8 お忍びはライバルの味
船を下りると、そこには広大な絶景が広がっていた。
小さな家々が立ち並ぶ街を行くと、丘の上には煌びやかな宮殿。城の名前は長ったらしくて忘れてしまったが、噂どおりの美しい宮殿だと思う。遠目からでもそれはよく分かった。
ふと、視線を左方向へと移す。
「あー……懐かしいなあ~……」
昔よく遊んだ幼馴染みの大きな屋敷が見え、ふっと笑みを溢す。またあの家で元気にはしゃいでいるのかと思うと、無性にその人に会いたくなってきた。
「それじゃ、数年ぶりの再会といきますか」
深く被っていた純白のフードを脱ぐと、ふわりと心地よい風が吹いた。
「待っててね……アナスタシア」
ちゃりん、と小さく鈴の音がした。
***
「アーニャっ、暇だから港町へ行こう」
びっくりした。のんびり昼寝でもしようとソファで伸びをしていたところに、勢いよくドアを開けて入ってきたのだから。
驚いた顔をするアナスタシアを見、フレデリックはむんずと腕を掴んでくる。痛いと声を上げると、今までにないくらいの、ある意味「魅力的」とも言える表情をして言った。
「どうせ昼寝でもしようとしてたんだろ? なら付き合え」
ふと、先日の出来事が頭を過ぎる。ガーデンパーティーでの彼の行動を思い出すと、自然に顔が引きつってしまう。
「大丈夫です。特に用もないので」
すすっと何歩か下がったので、客観的に避けているような体勢になってしまった。
恥ずかしさでまともに顔も見られないアナスタシアとは裏腹に、フレデリックはにこりと屈託のない笑みを浮かべる。
「いいでしょ? お願いだから」
どうしてそこまでして自分を港町まで連れて行きたいのかは疑問だが、しかしこううるうるした瞳で頼まれると、なぜだか素直に断れない。
「あーあ、残念。アーニャの好きなパウンドケーキのおいしいお店があるんだけど、それじゃあ行けないね」
「えっ嘘それホント!?」
あ、と気づいた時には、もうすでに彼の腕をぎゅうっと掴んでいた。
自分はどうも、パウンドケーキという言葉に弱いらしい。
……結局、フレデリックの付き添いということで港町まで足を運ぶことになったのだった。
***
その日の空は、真っ青と言わんばかりの好天候であった。
空色の爽やかなドレスを着て城から出て行くと、真っ赤な日射しに目がくらむ。しかしこんな日こそゆっくり歩いて行けば良いものを、貴族というのは歩くという選択を知らない。迷わず馬車へ乗り込むフレデリックに、内心呆れているアナスタシアである。
「そういえば、アーニャは港町へ行ったことあるのか?」
棒付きキャンディを舐めながら、フレデリックが聞いてくる。そもそも外へ出ることがほとんど無かったアナスタシアは、ない、とだけ答える。
「へ~。じゃあ今日が始めてってこと?」
「まあ、そうなりますね」
「そうなんだ。あぁ、あと俺に対して敬語はいいから。なんか堅苦しい」
そうは言われたものの、生憎今はタメ語を使えるような状況ではない。
警戒している。
そう、今は彼を警戒しているから、タメ語で話すわけにはいかない。
「それで? 港町へは何しに行くんですか?」
「だから敬語はやめてよ……ま、まあとりあえず、新しい改革的な何かの視察?」
「うわあめんどくさぁい」
そういえば、彼はこれでも一国の王子様なのだった。
政治的な面で地方を訪れるのにも、まあ頷ける。
「でもさっき、殿下は暇だから一緒に行こうって言いましたよね?」
「あ、あ~れぇ~? そ、そんなこといったっけぇ……?」
明らかに誤魔化そうとしている。あくまで記憶にないと言い張っている態度だ。
「まあ、別にどうだっていいですけどね。嘘でも本当でも。とりあえず、わたしはパウンドケーキさえ食べられればいいので」
「用件ってそれだけ?」
「用件って言ったって……ていうかそれこっちの台詞だし! あ、いえそれはわたしのほうが殿下に聞きたいというか」
「なぁんか赤の他人みたい」
「いやそうでしょ前まで赤の他人だったし」
そうやって二人言い合っていると、やがて馬車は港町へと近づいてきたようだ。さすがに馬車は通れないので、ここからは歩いて行くことになる。
「殿下。くれぐれもお気を付けて」
「だいじょーぶ。おまえの考えてるようなことは絶対起きないから。あと俺にはアーニャもいるしね!」
