第1話 消えたプリン事件
日向和奏が「特異事象研究部」という名前を初めて聞いたとき、世界にはまだ自分の知らない秘密組織があるのかもしれない、と思った。
その期待は、旧校舎の二階にある部室の扉を開けた瞬間、きれいになくなった。
「遅かったな、和奏」
窓際に立っていた近野信吾が、前髪を指で払った。
西日に照らされ、横顔だけなら少女漫画の登場人物に見えなくもない。ただし、足元には誰かが食べ終えたポテトチップスの袋が落ちており、信吾はそれを踏んでいた。
「遅かったな、じゃない。勝手に入部届を出したの、あんたでしょ」
「おまえが退屈な中学生活を送らないようにという、幼なじみの心づかいだ」
「他人の印鑑を勝手に押すのは心づかいって言わないの」
「印鑑は押してない。おばさんに頼んだ」
「お母さんも共犯なの!?」
和奏が頭を抱えていると、部屋の奥から落ち着いた声がした。
「静かにして。いま、とても重要な局面だから」
星野美空がホワイトボードの前に立っていた。
白衣を着ている。
もちろん理科の実験中ではない。本人が「研究部らしさには衣装が必要」と考え、理科室の先生から借りてきたものだった。借りたというのは美空の説明で、理科の先生が同意しているかどうかは分からない。
ホワイトボードには、大きな丸が三つ描かれていた。
一つ目には「地球」。
二つ目には「宇宙」。
三つ目には「購買部」。
「どうして購買部だけ規模が小さいの」
和奏が聞くと、美空は振り返った。
「甘いね、和奏。購買部は宇宙とつながっている可能性がある」
「入部初日に帰りたくなる話をしないで」
「もう入部済みだぞ」
「誰のせいよ」
信吾が胸に手を当てた。
「礼には及ばない」
「一度も礼を言ってないから」
そのとき、部室の中央で、ばりっ、と大きな音がした。
伊藤大地がせんべいの袋を開けた音だった。
大地は中学一年生にしては背が高く、体も大きい。おっとりした丸い目で、和奏に袋を差し出した。
「食べる?」
「いまはいい」
「しょうゆ味だよ?」
「味の問題じゃないの」
「そう」
大地は残念そうにせんべいをかじった。
窓辺の古いソファには、涼風彩羽が腕を組んで座っていた。ポニーテールに、きりっとした目。運動部の助っ人を頼まれることが多く、校内では一年生ながらちょっとした有名人である。
「まあ、いいんじゃないか。人手は多いほうが助かる」
「彩羽まで。そもそも、この部は何をするの?」
「学校で起こる特異事象を研究する」
信吾が答えた。
「それは部の名前を言い直しただけ」
「不思議な事件を調査するんだよ」
彩羽が補足した。
「事件?」
「そう。消えた物、変なうわさ、正体不明の音。先生に言うほどじゃないけど、気になって仕方がないことってあるだろ」
それなら少し面白そうだ、と和奏は思った。
ほんの少しだけだ。クラスで消しゴムをなくした程度の少しである。
「でも、今日は事件なんてないんでしょ?」
和奏が言った直後、部室の扉が勢いよく開いた。
ばん、と壁にぶつかり、扉の上からほこりが落ちた。
「大事件です!」
飛び込んできたのは、エプロン姿の女子生徒だった。
胸元に「家庭科部」と書かれた名札をつけている。髪は少し乱れ、顔は青ざめていた。
「プリンが消えました!」
部室の中が静かになった。
大地がせんべいをかじる音だけがした。
「……プリン?」
和奏が確認すると、女子生徒は力強くうなずいた。
「はい。家庭科部で作ったプリンが、冷蔵庫から消えたんです!」
美空が白衣をひるがえした。
「ついに始まったわね」
「何が?」
「人類とプリンをめぐる、長い戦いが」
「始まってないし、長くもないと思う」
◇ ◇ ◇
依頼人は二年生の春川小麦と名乗った。
