第2話 音楽室の幽霊ピアノ事件
放課後の廊下は、いつも通り騒がしかった。
和奏が旧校舎の階段を上っていると、前を歩く彩羽が急に足を止めた。
「聞いたか、和奏」
「何を」
「音楽室の幽霊ピアノ」
「聞いてない。というか、いきなりその話し方はやめて」
「三日前から、誰もいないはずの音楽室でピアノの音がするらしい。夜の七時とか八時とか、そのくらいに」
「学校に誰かいる時間じゃない、それ」
「用務員さんが見回りのときに聞いたって。中を確認しても、誰もいないのに、鍵盤だけがひとりでに鳴ってたって話だ」
「彩羽、こういう話、本当は苦手なんじゃなかったっけ」
「べ、別に苦手じゃない。事実として報告してるだけだ」
声が微妙に上ずっていた。
部室の扉を開けると、すでに美空がホワイトボードの前に仁王立ちしていた。白衣の裾がひらひらしている。
「和奏、いいところに」
「まだ何も言ってないけど」
「音楽室の幽霊ピアノについて、すでに三つの仮説を立てた」
「早い」
ホワイトボードには、丸が三つ並んでいた。
一つ目には「霊」。
二つ目には「呪いの楽器」。
三つ目には「購買部」。
「なんでまた購買部が出てくるの」
「すべての謎は、最終的に購買部につながっている」
「つながってなくていいから」
信吾が窓際で前髪を払った。今日は靴の裏に何もついていないようだが、油断はできない。
「幽霊のピアノか。俺が退治してやろう」
「退治する前に、まだ事件と決まってないよ」
「探偵たるもの、噂の時点で動くものだ」
「探偵じゃないし、そのセリフ何回目?」
大地はソファに座り、袋菓子を膝の上に広げていた。
「音楽室、行くの? ぼく、お菓子持っていく」
「現場でお菓子食べるための口実にしないで」
「違うよ。差し入れ」
「誰への」
「みんなへの」
「それは差し入れじゃなくて、ただの自分のおやつだよ」
部屋の隅で、優助が静かに手を挙げた。
「あの……」
「うわっ」
和奏はまた驚いた。
いつからそこにいたのか、今日も分からない。
「ご、ごめんなさい」
「優助が謝ることじゃないの。それより、何?」
「音楽室の鍵、いつも職員室で管理されているはずです。夜に誰かが弾いているなら、鍵を持ち出せる人が限られると思います」
まともな意見だった。
この部で最初にまともな意見が出るのは、たいてい優助だ。
「先生に確認してみよう」
和奏が言うと、彩羽が窓の外を見ながら、小さく震える声で付け加えた。
「あと、夜に行くのは、絶対にやめような」
「彩羽、それ本音出てる」
◇ ◇ ◇
音楽室の鍵は、確かに職員室で管理されていた。
音楽の田村先生に聞くと、最近は文化祭に向けて合唱部が居残り練習をしているらしい。
「でも、七時、八時なんて時間には誰もいないはずよ。合唱部の練習は六時までに終わるように言ってあるし」
「合唱部以外で、鍵を借りられる人はいますか」
和奏が聞くと、田村先生は少し考えた。
「基本的には、部活動での使用だけね。あとは……」
「あとは?」
「吹奏楽部の子が、楽器の忘れ物を取りに来ることもあるけど」
放課後、六人は音楽室に向かった。
美空がドアの前で立ち止まる。
「ここが現場か」
「まだ何も起きてないけど」
中に入ると、ごく普通の音楽室だった。
グランドピアノが窓際に置かれ、譜面台やパイプ椅子が壁際に並んでいる。壁には作曲家の肖像画が並び、ベートーヴェンだけやけに睨んでいるように見える。
彩羽はピアノから少し距離をとって立った。
「別に怖くないけど、念のため離れておく」
「その距離、完全に怖がってる距離だよ」
信吾はピアノの鍵盤に指を置き、適当に音を鳴らした。
「霊なら、いま反応するはずだ」
「何もしないから離れて」
「霊よ、我にその姿を見せよ」
「うるさいから静かにして」
和奏は室内を見回した。
