Mission 07: Crossing
赤い絨毯がしかれた部屋。殺風景な部屋の中央にあるデスクには表情の読めない男が座っていた。
その前には左手に大きなアタッシュケースを持った小柄な女性。右腕には包帯をしている。
目の前の部下に厳しい視線を向け、男は口を開いた。
「錦木いのり。
突っ込みすぎだ。最近のお前の行動は目に余る。今日はかすり傷で済んだが、次はどうなるかわからん。一度前線から離れて別の任務を受け持ってもらう。」
「申し訳ありません…。」
いのりと呼ばれた女性は頭を少し下げ、謝罪する。軍服に似合うショートヘア。片側だけ長い髪の毛を耳にかけるがすぐに垂れ落ちる。
いのりは焦っていた。
国境を股にかける謎の軍事組織<ピース>。それが今いのりが所属する組織だ。
荒事を中心に世界中で様々な任務を行う。だが、その任務一つ一つが何の役に立っているのか、そういったことが一切明かされないというフラストレーションが、時に組織の人間の精神を蝕む。
だがいのりは違った。
いのりには憧れの人物がいた。今の戦闘の知識はすべてその先輩から教わった。彼はいつも冷静で、誰よりも優秀だった。彼を尊敬し、敬愛していた。彼さえいれば戦う理由などどうでもいいと思っていた。
しかし、突如彼は姿を消す。
彼は任務中に錯乱しパートナーを誤射。作戦こそは成功したが、チームにも負傷者を出し軍法会議の結果、彼は謹慎処分となった。
彼がそんなことをするはずがないと、いのりは当時の上官につめよったが、門前払い。
どうすることもできず、真相を求めてただただ彼が帰ってくるのを待った。
だが、彼はそのままピースを去った。
絶望に打ちひしがれながらも、悲しみを打ち消すように彼女は任務をこなしながら、ピースという組織について調べようとしていた。彼が謹慎処分となった事件の真相を探るために。
だがその壁は厚く、真実を掴むのは容易ではなかった。それどころか孤独に戦う日々が少しずつ彼女を疲弊させていった。
「…私たちは一体何の目的で…。」
いのりは、半ば諦めに近い感情のまま、疑問を呟く。
上官はデスクに座ったまま、両腕に顎を乗せ、ため息を漏らした。
「その質問を過去何人から受け、何人に同じ答えを聞かせたと思う?」
上官は背中をみせる。
「お前はそんなこと気にせず今までやってきた、そう思っていたが…。
…あの男のせいだな。私は知らないが、前任者のお気に入りだったとか…。」
望む答えはやはり返って来ない。それどころか嫌な所も突いてくる。こういう所がこの上官の気に食わない所だ。
「そういえばお前も前任者のお気に入りだったな、だからこそそれを任された。」
彼は左手のケースに目をやる。
上官は無言の彼女にため息を漏らし、引き出しから一冊の本を渡す。
「これは…。」
分厚く古びた一冊の本。仰々しく金具がついておりその本は開けない。鍵が必要なようだ。さらに不思議なことに表紙には文字が一つも書かれておらず何の本なのかさっぱりわからない。
「話を戻すぞ。
後で情報は送るが、場所は日本の北海道。お前の生まれの地だそうだな。そこで現れるある女にこの本を渡し、代わりに女から小箱を受け取る。そののち、速やかに現場を離れる。それが次の任務だ。
この任務はピース内部でも極秘任務だ。帰還したら小箱は迅速に私のもとに届けること。
戦闘行為はないが条件として、その女と会話をすることは許されていない。一言も口にするな、それだけだ。
明日の朝には出発だ。出発後にバルムンクは回収させてもらう、よく磨いてケースに戻しておけ。
私からは以上だ。」
その言葉を合図に、いのりはかかとを合わせ背筋を伸ばす。
敬礼し、彼女は背を向け部屋を出た。
扉が閉まる。
その直後、カーテンの陰から音もなく黒いドレスを着た女性が姿を見せる。
「心配か?」