家庭科部では翌日の新入生歓迎会に向けて、試食用のプリンを作っていたらしい。
「全部で十二個です。家庭科室の冷蔵庫に入れて、三時十分に片づけを始めました。それから三時四十分に確認したら、一個だけなくなっていて」
「一個だけ?」
和奏が聞いた。
「はい。十一個は無事でした」
「犯人は食べすぎないよう健康に気をつかってるな」
彩羽が感心したように言った。
「感心するところじゃないでしょ」
「一個だけ盗むとは、ずいぶん慎重な犯人だ」
信吾は顎に手を当てた。
本人は探偵のつもりらしい。立ち姿だけは決まっていたが、さっき踏んだポテトチップスの袋が靴の裏にくっついている。
「これは計画的犯行だな」
「どうして?」
「俺なら二個食べる」
「自分を基準にしないで」
「ぼくなら三個かなあ」
大地が言った。
「張り合わなくていいから」
美空は目を閉じ、こめかみに指を当てた。
「犯人の目的はプリンではない」
「プリンを盗んだのに?」
「プリンはメッセージなの」
美空はホワイトボードに大きく「PUDDING」と書いた。
「英語にする必要ある?」
「プリンを英語で書くと、八文字」
「それで?」
「十二個あったうちの一個が消え、残りは十一個」
「うん」
「八と十一」
「うん」
「八月十一日」
美空は勢いよく振り返った。
「山の日だよ!」
「だから何なの!?」
「犯人は山にいる」
「家庭科室から急に遠くなった!」
小麦が不安そうに六人を見回している。
和奏は咳払いした。
「大丈夫です。この人たち、ちょっと変だけど、調査はちゃんとしますから」
「和奏も今日からこの人たちの一員だぞ」
「その事実をいま一番受け入れたくない」
彩羽がソファから立ち上がった。
「とにかく現場を見よう。話はそれからだ」
ようやくまともな意見が出た。
全員で部室を出ようとしたとき、和奏はふと人数を数えた。
一、二、三、四、五。
「あれ?」
「どうした?」
「部員は六人って聞いてたけど」
「六人いるぞ」
「どこに?」
信吾が和奏のすぐ後ろを指さした。
そこに、小柄な男子生徒が立っていた。
「うわっ!」
和奏は飛び上がった。
男子生徒も驚き、抱えていた本を落とした。
「ご、ごめんなさい。驚かせるつもりは……」
「いつからいたの?」
「和奏さんが部室に来る前から」
「最初からいたの!?」
男子生徒は月島優助と名乗った。
図書委員で、人前で話すのが苦手。声も小さく、動作も静かで、本人にそのつもりはないのに、よく誰からも気づかれなくなるらしい。
「月島は潜入調査に向いている」
信吾が言った。
「潜入する前に仲間から見失われてるけど」
優助は申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません」
「優助が謝ることじゃないよ」
和奏はそう言いながら、この部に必要なのは探偵ではなく、点呼係かもしれないと思った。
◇ ◇ ◇
家庭科室の冷蔵庫には、銀色のトレーが入っていた。
透明なカップに入ったプリンが、きれいに並んでいる。一か所だけ空いており、いかにも「ここに十二個目がありました」と訴えていた。
大地が冷蔵庫をのぞき込んだ。
「おいしそう」
「現場の物を食べないでね」
「まだ何もしてないよ」
「考えてはいたでしょ」
「うん」
素直だった。
和奏は小麦に質問した。
「冷蔵庫には鍵は?」
「ありません」
「三時十分から四十分まで、家庭科室は無人だった?」
「いいえ。わたしと、同じ家庭科部の二人がいました。でも、買い出しや片づけで出たり入ったりしていて」
「ほかの人は入ってきた?」
「吹奏楽部の子が、落としたハンカチを探しに来ました。それから先生が一度。あと、廊下を走っていた男子が先生に追いかけられて、ここに隠れようとしていました」
