15 ひとつだけ欲しいもの
その場にいるだけで体中が甘い香りに包まれる、鼻腔をくすぐるお菓子の家。
自分がずっと憧れていた、
「――お菓子の家!」
きゃっと声を上げて、アナスタシアはお菓子の家へと飛び込んでいく。日光に照らされた家の中は、本当に、どこもかしこもお菓子でできているらしかった。そのほとんどがチョコレートなのだが、何か工夫を凝らしているのか、強い日射しを浴びても溶け出すことはないらしい。他にあるものと言えば、クッキーでできた王国の模型、大きなクマのグミ、ビスケットのテーブルや椅子などなど。
わあっと感嘆の声を漏らすと、通りがかったビスケット模様のエプロンを着たお姉さんに、はい、とキャンディを手渡された。フレデリックがよく舐めている、あのキャンディだ。
「もらっちゃった。殿下、食べ――」
……振り返ったのが間違いだった。
食べますか、と聞こうとしただけなのに。
「ん……あまい」
手に持っていたキャンディをぱくりと口に含んだ彼の、赤い舌がアナスタシアを余計にこっぱずかしくさせた。
……最近、こういうことばっか。
前世の「シンデレラ」プレイしてた時は、こんな感じじゃなかったのに。
ていうか、
「自分で受け取って食べなさいよ!」
ああ、もう。
……自分の気持ちまで、よくわからない。
しかしその瞬間、ビスケットの扉がバンッと音を立てて開き、外から大勢の人がなだれ込んできた。その人の波に押され、ぐらりと身体がふらつく。不意に誰かの手が自分の腕をギュッと掴み、
「えっ」
そのまま柔らかいものにダイブした。
驚いて顔を上げると、
「ぎゃっ」
きゃ、ではなくぎゃ、という声が出た。もともときゃあなんて可愛らしい声は上げないのでこれが普通なのだが、しかし彼のほうは避けられたと感じたのか、ムッと眉を吊り上げた。
身体を離そうとしたのも束の間、ドンッと後ろから誰かに押された。再度彼の胸に飛び込み、今度はなぜか羞恥心で顔が赤くなった。
こうしてみて、改めて感じる。
――彼が、自分とは違う「異性」であることを。
あ、れ、わたしどうして……
こんなにドキドキしてるんだろう。
「なんだいきなり。特売日じゃあるまいし。何か特別な行事でもあるのか?」
雪崩のように店の奥へと駆け込んでいく人だかりに、フレデリックは怪訝そうに眉を寄せる。無理もないが、確かに突然あれだけの人が飛び込んできたら不思議に思うだろう。
「あ、ってかアーニャ、大丈――」
彼の顔がこちらへ向くと、アナスタシアはハッとして俯いた。顔を見られたらまずい。生憎フードがないため完全に顔は隠せなかったが、しかしフレデリックは「だいじょぶそうだな」とだけ呟くと、店の奥へと入っていってしまう。
危なかった、と肩を落とすと、グッと胸元を押さえる。
「何やってんだろ。あの人はエラのものなのに……」
そう考えると、なぜか胸に針が刺さったように痛くなる。
「そうよ、偽物なの。エラと殿下が出会うまで、わたしは大人しくしてればいいの。平気よ、エラに惹かれない人はいないはず、だも、の……」
自分で言ったくせに、何だかそれが本心でないような気がして、余計に痛い。
エラに惹かれない人なんかいない。
だから自分は、傍で見ているしかない。
彼が自分を本当に大事にしてくれる日なんか、来ないのだ。
――一生。
「アーニャ、行かないのか?」
奥からフレデリックが姿を見せ、手招きしてくる。
今は、考えるのはやめよう。
ぶんぶんと頭を振り、走って彼の元へ向かう。
大丈夫。
わたしが彼を好きになるなんて、ありえない。
もしそうなったとしても、諦めなくてはいけない。
エラのためなんだから。
***
「あの、……坊ちゃま」
静かな暗闇に、使用人の声がこだまする。粗末で狭い部屋は、昔の自分のものだ。今はもう使っておらず、家具や小物には埃を被っているものもある。
祖父の好きだった小さな鉢植えには、ひびが入っていた。それほど、ここにいたのが遠い昔であったことを確信させられる。
それとともに、祖父がもう長くないことも。
「坊ちゃま、そろそろお支度を……」
何をそんなに怖がっているのか、使用人らは自分がスッと立ち上がると、ひっと小さく声を上げる。
ああ、やっぱり。
何を怖がってるのかと思えば、そういうこと。
「怖がらないでください。……あの日のことは、どうか皆さん忘れてくださると嬉しいです」
……忘れてもらったところで、きっと何も変わらない。
あの日のことは、ここにいる誰も、多分忘れられない。
――殺人。
あの日、ここで殺人が起きた。
犯人は未だ明らかになっていない。しかし、ここでそれが起きたのは確かだ。
……第一発見者は、自分なのだから。
だから、皆自分が犯人だと疑い、そして殺されはしないかと日々怯えている。もし失敗すれば、首をはねられると。