居るのが当然かのごとく、上官は目線を扉に向けたまま問うが、彼女は答えなかった。
「…様子を見てみようじゃないか。」
自室。
ベッドと机だけの狭い部屋。下着以外はその辺に脱ぎ捨て、いのりはベットに座った。目の前の鏡を見ると、胸元の辺りに傷があるのに気づく。かすり傷だが、もしこんな所に深い傷でもあったらもしもの時男は引くだろうか、などとふと思う。先輩なら…。
あるはずもない展開を脳内に張り巡らせながら、少し紅潮した頬に右手を添えた。
「先輩…」
デスクの上に飾られた一枚の写真に目をやる。
そこには無表情でただこちらを見る男性が映っていた。
そのとき右腕に痛みを感じた。現実に引き戻された彼女は落胆しながら包帯を外す。こちらの傷はまあまあ深い。応急処置はしたが不十分だったようだ。血が滲んできていた。
こんな傷を作ってしまうとは…余程平常心を欠いていたのか。
「はぁ…私は何を…。」
分厚い本を掴んだ。その結果がもたらした左遷ともとれる任務を思い出す。
「潮時…。」
相変わらず意味のわからない任務。もううんざりだ。いのりは本をベッドに投げ捨て、体重を全て預けるように後ろに倒れ込んだ。
見上げる天井が涙で霞む。
「先輩…どこにいるの…?」
そのときだった。視界の端で何かがうっすらと発光する。左手で目の端を拭きながら体を起こすと、妙な現象を目にした。
本の上には血の着いた包帯が重なっており、その下で青白い光を放っていた。そして、本から小さな金属音が聞こえ、発光はおさまった。
彼女は恐る恐る手を伸ばす。包帯を退けると、その本を縛っていた錠が外れており、先程までは何の文字も書かれていなかった所に歪に曲がった文字でタイトルが掘られていた。
「魔導生物の書…?」
中を開けると見たこともないような生き物のイラストと、その説明が書かれていた。
オタク文化に疎い彼女は興味など全く無かったが、それでもその本を端から端まで目を通した。これは映画の小道具か何か?いや、先程の現象からしてそんなものでは無いはず。ピースが頑なに隠していた何かに触れたと、今確信する。
いのりは立ち上がり、クローゼットを開けた。そこには明日の任務用の洋服が置いてあった。
履いたことが無いようなオシャレなスカート。そして旅行者を装うためのキャリーケース。
それをみつめてから、入口に置いたアタッシュケースをみる。
「先輩…私…!」
いのりの眼に決意の灯が宿った。
「みてくださいよ!あれエッフェル塔ですよね!」
と、声をあげるのは嵯峨野千里。
「落ち着け」と、呆れた様子で彼女を見る紫雲楓。
キメラの事件をきっかけにロンドンを拠点とする監視協会に身を置くことが決まり、千里のテンションは最高潮だった。海外への憧れ、異文化交流、そんな中での仕事に期待だらけだった。非戦闘魔術しか持たない自分は前線に出ることはないだろうと予測し、ヨーロッパで優雅に暮らしながらのデスクワーク、などと甘い妄想を繰り返す日々を送っていた。
そして、ついにその日が来たのだ。
「あれって凱旋門ですよね。すごい!」
「あっちのはピサの斜塔ですね。傾いてますね!」
千里は指をさしてその建造物の名前を上げていく。それを冷ややかな目線で見守る楓。
「言ってて悲しくないか?」
千里はそんな言葉を無視して続けた。
「あれが万里の長城で、あっちのはギザの三大ピラミッド…。」
とそこで肩を落とす。
「お前の気持ちはわかるが…。」
と肩を叩いた。
楓の方に振り返ると彼女の目には涙が溜まっていた。
その背後には、ところどころに配置されている、世界の有名な建造物たち。
大きくても2メートルそこらのそれらの横には、ご丁寧に歴史や特徴が事細かにかかられた看板がつき刺さっていた。
千里は楓の眼前に一枚の紙を突きつける。そこには「旭山大地の里公園・ミニチュアワールドツアーマップ」とあった。