「怪しいやつが多いな」
彩羽が腕を組んだ。
「廊下を走っていた男子は?」
「俺だ」
信吾が手を挙げた。
「犯人候補が部内にいた!」
「違う。俺は先生から逃げていただけだ」
「それも普通に悪いから」
「廊下を走ったくらいで大げさだな」
「なんで追いかけられたの?」
「廊下で雑巾に乗っていた」
「大げさじゃなかった!」
美空は床にしゃがみ込み、冷蔵庫の前を調べ始めた。
「足跡はない」
「室内だからね」
「窓に破壊された跡もない」
「開いてるけどね」
「天井にも穴はない」
「プリン泥棒にどんな侵入方法を想定してるの?」
そのとき、彩羽が窓の外を見た。
「待て。あれは何だ?」
家庭科室は一階にあり、窓の向こうには中庭がある。
花壇のそばに、黄色い何かが落ちていた。
全員で外へ回ってみると、それはプリンのふたについていた紙のラベルだった。
小麦が声を上げた。
「これ、うちの部で使ったものです!」
美空の目が光った。
「窓から逃走したんだ」
「誰が?」
「プリンが」
「自分で?」
「プリンには卵が使われている。つまり、鳥になる可能性を残している」
「残してないよ!」
「飛ぶプリン……」
大地が空を見上げた。
「ちょっと見たい」
「納得しかけないで」
彩羽はラベルを拾い、その近くを見回した。
「こっちに何か落ちてるぞ」
花壇の土に、小さな白い跡が続いていた。
丸い点が、ぽつ、ぽつ、と体育館裏のほうまで延びている。
美空が指を立てた。
「犯人の足跡だね」
「小さすぎない?」
「小型の宇宙人かもしれない」
「プリン事件に戻って」
「でも、動物の足跡にも見えないな」
彩羽がしゃがみ込んだ。
和奏も近くで見る。
白い点は、足跡というより、何かを少しずつこぼした跡に見えた。
指で触ると、さらさらしている。
「小麦粉かな」
和奏が言った。
大地もしゃがみ、指先についた粉を見た。
「粉砂糖だよ」
「分かるの?」
「さっきのプリン、上に粉砂糖をかけてあったから」
小麦がうなずいた。
「はい。飾り用に少しだけ」
「つまり、犯人はプリンを持って中庭へ逃げた。その途中で粉砂糖を落とした」
信吾が得意そうにまとめた。
「いまのはわたしたちが言ったことをつなげただけでしょ」
「探偵とは、情報を整理する者だ」
「靴の裏のゴミも整理して」
信吾の靴には、まだポテトチップスの袋がくっついていた。
◇ ◇ ◇
白い跡は体育館の裏で途切れていた。
そこには古い用具倉庫がある。
引き戸は少し開いており、中は薄暗い。
「犯人はこの中だな」
彩羽が先頭に立った。
「待って」
美空が小声で止めた。
「倉庫には古いバスケットボール、壊れた跳び箱、そして二十年前に行方不明になった用務員の霊が――」
「そんな話あるの?」
「いま考えた」
「いま考えた話で空気を重くしないで」
彩羽は引き戸に手をかけたまま、動かなくなっていた。
「彩羽?」
「べ、別に怖くないぞ」
「まだ誰も怖いかどうか聞いてないけど」
「ただ、こういうところは、まず信吾が入るべきだと思う」
「なぜ俺が?」
「男子だから」
「男女平等という言葉を知っているか」
「カッコいいところを見せるチャンスだよ」
和奏が言うと、信吾は前髪を払った。
「なるほど。そこまで言うなら仕方ない」
信吾は引き戸を勢いよく開けた。
「観念しろ、プリン泥棒!」
中から、がたん、と音がした。
信吾は和奏の後ろへ飛び退いた。
「いま、何かいたぞ!」
「カッコいいところ、短かったね」
彩羽はもっと後ろにいた。
「何だった?」
「見てないの?」
「信吾が邪魔で」
「ぼく、見てくるよ」
大地が倉庫に入っていった。
食べ物が関係しているときだけ、彼は勇敢だった。
しばらくして、大地は空のプリンカップを持って出てきた。