「勝手に巻き込まないでください」
ぐいっと肩を寄せてきたので、咄嗟に口から文句が出る。最近は彼に反論ばかりしているような気もするが、それもすべては……――
あー、だめだめ。そういうのは今はなし! パウンドケーキのことだけ考えてればいいの、今は。
しかしここから二人っきりでの行動となると、さすがに落ち着いてはいられない。どうにかして彼を巻かないと、アナスタシアの体力と神経が持たない。
「んじゃ、ケーキ食いに行こっか」
ええ、と適当に相槌を打ってから、逃げ道を考える。だが残念ながらそのケーキの店の場所が分からないので、どうやって逃げるべきかが想像できない。せめてこの辺の地図でもあれば……。
「あら。フレデリック殿下」
と、そこで背後から声がかかる。自分が呼ばれたわけでもないのに反射的に振り返ってしまったアナスタシアは、後に激しく後悔した。
そこにいたのはどこからどう見ても「美女」としか言いようのない女性。歳はアナスタシアより二つか三つほど上だろうか、ひどく大人びた印象を受ける。
薄桃色のドレスを派手すぎず地味すぎずに着こなし、髪の毛は白い百合の花で飾っている。おまけにその金色の髪ときたら、自分の髪質とは偉い違いだ。綺麗な金色なのはもちろんのこと、その毛先まで丁寧に梳かされている。くるくるした自分の髪より数倍綺麗……そのうえ白い頬に赤い唇って、どんだけ男狙ってきてるんだよ。
あまりの容姿の格差に、アナスタシアはただただ口を開けるばかりだ。
しかし、対してフレデリックのほうはそんなこと気にもしていないというふうに、いつもの口調で言葉を返す。
「ああ、久しぶりだなロレーヌ。仕事のほうはうまくいっているのか?」
「ええ。おかげさまで、何事も滞りなく」
「それはよかった」
何がよかった、だよ。こっちはちっともよくねえよ。
そう突っ込みたくなったのを必死で堪える。
……それにしてもこの二人、やけに仲が良さそうだな。
「あら、そちらの方は?」
ふと、ロレーヌと呼ばれた彼女が自分に目を向ける。アナスタシアはその透き通った赤い瞳にドキッとすると、小さく会釈した。
「どうも、アナスタシア・トレメインといいます」
「はじめまして。ロレーヌ・アントレアです。父は『エルアントレア』という飲食店を営んでいます」
エルアントレア……そのレストランの名を口にした時、アナスタシアはハッとして口元を押さえた。エルアントレアといえば、母の行きつけのあの有名な高級レストランではないのか?
ということは、彼女はそこの社長の娘……。
こ、これはもしかしなくとも、相当よい印象を与えなければならないのでは!?
「とはいっても、父の営業がうまくいっているのはすべて殿下のおかげなのですけれどね。だって、殿下はわたくしの婚約者なのですもの!」
――ぴた、とアナスタシアは握っていた手を緩める。
今、彼女はなんと言った?
「彼とは婚約者同士ですの。親の決めた立派な……」
「いや違う。断じて違う! 正式に言えば『元』婚約者だ! そこのところ、誤解するなよアーニャ!」
どう、なっている……?
もしロレーヌの言っていることが本当なら、この男は……。
「二股かけてる、ってこと……?」
特に個人的感情はないのに、何だか無性に腹が立ってきた。ぎゅうっと拳に力が入る。
「彼ったら、いきなり『結婚しよう』だなんて言い出して。それでわたくし、勢いに乗ってハイと答えてしまったの。でもわたくしもまんざらではなかったのよ。彼のことは好意的に思っていたし、むしろ婚約者になったほうが好都合でしたの。ですから――」
どうして、こんなにも彼のことで腹を立てねばならないのだろう。
そう考えたら、腹の底から怒気のこもった大きな声が出た。
「いいえ! 彼はわたしがいただきます!」
は、はぁぁぁぁぁ!?
自分でもよく分からないことを口走った気がする。
フレデリックはアナスタシアを見て目を丸くしているし、ロレーヌにいたっては「よい心意気ですわ」と不敵な笑みまで浮かべている。それを見たら、アナスタシアにも徐々に対抗心がふつふつと沸き上がってきた。
別に自分には関係のないことなのに。どうだっていいことなのに。
でも、どうしてもこのまま見過ごすわけにはいかない。
こうして、アナスタシアとロレーヌの、フレデリックを賭けた女の戦いが幕を開けたのである。




