14 夢と初恋と隣町
「えっ、デート……ですか?」
ベルベットの青い上着に袖を通し、鏡の前で一回転してみせる王子の言葉に、近衛騎士のケイトはハッと息を呑んだ。
これまで少しずつ、着実に距離を詰めていた王子だったが、とうとう決心したのだろう、もうデートまで踏み込もうとしている。
この奇跡の第一歩に、ケイトは小さく拳を握った。自然と笑みがこぼれてくる。
「おめでとうございます殿下。これでようやく女性との距離を縮められますね!」
「そのさ、まるで俺がヘタレみたいな言い方やめようよ」
ぴしゃりと指摘を受けながらも、ケイトはこれまでの彼の行動を振り返っていた。
誰もが羨む完璧な王子様。国王に似た紺碧色の綺麗な瞳と、母譲りの眩しい金色の髪を持ち、手足も長く、所作のひとつひとつが優雅で王子らしい印象を与える。
初対面の女性に対して態度が悪くなるという弱点がありながらも、心を開けば相手には優しく接し、将来有望とまでされるその頭の良さ。
見目よし、頭脳よし、性格よし。
自分がもし女性であったなら、確実に惚れていただろう。
「――……一目惚れ、ですよね」
「は?」
不意にケイトが告げた言葉に、フレデリックは動きを止めた。
「殿下はアナスタシア嬢と初めて会った日、彼女に対して『あのまま逃がしちゃダメだと思った』と、そう言いましたよね」
確かそんなこともあったなあと、思い出しながら首を縦に振る。まるで昔話でも語るようなケイトの一言一言に、そっと耳を傾けた。
「殿下は昔から、とても愛らしくて元気のよいお方でした。何事に対しても一生懸命にこなそうとするし、人望もある。でも唯一、貴方が触れようとしなかったのが、恋愛面」
「……面倒くさいと思ってたし、昔は……いや、今も、それだけよくわからないんだ」
今までたくさんの縁談と恋文が舞い込んできたが、恋愛に対して興味がまったくなかった当時、くだらないと言ってすべて放棄していた。おかげでこの年になるまで初恋どころか恋人もつくらず、ただ国の安泰のためだけに努力を惜しまずにいた。
それが今になって逆に、どこか人生が楽しくないと感じるようになった。
常に顔を合わせるのはケイトや侍女、貴族の男たちのみ。国王主催の式典等で女性を目にすることはあるけれども、声をかけるなんて無謀なことはしない。
少なくとも、自分からそんなこと、したこともなかった。
これからも、そんなことはないと思っていた。
なのに。
「なんで、あの時だけ、自分から声をかけたんだろう」
相変わらず優しくない言葉しか出てこなかったが、それでも自分から話しかけたのは、記憶の限りあれが初めてだったと思う。抵抗も感じなかったし、近づきたいと、そう……。
あ。
純粋に、あれが『初恋』というのだと、今、ようやく気づいた。
「――変、なの」
恋愛なんてそんなもの、存在するのは物語の中だけだと思っていた。自分にはほど遠いもの、女性が苦手なのだからなおさら。
「俺、あの時すごく嬉しいと思いました。初めてですよ、あんなの。殿下が普段見向きもしない女性に対して、あれほどまでに会話をされたのは」
「……会話って言えるほど、深い話はしてねぇよ」
「それでも充分です。だって、ほら」
おかげで今、貴方の傍には彼女がいるんですから。
なぜか、笑ってしまった。
初めて、長く言葉を交わした女性。
初めて、心に空いていたつまらないと感じる穴を、埋めてくれた女性。
……初めて、自分に『恋』という感情を教えてくれた女性。
「そろそろ約束の時間じゃないんですか? 早く行かないと気が変わって部屋に引きこもっちゃいますよ」
からかうような笑顔に、フレデリックはそれと同じ顔で返事をした。
行ってくる。
また、大きな一歩を踏み出すために。
***
目が覚めると、座っていたはずの椅子から落ちていた。
どうやら頭をぶつけたらしい、顔を上げると針で刺されるような痛みを感じた。それでも何とか立ち上がると、今度は立ちくらみがする。
ふと視線を下に向けると、ドレスに皺ができていた。床ですうすうと眠るアルベールを見、膝に乗せていたからかと小さく頷く。
「……本でも読もう」
寝起きに本を読むと集中できる。自分はそういう体質なのだと知った時から、それはいつしか習慣になっていた。
と、気づいた。
鏡台の前に、誰かがいる。
まだ頭がぼうっとしていて、それが誰なのかわからなかった。
しかしその白黒の服からして、侍女の誰かだろうか。
だが、途端にハッとする。
髪の毛が短い。
ここで仕事をこなす侍女の様子を、何度か観察したことがあるが、その侍女たちは、いや、この城で働く侍女のほとんどは、髪の毛が長い。仕事の邪魔にならないよう髪の毛を結び、後ろに垂らしているのがほとんど。
それでも髪の毛が邪魔で、仕方なく切ったのだろうか。
唯一、女性が女性であると認められる、長い髪を。
――べ、別に個人の自由だよね。髪の短い人なら、ドリゼラもそうだし。
彼女の場合は髪を切ると男が寄ってくるという占いを信じてのことだが、しかし皆が皆占いを信じているわけではない。
他に、女性が大切にしている長髪を切る意味は?
