6 理由がほしい
白薔薇の王子ことチャーミング……本名をフレデリックは、婚約者の自室からの帰路、どこか不安げな表情を浮かべていた。
理由は他でもなく、婚約者であるアナスタシアのことだ。
侍女からアナスタシアの様子がおかしいと連絡があり、目を通していた書類も放って外へ飛び出した。王子の住まう白薔薇の宮からは少し距離があったのだが、しかし彼は、それを気にすることもなく、ただ一目散に走った。
それほど、彼女のことが心配でならなかった。
正式な婚約者というわけでもないのに、こんなにも自分が必死に走る理由。
互いが想い合っている、そうとは決して限らないのに。
現に、相手は自分のことを嫌っているのに。
「どうして俺は、あんなに必死に……?」
自分でもよく、わからない。
その理由が、自分でもわからないのだ。
深い溜息が出た。
理由がほしいと、そう呟くような、深い溜息が。
***
翌日になると、アナスタシアの体調は、すっかりよくなっていた。
まるで、昨夜の出来事が嘘のように。
「ごきげんよう、エレノア!」
早朝、朝食を運んできたエレノアに、アナスタシアは大きな声で挨拶する。
その打って変わった様子を見、エレノアの目が飛び出るほどに見開かれる。
「もうお体は平気なのですか? また頭痛がしたりとか……」
「頭痛? そんなもの最初からなかったのよ。もうすっかり、この通り! 元気満々だよ!」
……逆に、元気がよすぎて心配になってくる。
そう、密かに感じたエレノアは、苦笑いを浮かべながら朝の紅茶を淹れる。ほんのりと、林檎のよい香りが鼻腔をくすぐる。
「そういえば、昨夜は殿下と会われたそうですが」
「ああ、あれ? あんなの会ったのうちに入らないわよ。ただあの人が勝手に来ただけ」
ふん、と鼻を鳴らしていうアナスタシアだったが、しかしよくよく考えてみると、本当に自分は体調を崩しただけ……なのだろうか。
心配してくれたのはわかるし、相変わらず口の悪い奴だとは思ったけれども。
「悪い人、では、ないんだよね」
いくら自分を騙したとはいえ、多少の気遣いはあるようだ。まああれだけ派手に騒いだら、誰でも駆けつけるくらいはするのだろうが……。
「ま、心配してくれてありがとうくらいは、言ってあげようかな」
これも、一つの成長だと考えれば、不思議と悪い気はしない。
お礼くらいは、嫌いな人でも、ちゃんと伝えなければ。
ふわりと赤いドレスを翻し、アナスタシアは白薔薇の宮へと向かった。
***
その日のフレデリックは、いつにも増して忙しかった。
数日分の資料は机の上に幾重にも重ねられており、その半分もまだ目を通していない。そのうえどうも頭がぼうっとしてしまい、仕事に集中できずにいる。
甘党の彼が渋々口にした苦めの珈琲も、まったく効き目はない。
「殿下ぁ~、まぁだ終わらないんですかぁ? いい加減書類を提出しに行かないと俺が――」
「わかってる!」
頭を抱えて叫ぶフレデリックに、そばに控えていたケイトは心底嫌そうな顔をした。彼がああなってしまっては、もうどうしようもない。
ただ、彼がやる気を出してくれるのを待つだけである。
「なあ……ケイト」
「はい?」
「あいつについて、どう思う?」
「あいつって?」
「アナスタシアだよ。あんな悲鳴を上げるなんて、アナスタシアらしくないと思って」
普段は女性に興味こそ示さない彼が、珍しく真剣な表情で聞いてきたので、ケイトは何かいい答えはないかと思考を巡らせる。だが、咄嗟にその質問に合う答えが見つからない。
「薄々わかってはいたんだ。アナスタシアには何か、誰にも言えないわけがあるんだってこと」
フレデリックの声が、徐々にか細くなっていく。
「だって、最初から変だったもの。なぜ自分じゃなく、他人を俺と引き合わせようなんて取引を提案したのか」
「でもそれは、ただ単にそうしたかっただけなのでは? 近しい方でしたら、俺でもそうしますよ?」
「それはまあそうなんだけど。でも、あの時彼女は『母の願いだから』と言った。……母の願いだというなら、なぜ自分以外の人を引き合わせようと?」
そこまで考えて、フレデリックはギュッと唇を噛む。
この先を口に出したら、何だか。
苦しくて泣いてしまいそうになる。
でも、それでも、フレデリックは自分に言い聞かせるつもりで、続けた。
「最初からアナスタシアは、取引なんか関係なく、俺とその人を結婚させるつもりだったんだ。何か理由があるのかは知らないけど、婚約者の立場にいるべきは自分じゃないって、そう伝えたかったんだと思う」
だってそれしか、他に理由がない。
彼女が、自分を好きでもないのに、あんな提案をした理由が。
「少なくとも、俺はあの時、もしかしたらアナスタシアのことが――」
そう小さく呟いた時、がしゃんっと、大きな物音を立てて扉が開いた。
……その話の重要人物が、腰に手を当てて仁王立ちしている。
「あっ……ごめんね、お取り込み中だった?」
「ああっ、もう姫様!」
背後から侍女のエレノアが息を切らして駆けてくる。相変わらずそのすばしっこさは健在なようだ。
……と思えば、どうやら体調も、随分とよくなっているようである。
「体調はもういいの」
先ほど考えていたことが頭をぐるぐる回って、きつい言葉しか出てこない。
しかしアナスタシアは気に留めた様子でもなく、いつもどおりの言葉を返す。
「おかげさまでこのとおり。どこも異常なし!」
右手でグーをつくり、ぐいっと突き出す。そういう態度は田舎者のままだったけれど、どこか、懐かしさを覚える。
何してるの、と言って近づいてくるのを、ケイトが剣で制止した。
むう、と頬を膨らませ、アナスタシアは腕を組む。
「ま、忙しそうなら仕方ない。とりあえずお礼を言いに来ただけだから」
お礼? とフレデリックが疑問系で反芻すると、そうよ、といって、不意に。
彼女にしてはやけに素直に、ペコリと頭を下げていった。
「昨日はどうも、ありがとう」
と。
ぽっかりと、先ほど空いた穴を埋めるように、彼女の言葉はフレデリックの心に響いた。
初めて、彼女に対して心の底から満面の笑みが浮かんだ。
「……ああ」
理由なんていらない。
たぶんこの気持ちにも、理由なんてない。
ただ、自分がしたいことをすればいい。
理由なんかなくとも、自分は、もうとっくに。
「それじゃあ、仲直りもしたことだし、ひとつ言わせてもらっていい?」
ええ、とアナスタシアが答えると、彼はいつものおきまりのあどけない笑顔で、そして突拍子もないことを平然として言うのであった。
「俺と、正式な婚約者になってよ」
「は……、はあッ!?」
理由なんかなくとも、自分はもうとっくに。
彼女に夢中だった。