「そりゃ悲しいですよ!話が違いますよ!素敵なヨーロッパの街並みを眺めながらお仕事できるって!どれだけ毎日楽しみに過ごしてたか…。」
しょうもないことに落胆する千里にあきれる楓。
確かに、組織の説明を受け空港へ行った時は自分も海外へ行くものと思った。
「国際線でそのまま北海道とは…俺も予想外だったが…。」
空港のロビーで待つよう言われ待っていたら、見知らぬ男から突然北海道行きのチケットを渡された。
直後電話がかかってくる。クローネだった。
『ちょっと急だけど任務よ。
言っておくけど、新入社員研修なんて甘いもんはうちにはないから。特に貴方みたいな特級クラスの新人にはね。
っていうのは半分冗談だけど、実のところ今リソース足りてなくてさ。あなたたちしかいないのよ。』
命の危険もあるような仕事だと理解している。なのにこの軽いノリはなんなのだと戸惑う楓。
そんな楓のことなど気にもとめず、ズンズンと話は進む。
『で、さっそく本題だけど。
てゆーかいきなりヘビーな話なんだけど、うちで扱ってる魔導書が一つ盗まれたみたいでね。色々調べた結果、ピースの中の誰かが犯人っぽいのよ。』
「何…。」
『それで今日、日本の北海道で取引に使われる可能性があるってわけ。そこをおさえてほしいの。
安心して、接触してくる人間は戦闘能力を持たないの女性ってことはわかってる。ピース隊員一人を先に陰からスナイプして眠らせれば、あとは楽勝でしょう。
取引場所は暗い地下道だけど、索敵は千里に任せれば問題ないはずよ。
二人を拘束したら連絡して、後処理班(非戦闘員)が速やかに動くから。』
「確かに今の説明で十分だが、何事も想定通りには進まないものだ。他にカバーしてくれる人員は?」
『悪いけどゼロよ。言ったでしょリソースないって。大丈夫、アンタならきっと上手くいくわ。
じゃ。』
そう言って電話は切れた。
「嘘だろ…。」
この安易な連絡はなんなのだ。軍やピースといった規律の整った社会しかしらない楓にとって、クローネの指示はあまりに簡素で不安だらけ。本当にピースで上官をやっていたのはあのクローネだったのだろうかと疑うほどだった。
と、いう内容を千里に告げ、二人は東京の空港から大きな荷物を抱えたまま北海道へと飛ぶ事になったのだった。
旭山空港で降り、少し歩いたところにある公園そばに一台のコンパクトカーが置いてあった。その車で小樽市まで移動せよ、とのことだった。
どこまでも広がる青空と草原。長い長い一本道を走りながら二人は目的地を目指す。
先ほどから楓は物思いにふけっているようで黙りこくっている。千里はそれをみてばつが悪そうに自分も黙る。
(はぁ…。私はいつまでも子供ですね。お仕事なのに、ヨーロッパだなんだって馬鹿みたいはしゃいで…はぁ。
流石にこんな私に愛想つかしてしまってもしかたないですよね…。)
「っはぁあああぁ。」
解りやすいほどの巨大な溜息に、楓は我に返る。
「…どうした?」
その問いに、千里は素直に謝罪をした。
「あ、ああ。まあ気づいてくれたならいい。俺が考えてたのはそれじゃない。」
「じゃあ…。」
「いや、監視協会に身を置けばいつかピースとも関わりを持つ事があるだろうと漠然とは思っていたが、まさかこう早くその機会が訪れるとは予想していなかった。
苦楽を共にした仲間たちとまた会って話したい気持ちは勿論あるが…結果的にあの辛い環境から自分だけ逃げ出したようなものだからな、どうしても罪悪感を感じるんだ。」
「そんなこと…。」
「とはいえ、ピースと監視協会の関係上、顔を合わせるということはありえないというのは聞いている。それでももし知り合いが近くにいたらと思うと少し複雑でな。」
そんな風に少し悲しそうに笑う楓を、千里は初めて見た。
「あ、あの…!