「これがあった」
「食べ終わってる!」
小麦が悲鳴を上げた。
カップの底にはカラメルが少し残り、縁にはクリームがついている。そばにはプラスチックのスプーンも落ちていた。
美空は目を細めた。
「犯人はこの場所でプリンを食べた。そして証拠を残して逃走した」
「どうしてわざわざ、こんなところで?」
和奏は倉庫の中を見た。
奥にはマットやコーンが積まれている。人が隠れられそうな場所はいくつもあるが、わざわざプリンを食べるような場所ではない。
大地がカップを眺めながら言った。
「これ、一口しか食べてないかも」
「どうして分かるの?」
「横に落ちてる」
倉庫の床に、黄色いかたまりがべちゃりと落ちていた。
ほとんど手をつけていないプリンだった。
「食べてない?」
小麦が首をかしげる。
「じゃあ、何のために盗んだの?」
「プリンが目的ではなかった」
美空が言った。
全員が美空を見る。
「さっきも言ってたね」
和奏は少しだけ期待した。
もしかすると、美空は本当に何かに気づいているのかもしれない。
「犯人の狙いはカラメルだよ」
「どうして?」
「黒いから」
「理由が弱い!」
そのとき、倉庫の奥で、くしゅん、と小さなくしゃみが聞こえた。
彩羽の顔から血の気が引いた。
「い、いまのは?」
「用務員の霊かもしれない」
「美空、黙って」
和奏は積まれたマットの裏へ回った。
そこにいたのは幽霊ではなかった。
一匹の白い子猫だった。
鼻の頭にカラメルをつけて、段ボール箱の中で丸くなっている。
「猫?」
小麦が目を丸くした。
子猫のそばには、折りたたまれたタオルと、水を入れた皿が置いてあった。
誰かが世話をしている。
彩羽は一瞬で和奏を押しのけ、子猫の前にしゃがみ込んだ。
「かわいい……」
「オバケのときと態度が違いすぎない?」
「この子、少し震えてるぞ」
彩羽はそっと手を伸ばした。
子猫は逃げず、弱々しく鳴いた。
和奏は空のプリンカップを見た。
犯人は、この子に何か食べさせようとしたのだろうか。
けれど、猫にプリンを与えるのはよくない。それに、プリンはほとんど床に落ちていた。
「誰かがこの子のために持ってきた?」
小麦が言った。
「でも、どうして家庭科部のプリンを盗んでまで……」
「買うお金がなかったとか?」
信吾が答えた。
「猫にプリンをあげようとするかな」
和奏は首をひねった。
そのとき、優助が倉庫の入り口に立っていることに気づいた。
いつからそこにいたのかは、やはり分からない。
優助は床に落ちたプリンではなく、子猫のそばにある水の皿を見ていた。
「あの……」
「どうしたの?」
「そのお皿、図書室にあったものだと思います」
「図書室?」
「昨日まで、先生の机の横に置いてありました。割れた植木鉢の受け皿に使っていたので」
全員が顔を見合わせた。
図書室にある皿を持ち出せる人物。
図書委員か、図書室をよく利用する生徒。
「優助、今日、図書室に誰がいたか覚えてる?」
「たくさんいました。でも……」
優助は言いにくそうに、小麦を見た。
「春川先輩もいました」
小麦の肩がぴくりと動いた。
◇ ◇ ◇
「わたしじゃありません!」
小麦は大きな声で否定した。
「プリンがなくなったから、困って相談に来たんです!」
「責めてるわけじゃないよ」
和奏は穏やかに言った。
「図書室には何をしに?」
「猫の飼い方の本を借りに……」
そこまで言って、小麦は口を閉じた。
全員の視線が子猫に集まる。
子猫は何も知らず、彩羽の指先をなめていた。
「この子を見つけたのは、わたしです」
小麦はうつむいた。
「昨日、体育館の裏で鳴いていて。お母さんに聞いたら、うちでは飼えないって言われました。でも放っておけなくて、ここに段ボールを置いて、水を持ってきて……」