窓は二か所。片方は廊下側、もう片方は中庭側に面している。中庭側の窓の下には、植木鉢がいくつか並んでいた。
「窓、開いてる」
和奏が指さすと、大地がうなずいた。
「風が入ってくるね」
「ピアノって、風だけで鳴るものなの?」
「鳴らないと思うけど……」
美空がピアノの下に潜り込んだ。白衣の裾が床について、ほこりだらけになる。
「ここに何かある」
「何?」
「小さい、丸い、白いもの」
摘まみ上げたそれは、猫の餌の欠片のようだった。
「あの子猫、まさかここにも来てるの?」
和奏が聞くと、彩羽が首を振った。
「子猫は今、保健室で先生が見てるはずだ。ここまで来られるとは思えない」
「じゃあ、別の動物?」
美空は目を輝かせた。
「幽霊猫という可能性がある」
「猫は関係ないと思う」
「あるいは、宇宙猫」
「事件に戻って」
優助が譜面台のそばにしゃがみ込んでいた。
「あの、これ」
譜面台の上に、一枚の楽譜が置かれていた。
誰かの手書きで、タイトルの部分に「星に願いを(アレンジ)」と書かれている。
「これ、合唱部の練習曲じゃないですよね」
「違うと思う。合唱部は今、文化祭の課題曲を練習してるはずだから」
小麦のように依頼人がいるわけではないので、田村先生に確認しに行くことになった。
「ああ、それ。誰の手書きか分からないのよね。前から音楽室の棚に置きっぱなしになっていて」
田村先生は困った顔をした。
「誰かが忘れていったのかもしれないけど、心当たりがなくて」
◇ ◇ ◇
部室に戻り、六人で集めた手がかりを並べた。
夜七時、八時ごろにピアノの音。
窓が開いていた。
ピアノの下に落ちていた白い欠片。
誰のものか分からない手書きの楽譜。
美空はホワイトボードに「星に願いを」と大きく書いた。
「これは、誰かの願いのメッセージだよ」
「どういう意味?」
「星に願いを、というタイトルには、七文字」
「うん」
「七不思議の七だ」
「関係ある?」
「ある。学校の七不思議のひとつに、夜のピアノの噂があったはず」
「それ、今回まさにその話じゃない?」
「つまり、自己言及だ」
「自己言及って言葉、使ってみたかっただけでしょ」
信吾が腕を組んだ。
「俺は最初から霊だと思っていた」
「最初は退治するって言ってたよね」
「退治するために存在を信じている」
「順番おかしいから」
彩羽がぼそりと言う。
「夜、確認しに行くしかないのか……」
「行きたくないの、分かるよ」
「そ、そんなことはない」
声が完全に裏返っていた。
和奏は白い欠片を見つめた。
「これ、猫の餌じゃないとしたら、何だろう」
大地が手のひらに乗せて、匂いを嗅いだ。
「あ、これ知ってる」
「何?」
「鳥の餌」
「鳥?」
「うちで昔飼ってた文鳥のえさと、匂いが似てる」
「音楽室に鳥がいるの?」
「分からないけど」
優助が小さな声を出した。
「あの……音楽室の窓の外、中庭に、鳥かごを置いてる場所ってありましたか」
「飼育小屋の隣に、確か小さな鳥かごがあったはず」
和奏は思い出した。
理科部が観察用に飼っている文鳥が二羽、飼育小屋の脇の鳥かごにいる。
「じゃあ、その文鳥が、音楽室まで来てるってこと?」
美空が目を輝かせる。
「鳥は星に願いを歌う」
「歌わないと思う」
「あるいは、鳥は宇宙と交信している」
「本題に戻って」
◇ ◇ ◇
その日の午後七時、六人はこっそり音楽室の外で待つことにした。
もちろん学校に残る許可は、田村先生からもらってある。文化祭準備中ということで、居残りの生徒が多い時期だった。
彩羽は廊下の一番明るい場所を選んで立っていた。
「べ、別に、暗いところが怖いわけじゃないからな」
「誰も何も言ってないよ」
「言われる前に言っておいた」
大地は袋菓子を静かに開けようとして、和奏に止められた。
「音立てないで」