たぶん、ない。
少なくとも、自分はそう思う。
「あ、あの」
恐る恐る声をかけると、その人物はこちらに顔を向けた。
……瞬間、腰が抜けた。
きゃっと声を上げてその場に尻餅をつくと、コンコンという靴の音。
やめて、こないで。
なんで、どうして。
収まらない、心臓のドクドクという音。これは決して、胸が高鳴っているとか、恋愛的なそういう意味では、絶対にない。
だって、だって――。
「アナスタシア様。大丈夫ですか?」
化け物。
くっと、身体を抱き上げられる。嫌だ、と声を上げようとすると、いきなり手で口を塞がれた。
「どうか大人しくしてください。バレると大変ですから」
にこりと、笑った。
その笑顔に、アナスタシアは涙を浮かべる。
「あ、もしかして、わたしが怖いですか? ごめんなさい、いきなり」
涙が頬を伝う。それを、細く白い指でそっと撫でられる。
声が出なかった。叫べば誰か来てくれたかもしれないのに、声が出てくれなかった。
「そういう顔されると、……食べたくなります」
ああ、もうダメだ。
確実に。
―――喰われる。
***
「うお。やっと起きた」
まぶたを開けて最初に目に入ったのは、見目麗しい顔と金色の髪だった。それがデートに行くはずの相手だと気づくと、アナスタシアは近い、と頬を赤らめる。
ごめんと言って離れる彼に目を向け、身体を起こした。背後にあった窓から外を見ると、見たことのない景色が広がっている。
――海だった。
普段屋敷からあまり外へ出ることのなかったアナスタシアには、その景色が妙に新鮮に見えた。もう何年も前のことだろう、海を見たのは。
「……きれい」
馬車を横切っていく鳥たちに視線を注いでいると、ツンツンと肩を突かれる。顔を向けると、フレデリックが棒付きキャンディを自分に差し出していた。ん、と言って突き出してくる。
「うまいから」
「ありがと」
素直にそれを受け取ると、袋を破って口に放り込む。苺の味がした。甘ったるくて、どこか――
「……ほっとする」
甘ったるいのにほっとするその味に、アナスタシアはそっと目を瞑った。疲れがたまっているのだろうか、背もたれに体重をかけると、一気に疲労が襲った。
「眠いの?」
問いかけられて、こくんと首を縦に振る。
「嫌な夢でも見た?」
夢。
ひどい、夢だった。
今思えば、ものすごくおかしくて、ひどい、夢だった。
「……誰、だったの?」
ものすごくおかしくて、ひどい、夢。
なのに、どうしても思い出せなくてもどかしい。
顔をはっきり見たはずなのに、そして驚いたはずなのに。
……意外な人物。
それだけはわかる。
わかる……のに。
「――食べたくなります、ね……」
「へ? 何か言った?」
「なんでもない」
「いやでも今食べたくなるって」
「あんたのことじゃないわ」
「あっそう」
なぜか残念そうな顔でキャンディを舐める彼に冷えた視線を送りながら、再度、夢について考えてみる。
髪の短い女性――自分の記憶が正しければ、だが――。
身体を抱き上げられた時に感じた、『化け物』という言葉。
決定的なことは、それがおそらく、自分にとって意外な人物であったこと。
だからあれほどまでの恐怖を感じた。
誰、だったのだろう。
考えれば考えるほど物事が嫌な方向に向かっていく気がして、グッとこめかみを押さえた。
「ああんもう。んなこと考えてても仕方ない。殿下、ちょっと行きたいところがあるんだけど」
首をぶんぶん振ってフレデリックに目を向けると、彼はどうやら二本目に突入したらしい、緑色の棒付きキャンディを舐めていた。きょとんとした顔で「ん?」と聞き返され、む、とつい黙ってしまう。
初めて会った時は、ただただ嫌な奴だと思ったが、しかし長く接していると、だんだん彼の違う面ばかり目にしている気がする。
無駄なことで意地を張るところ。
わがままだけれど、ちゃんと気遣ってくれるところ。
そして、意外とチョロいところ。
おそらく年はそう離れていないのだろうが、しかしキャンディを本当に美味しそうに舐めるあたり、どこか子どもっぽくて憎めず、そして可愛らしいと感じた。
ついほわっと笑ってしまい、何考えてるんだろうとコホンと咳払いする。
「そういえば、アルベールはどうしたの? 床に転がってたでしょ」
ふと部屋に置いてきた誰かを思い出して聞いた。部屋で眠っていたから、今ももしかしたらすうすう寝息を立てているかもしれない。
「ああ、あいつ? 邪魔だったから、廊下にほっぽり出しといた。まあ侍女たちがキャアキャア言って群がってたから、無事だとは思うけど」
「あ、やっぱり?」
彼ならまあ、そうするだろうとは思っていた。
***
そうして再び窓の外に目を向けた頃には、自分の知らない、どこかもわからない場所にいた。
何かの祝い事なのか、町にはたくさんの紙吹雪が舞っており、あちこちで賑やかな声が聞こえる。
「どこ、ここ」
普通に考えれば見知らぬ場所に連れてこられたのだから、多少口調がきつくても誰も文句は言えない。フレデリックは茶色い地図を広げながら、
「メーデル。隣町だよ」
と呟いた。
「メ、メーデ……?」
賑やかな町にはそぐわない、その大人しそうな名前に、アナスタシアは窓から顔を出す。
ほんのりと、甘い香りがした。よく見ればこの辺には、食べ物関連の店ばかりである。商店街か何かだろうかとぐるぐる首を回していると、ガタンと馬車が止まった。どうやら、目的地に到着したらしい。
「お、着いたみたい。行くよ、アーニャ!」
どこかと確認するよりも早く、ぐいっと腕を握られ馬車から降りる。
――そこには、可愛らしいお菓子の家が聳えていた。