「じゃあ、プリンも小麦先輩が?」
「違います。本当に違うんです」
小麦は顔を上げた。
「猫にプリンをあげちゃいけないことは、本で読みました。だから食べ物は、家から猫用のものを持ってくるつもりでした。でも今日、家庭科部の活動が長引いて、まだ持ってきてなくて……」
和奏は倉庫の中を見回した。
誰かがプリンを持ち出し、ここまで運んだ。
猫に与えようとカップを開けたが、ほとんど食べられないまま床に落とした。
犯人は猫の世話をしている小麦ではない。
では、誰なのか。
「スプーン」
大地が言った。
「え?」
「プリンのスプーン、変だよ」
大地は床に落ちた透明なスプーンを拾った。
「家庭科室にあったのは、銀色のスプーンだった」
小麦が驚いた。
「そうです。試食会用に、銀色の使い捨てスプーンを用意していました」
「じゃあ、この透明なスプーンはどこから?」
和奏が聞くと、大地は袋から自分のおやつを取り出した。
コンビニで売っているカップ入りのゼリーだった。ふたの裏に、小さな透明のスプーンがついている。
「これと同じ」
「大地、今日それ食べた?」
「まだ。二個持ってきたから」
「二個?」
「うん。ブドウ味とミカン味」
「一個は?」
「部室に置いてきた」
和奏の頭の中で、何かがつながった。
「部室に置いたのは、いつ?」
「昼休み」
「誰かに見られた?」
「分からない。でも、放課後に来たら、ミカン味のスプーンだけなくなってた」
「そこをもっと早く気にして!」
「手で食べればいいかなと思って」
「たくましすぎる!」
美空が胸を張った。
「犯人が分かったね」
「本当に?」
「宇宙人だよ」
「まだ言ってるの!?」
「宇宙人にはスプーンを作る技術がない。だから大地のスプーンを盗んだ」
「地球まで来られる技術があるのに?」
「技術には得意分野と苦手分野がある」
「妙に現実的なことを言わないで」
和奏は透明なスプーンを見つめた。
部室からスプーンを持ち出せる人物。
大地が置いたゼリーを見た人物。
家庭科室に出入りし、プリンを持ち出せた人物。
猫がここにいると知っていた人物。
「信吾」
「何だ?」
「今日、先生に追いかけられて家庭科室に入ろうとしたんだよね」
「入ろうとしただけだ」
「その前はどこにいたの?」
「部室だ」
「大地のゼリー、見た?」
信吾は一秒ほど黙った。
「見たような気もする」
「スプーンを取った?」
「取っていない」
「じゃあ、どうして靴の裏にプリンがついてるの?」
全員が信吾の足元を見た。
靴の底にくっついたポテトチップスの袋。その端に、黄色いものがべったりついている。
プリンだった。
「これは……」
信吾はゆっくり足を上げた。
「いつの間にか、プリンのほうから俺に近づいてきた可能性がある」
「美空みたいな言い訳をしないで」
「信吾」
彩羽の声が低くなる。
「説明しろ」
信吾はしばらく黙っていたが、やがて大きく息を吐いた。
「猫が腹をすかせていると思ったんだ」
小麦が目を見開く。
「この子のこと、知ってたの?」
「昼休みに見つけた。段ボール箱から出て、体育館の近くを歩いていたから、ここへ戻したんだ」
「それでプリンを?」
「何か食べさせたほうがいいと思った。でも金は持ってなかった。家庭科室の前を通ったら、冷蔵庫にプリンがあるのが見えて……一個くらいなら、あとで謝ればいいと思った」
「だったら最初から言いなさいよ」
「猫を勝手に置いていることが先生に知られたら、捨てられるかもしれないだろ」
信吾は目をそらした。
「それに、プリンを猫の前に出したら、においをかいで後ずさりして、カップをひっくり返した。俺が拾おうとしたとき、先生の声が聞こえて、あわてて逃げたんだ」
「それで踏んだのね」