ピースの皆さんって、どんな人だったんですか?」
「え?あー…。
色々いたぞ。飯ばっか食ってたスティングに、ギャンブル馬鹿のラジュとか、グレッグとはよく早撃ち勝負をしていたな。それから…。」
友人の話をしているうちに、楓の表情は少しずつ緩んでいった。それをみて安心する千里だった。
心地よい風が車内を流れ、笑顔で話す楓の髪が揺れる。
少しだけ鼓動が早くなるのを千里は感じていた。
「いいお友達ばかりだったんですね。」
「そうだな、そういえば千里と同じ年の女子もいてな。」
「…エ。」
「愛想のないやつだったが、いっつも俺にくっついてきてな…、俺がいなくなっても元気でやってるかな。」
「へーーーーー。」
突然車内の温度が下がる。
「…?」
「可愛い女の子もいて、タノシー職場だったんデスネ。」
「お…おう。」
謎の温度低下に寒気を覚えながら、楓は疑問符を浮かべながらアクセルを踏む。
小樽市。
観光名所として有名で。北海道へ行くならば必ず誰もが訪れるであろう名所。運河の観光に海鮮と楽しみは沢山。ゆっくりと美しい街並みをみながら食べ歩きたいものだと、普段の千里なら浮かれていただろう。
しかし、流石に任務を直前に緊張が高まっており、口数が少ない。
助手席でぶつぶつと段取りを確認している千里をみて、楓は少し安心した。いつまでも浮かれていては命がいくつあっても足りない。加えて、この間まで女子高生だった千里をバディにするのはやはりまだまだ不安だ。この間のキメラの一件では想像以上に活躍をみせてくれたが、あんな紙一重のミッションなどほめられたものではない。確実性こそが何より大事なのだ。
とはいえ、共に戦う以上、ベストな状態で臨んで欲しい。
「千里、いきなりの任務で怖いこともあるかもしれないが、お前は必ず俺が守る。だからお前は索敵に集中してくれ。」
目線は前方を向けたまま、頼りになる言葉をかけてくれる。新人のモチベーションを保つのも大事。もちろん作戦の完遂こそが目的だがその過程で行うこういったケアは後輩から慕われていた理由の一つだった。そう、このルックスも手伝い、不愛想な楓は意外と陰で人気があったのだ。
「は…はい。」
千里が例外なく惹かれてしまうのも何ら不思議ではなかった。
信号が赤に変わる。
目の前の横断歩道を何人かが渡っている。お年寄り、若い夫婦、外国人家族、キャリーケースを引いた一人旅風の女子大生。
穏やかな夕暮れに、微かに聞こえる波の音。
任務さえなければ…と楓さえも思ってしまうような、風情ある景色だった。
信号が赤に変わるギリギリ、女性は歩道を渡り切り、段差の上へとキャリーケースを持ち上げる。
ショートヘアで小柄なその女性は、マスクの位置を整え、改めて目的地をスマートフォンで確認する。
「こんな観光地の真ん中で…。」
錦木いのりはそう呟きながら、歩を進めた。
平日だというのにそれなりににぎわう街道から、運河に沿った道へと降りる。
そこから30分ほど歩いた頃だろうか、関係者以外立ち入り禁止とかかれた鉄のドアがあった。
小さい頃同級生の男友達とこのあたりを探検したことはあったが、流石にこの先は入ることができなかった。なぜならドアは鎖と南京錠でしっかりと施錠してあったからだ。
それが今は外れている。
夕刻、今日は雲も多く、時間の割に暗く沈んだ運河の裏道。誰からも見られていないことを確認して、彼女はゆっくりとドアを開け、未だ見ぬ内部へと入っていく。
暗いレンガ造りの地下道。道沿いに張り巡らされた水路は、外からの波が入りチャプチャプと空気を含んだ音を立てている。いのりの足音と水音だけが静かに壁に響いていた。
確かに、ここまでくれば闇取引の場にはもってこいの暗さと人気のなさだ。
同じ景色が続き、結構な距離を歩いたように思える。
少し開けた場所が見えてきた。
彼女は背中のフードを深くかぶり、黙って指定の場所へと出向いた。
「…!」
思わず声を上げそうになる景観だった。高さ5メートルを超える天井。体育館の半分ほどのスペースがくりぬかれていた。何のために使われていたのかは不明だが、小樽の地下にこのような場所があったとは。