「静かに食べるの、得意だよ」
「その自信はどこから来るの」
窓の外がだんだん暗くなっていく。
やがて、かすかに、ぽーん、と音がした。
彩羽の肩が跳ねた。
「な、鳴った!」
「うん、鳴った」
もう一度、ぽーん、と音がする。
高い音と低い音が、交互に、途切れがちに鳴っていた。
メロディーというより、でたらめに鍵盤を押しているような音だった。
美空が扉にそっと手をかけた。
「行くよ」
「ま、待て。本当に行くのか」
「行かないと事件は終わらないよ」
彩羽は信吾の背中を押した。
「お前が先に入れ」
「なぜ俺が」
「男子だから」
「その理論、もう聞き飽きた」
結局、じゃんけんで決めることになり、負けた信吾が先頭で扉を開けた。
「か、観念しろ、幽霊……」
声が尻すぼみに小さくなる。
中を覗くと、ピアノの鍵盤の上に、小さな白い鳥が二羽止まっていた。
窓から入り込んだらしく、鍵盤の上を歩くたびに、ぽーん、と音が鳴る。
「文鳥だ」
大地がつぶやいた。
彩羽は詰めていた息を吐き出した。
「な、なんだ。鳥か」
「さっきまでの怖がり方、どこ行ったの」
「べ、別に怖がってなかった」
「震え声だったよ」
「気のせいだ」
文鳥は人の気配に気づき、羽をばたつかせて窓から飛び出そうとした。
「あっ、逃げる」
大地がとっさに窓を閉め、一羽を捕まえた。もう一羽は美空の白衣の袖に飛び込み、そのまま動かなくなった。
「捕まえた」
美空は袖の中を覗き込み、真顔で言った。
「これは、わたしを新しい巣と認識している」
「早めに逃がしてあげて」
◇ ◇ ◇
翌日、理科部の顧問に確認すると、飼育小屋の鳥かごの網に、確かに小さな穴が空いていたことが分かった。
文鳥たちは日中に穴から抜け出し、校内を歩き回っていたらしい。夕方になると、なぜか音楽室の窓から入り込み、ピアノの上で遊んでいたようだった。
「じゃあ、楽譜は関係なかったの?」
和奏が聞くと、田村先生が思い出したように言った。
「ああ、それなら分かったわ。文化祭実行委員の子が、閉会式のBGM案として置いていったみたい。届け先を間違えて音楽室に置いちゃったんですって」
「事件と関係なかった……」
「関係なくても、いい曲だったから採用することにしたわ」
美空はホワイトボードに大きく書いた。
『音楽室の幽霊ピアノ事件――解決』
その下に、少し小さく付け加える。
『犯人・文鳥二羽。動機・鳥かごの穴』
「動機って言葉、鳥に使う?」
和奏が聞くと、美空は真顔でうなずいた。
「鳥にも事情がある」
「その通りだとしても、言い方が変」
彩羽はまだ少し不満そうだった。
「結局、ただの鳥だったのか」
「ただの鳥でよかったじゃない」
「べ、別に、霊だったらよかったとは思ってないぞ」
「思ってたら、それはそれで問題だよ」
信吾は前髪を払い、決め顔を作った。
「まあ、俺の推理力があれば、鳥だろうと霊だろうと関係なかった」
「じゃあ最初に霊って言ったのは何だったの」
「あれは仮説その一だ」
「今そう言うんだ」
優助が控えめに口を開いた。
「あの、鳥かごの網、直しておいた方がいいと思います」
「一番まともなこと言った」
部室の窓から、夕方の光が差し込んでいる。
鳥かごの穴は理科部の顧問がその日のうちに直したそうで、翌日から文鳥たちは大人しく鳥かごの中にいたらしい。
ただし、音楽室の鍵盤には、しばらくの間、小さな爪痕がいくつか残っていたという。
美空は最後に一言だけ書き足した。
『鳥は去っても、跡は残る』
「その一文、妙に文学的だね」
和奏が言うと、美空は満足そうにうなずいた。
「今日の学びだよ」
「学びっていうか、単なる感想だと思う」
今日の放課後も、事件は笑いながらやってくる。
そして今回もまた、犯人は思いのほか身近な場所にいたのだった。