「たぶん」
「どうして大地のスプーンを?」
「猫に食べさせるなら必要かと思って」
大地は感心したようにうなずいた。
「スプーンを使える猫だと思ったんだね」
「そこに感心しないで」
小麦が信吾に向かって頭を下げた。
「この子のこと、心配してくれたんだね。ありがとう」
「いや。俺の行動は当然の――」
信吾が前髪を払おうとした瞬間、靴の裏からポテトチップスの袋が外れた。
袋は宙を舞い、信吾の頭にかぶさった。
「……当然の?」
和奏が聞く。
袋の中から、くぐもった声がした。
「善意だ」
「カッコつかないなあ」
大地がしみじみ言った。
◇ ◇ ◇
子猫については、小麦の家では飼えなかったが、家庭科部の顧問が引き取り先を探してくれることになった。
それまでの数日間は学校で保護し、保健室の先生が様子を見るという。
「勝手に隠すのはよくないけど、放っておかなかったことは立派ね」
保健室の先生に言われ、小麦はほっとした顔をした。
信吾は家庭科部に謝り、なくなったプリンの代金を払うことになった。
「金ならある」
信吾はポケットから財布を出した。
「さっき、お金持ってなかったって言ってなかった?」
「昼休みはなかった。放課後、母さんが忘れた財布を届けてくれた」
「じゃあ、そのあと猫用の食べ物を買えばよかったでしょ!」
「……なるほど」
「いま気づいたの!?」
事件は解決した。
特事研の部室へ戻ると、美空がホワイトボードに大きく書いた。
『消えたプリン事件――解決』
その下に、さらに小さく付け加える。
『犯人・近野信吾。共犯・善意』
「善意を共犯にしないでくれ」
「プリンを盗んだことは悪いけど」
和奏は鞄を机に置いた。
「猫を助けようとしたことまで悪いわけじゃないからね。次からは、ちゃんと大人に相談すること」
「おまえ、いつから俺の母親になったんだ?」
「誰が母親よ」
「でも、和奏ちゃん、探偵みたいだったね」
大地がせんべいを食べながら言った。
「探偵ってほどじゃないよ。みんなが見つけたことを、つなげただけ」
「それが探偵だろ」
彩羽が笑った。
和奏は少し照れくさくなり、窓の外を見た。
夕方の校庭では、運動部の生徒たちが走っている。吹奏楽部の音が風に乗り、遠くから聞こえてきた。
悪くないかもしれない。
この部も、放課後にみんなで騒ぐのも。
もちろん、信吾に勝手に入部届を出されたことを許したわけではない。そこは別の問題である。
「そういえば」
小さな声がした。
和奏は振り返った。
いつの間にか、優助が机のそばに立っている。
「また気づかなかった……。どうしたの?」
「プリン、十一個残っていましたよね」
「うん」
「家庭科部の人は三人で、先生が一人。明日の試食会に来る新入生は六人だそうです」
「合計十人だね」
「はい。最初から十二個あったなら、二個余ります」
部室が静かになった。
大地がせんべいを食べる手を止めた。
「余るの?」
「たぶん」
大地は立ち上がった。
「家庭科室に行ってくる」
「待って、大地!」
大地はすでに廊下へ飛び出していた。
「プリンは事件の証拠品だから!」
「事件は解決したよ!」
「解決したから食べていいわけじゃない!」
和奏たちも後を追う。
旧校舎の廊下に、六人分の足音が響いた。
その日、家庭科室で二度目のプリン事件が発生しかけたが、犯人があまりにも堂々と走ってきたため、未遂に終わった。
特異事象研究部の最初の活動記録には、美空の字でこう書かれている。
『プリンは消える。油断していると、二度消える』
和奏はその下に赤いペンで書き足した。
『ただし二度目の犯人は、すぐ分かる』
今日の放課後も、事件は笑いながらやってくる。
そしてたいてい、事件より先に部員が走ってくるのだった。




