにエスコートされて、会場を抜ける。途中、何人かの貴族がこちらを見ていたが、今はそれを気にする余裕もない。
案内された休憩室には、幸い誰もいなかった。
扉が閉まる音を聞きながら、リュミリアはぼんやりと室内を見渡す。
柔らかな長椅子と小さなテーブルのある品の良い部屋だった。窓辺には花が飾られ、夜会の喧騒も遠くに感じられる。
「座って」
「……はい」
促されるまま、リュミリアは長椅子に腰を下ろした。ライアンが対面の椅子へと腰掛けた。
未婚の男女が、休憩室で二人きり……いくら婚約者同士とはいえ、体面を考えれば褒められた状況ではない。誰かに見られれば、余計な噂を立てられる可能性だってある。
そんなことを考えながらも、リュミリアはぼんやりと長椅子に、もたれかかっていた。
「……医師を呼ぼう」
「必要ありませんわ」
「必要があるかどうかは、俺が判断する。今の君には必要だ」
「……大袈裟ですわね」
「倒れかけた人間が言うセリフはないね」
淡々とした苦言に、リュミリアは小さく眉を寄せた。
「……殿下は、いつもそうですわね」
「何?」
「何でもご自分で決めてしまわれるところです」
きちりとした殿下という敬称と、八つ当たりのように出た言葉に、ライアンが驚いたような顔をした。
「……今の君に判断を任せる方が危険だ」
——その言葉は、ノワールの件で自分の判断の甘さを思い知らされたばかりのリュミリアの心を、ささくれた指先のように撫でた。
「少しは私のことを信用なさってはいかがです!」
口にしてから、リュミリアは自分でも驚いた。こんな言い方をするつもりではなかった。けれど、一度こぼれた言葉は止まらない。
「……わたくしが少し疲れたくらいで、いちいち騒がないでくださいませ。殿下のお仕事を邪魔するつもりはありませんし、夜会に出席するお約束を疎かにするつもりはありません」
「だからといって、無理をして倒れては元も子もないだろう?」
「無理などしておりません!」
また、思ったよりも大きな声が出た。リュミリアは唇を引き結ぶ。そんな彼女をライアンは静かに見つめていた。
その視線すら、ひどく癪に障る。
「……殿下には、分からないでしょうね」
「何がだ?」
「わたくしが、どれだけ……」
そこまで言って、言葉に詰まる。
(どれだけ……ノワール様を守りたいか……)
彼を守りたい。二度とあんな辛いことや思いをしてほしくない。自分のせいで彼が傷つくのは、二度と味わいたくない。
……けれどリュミリアは、そんな内心をライアンに話すつもりはなかった。ノワールの秘密にも関わる話だ。それに彼に話したところで、何が変わるというのだろう。
「……いえ。何でもありませんわ」
「リュミリア」
「……そもそも、殿下が毎夜のように私を夜会に連れ回すから、疲れが出たのです」
誤魔化すように口にすると、ライアンは痛いところを突かれたような顔をした。
「私は殿下の婚約者として、必要な役割を果たしております。ですから、少しくらい疲れていたとしても、殿下にご心配いただく必要はありませんわ」
「……君は、自分が何を言っているのか分かっているのか?」
「ええ。もちろんです」
そう答えたものの、先ほど大きな声を出したせいか、視界がまた揺らいだ。リュミリアは目を伏せ、額に手を当てる。頭が痛くて、身体が重い。それでも、ここで弱音を吐くつもりもない。
「……君は、今自分が、どんな顔をしてるか分かるかい?」
静かな問いかけに、リュミリアは顔を上げた。
「……どんな顔、ですの?」
「今にも泣き出しそうな顔だ」
「……っ」
ノワールの事件から、ずっと引き摺って、なんとか隠していた感情を言い当てられて。思わずリュミリアは息を呑む。それから否定するように首を振る。
(泣きそうなんかじゃない……泣いてる暇なんてない。ただ、疲れているだけ)
自分に言い聞かせる。少しばかり、思い通りにいかないことが重なって、気持ちに余裕がなくなっているだけ。そう言い聞かせようとしたのに。
「……殿下には、関係ありませんわ」
吐き捨てるような言葉は、震えてしまった。これ以上、感情を晒したくなくてリュミリアは顔を背ける。
二人の間に沈黙が落ちた。
ライアンは、ただ静かにリュミリアを見つめていた。その視線が、かえってリュミリアの苛立ちを募らせる。
「……何か、おっしゃったらいかがです?」
「君が落ち着くまで待っている」
「……っ、何もかも分かったような顔をするのを、やめてください……! 私が何を考えているのかも、何に悩んでいるのかも、知らないくせに!」
言い切った瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。それは、ライアンに向けるべき言葉ではなかった。隠しているのはリュミリアだ。彼が理解していないのは、当然のことなのに。
「……申し訳ありません。少し、疲れているようですわ」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。ライアンはしばらく彼女を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……ああ、そうみたいだね」
責めるでもなく、慰めるでもない声音。立ち上がった彼がリュミリアの側に来て、その手を取った。その手から、リュミリアの魔力が吸われていく。
「……殿下……なにを……」
魔力が減ったリュミリア身体が疲労を訴えて重くなる。それと共に瞼が重くなった。
「……少し休むといい。話はそれからだ」
リュミリアが微睡む前に、驚くほど優しいライアンの声が聞こえた気がした。