――自分に、殺されると。
「……行きましょうか。皆さんお待ちですから」
足取りは重い。
緊迫した空気を早く脱したくて、だから出ようと思ったのに。
うまく歩けない。
「坊ちゃま、もしかして足が――」
「大丈夫です。もう治りましたから」
そう、治ったはず、だ。
あの日、恐怖で逃げた自分は崖から落ちて足を骨折した。相当な大けがだった。母親はもうダメだ、どの子も役立たず、いっそ死んだ方がマシと発狂して泣いていた。あの修羅場を思い出すと、今でも吐き気がする。
「……いま、何してるんだろう」
なぜかふと、元気で愛らしい少女の笑顔を思い出す。もう長く顔を見ていない気もするが、今のこの状況では、次いつ会えるのか自分でも分からない。
「……あの、父上はいつ帰ってこられるんでしょうか。申し上げたいことが――」
「旦那様は遠出ゆえ、数週間はお帰りにならないと思います」
自分のくぐもった声に対し、執事は平然と、淡々とした口調で答える。こうしたハキハキしたところも、自分と彼らの大きな違いだ。
……自分には、何もない。
彼女のような明るさも、彼らのような賢さも。
でも、だって、仕方がない。
本当に、何もないから。
あの日にすべてを失ったから。
「――だけ、ど……ひとつだけ」
ひとつだけ、欲しいものがある。
自分が初めて欲したもの。
それは――
「ちょっと。深窓の貴公子サマ」
突然、背後から声がかかった。
そこにいたのは、赤色の髪の悪戯っぽさが残る少年。あちこちに土のついた服は、彼が飄々としていて身なりにあまり関心がないことを感じさせる。
そんな少年に、自分は「エイラ」と双子の弟の名前を口にした。
染めたものだという赤色の髪は、窓から差し込む光に照らされ、より一層華やかに見える。同色の瞳も、どこか鋭さがあって気を抜けない。
甘いマスクに明るい人柄で、どこぞの貴族とも親交がある。しかしなぜそこまで飄々としているのか、自分は時々彼に疑問を抱く。
「エイラ、街に遊びに行っていたんじゃ」
「あ~街ぃ? なんかもう飽きちゃったんだよねぇ。女の子と一緒にいてもなんか面白くないし」
……やっぱり、おじいさまが死にそうだからなのかな。
何事もないように呟いたその台詞に、くいっと眉を吊り上げる。この思ったことをすぐ口にする性格も女たらしで自由気ままな態度も、何も変わっていない。
「そういうことを軽く口にするな。いつどこで誰の目が光っているのかもわからないのに――」
「兄さんは硬いんだよ。だいじょうぶだいじょうぶ。もし近くに敵がいたら……」
俺が殺してあげるから。ね?
もしあの日、人を殺したのは他でもないエイラではないのかと、兄ながらに疑ってしまう。
……エイラはこう見えて、相手に敵意を抱いたらすぐに行動に出る癖がある。
だから。
もしかしたら――なんて。
物事がどんどん変な方向に進んでいく。あまり仲がよくないからって、実の弟を疑うのはひどすぎるのに。
でも。
エイラはこういう性格だから、――
……【あ、もしかして俺が殺したとか考えちゃってる?】
……<違う。そういうんじゃないんだ。決して疑ったりなんて……>
……【でも、少しだけ、考えちゃったでしょ?】
……<>
「ほらほらぁ。兄さんは身体弱いから戦えないでしょ? だから代わりに俺が戦うって意味。そんな変な意味じゃないよ?」
「わかってる。あと、僕は女性じゃないんだから、深窓なんて言葉は――」
「あれ? 女性じゃないの?」
そう言われて、グッと拳を握る。
……どうして、言い返せないのだろうか。
「……自分を偽ってまで家系を保とうと努力してるのに、深窓と言ってあげないのは可哀想だと思わない?」
隔離されて生きているから。
他人から見放されているから。
だからこうやって言われなきゃいけないんだ。
「悔しかったらさ」
エイラは自分に近づくと、ぐっと肩を掴んだ。自然と目線が上に向く。
「……――素直になりなよ。復讐したいって、家族を取り戻したいって、そう言いなよ」
ほら、その目。
その人を見透かしたような目が気に入らない。
だけど、
……だけど。
「僕には復讐できるほどの力はない。でも、ひとつだけ、いま、欲しいものがあるんだ」
ほしいもの。
欲しいもの。
「……どうしても、僕を変えた彼女がほしいんだ――」
なぜこんなに彼女をほしいと感じるのか。
会ってからまだ、一年も経っていないというのに。
「へえ? ……いいよ。復讐の代わりに、それ、協力してあげる」
「……なんだって?」
「その子、ほしいんでしょ? いいよ。協力してあげる」
初めて、弟が怖いと感じた。
なぜそこまでして自分の願いを叶えようとするのか。
叶わない夢なのに。
自分には高嶺の花の彼女を、どうしたら。
「簡単だよ?」
ほら、あの手があるじゃない。
……【一晩過ごせば一瞬、でしょ?】