ところどころに灯されたオレンジ色の間接照明のおかげで、十分に部屋の隅まで視界が届く。
「これなら…。」
とキャリーケースを握る手に力がこもる。
だが彼女の見立ては外れ。その一角にはわずかに死角となる場所があった。そこはちょうどレンガの作りがまるでトリックアートのように凹凸を視認し辛くしていた。
そこに潜む二つの影。
「彼女が、ピースの?」
クローネから指示のあった場所に、楓と千里は待機している。到着したのはほんの5分ほど前だった。
千里は改めて楓の恰好に目をやる。クローネが用意したフード付きの黒いロングコート。千里曰くこのコートには視覚情報をジャミングする術式が書かれていて、魔術知識のないピース隊員ならばフードの隙間から覗き込んでもその顔を認識することはできないという。知人であってもフードをとらない限りは大丈夫とのことだ。
ちなみに千里にはカーキ色の同じようなフード付きローブが用意されていた。
「そのようだな。
おそらくあの身のこなし、ピースで間違いないな。」
身なりは女子大生風のそれだが、足運び一つで楓には分かった。
「しかし…。」
あちらもフードで顔を隠しているが、あの背格好で女性隊員となるとかなり絞られる。
「…まさかな。」
楓は一人思い当たる人物がいたが、前線向きの彼女がこんなミッションをするとは思えない。
程なくして、反対側のアーチの陰から一人の女性が現れた。その姿はいのりとは対照的に背の高い女性。黒く長い髪を揺らしながら、静かに近づく。大きなサングラスの位置をなおして、中央あたりで立ち止まった。いのりとの距離は5メートルほど。
「女子大生さん?
せっかくの小樽なのに、こんなところ来ても美味しいものは何にもないわよ。」
彼女が取引相手なのだろうか?会話は禁じられているはずなのに、と一瞬戸惑うが、いのりは直ぐにその意図に気づく。恐らくこれは機密保持のためだけでなく、合言葉にもなるのだ。黙っていることが取引相手であることの証明ということか。
いのりはそれに従い黙ったままキャリーケースを前に置いて見せた。相手の出方をみる。
「良い子ね。で、例の本はその中ってこと?」
そういうと彼女は上着のポケットから小箱のようなものを取り出した。
いのりはそれで確信した。『小箱』『本』ワードは揃った。彼女が取引相手で間違いない。
静かに長く、いのりは息を吐いた。
遠くからスコープ越しに見る楓。手に持つのはゴム弾が装填されているライフル。狙うは物品を渡す瞬間。彼女が目の前の人物に集中するであろうそのタイミングで撃ち込む。千里からの魔術サポートにより視界はより鮮明で正確。外れることはまずないだろうが念には念を。確実性を求める楓ならではの拘りだ。
だがそれは今回に限り仇となる。両名揃った時点で撃つべきだった。
スコープの先で、対象は思わぬ行動を取った。
事は一瞬。
一部始終を離れて見ていた千里ですら、何が起こったのかわからなかった。気づけば女性の首にはナイフがあてられ、ピース隊員は彼女の手首を捻り後ろから拘束していた。
ギラリといのりの眼が光り、彼女は口を開いた。
「この本は何?あなたは何者?」
抑揚のない声で問いかける。
ピースがひた隠しにする何か大きな存在。何でもいい、1つでもキッカケになれば。
「…あの馬鹿…!」
自然とそんな言葉を吐き、楓はスコープから目を離す。
その時だった。
楓の目の前に、黒く、大きな何かが降り立つ。
それが人の形をしていると気づいたとき、その巨大な影が物凄い勢いで迫って来た。一瞬見えたのは振り上げる左手。
反射的に身を捩るが、ライフルははね飛ばされ宙で霧散する。楓は身体を回転させ距離を取った。
自分の目を疑う。
長身の楓ですら頭を二つ三つ超える巨体。何より、肩辺りから上は獅子そのものだった。そんな怪物がふるった拳は、その一撃だけでも死を連想させる。直撃しなかったのは偶然かまぐれか。
今突然現れたこの化物は何者なのだろうか、その目的は。楓は冷静に獣の目を見た。真紅に光るその眼は、楓を見ていなかった。その視線の先。それは…。
「いのりぃ!離れろ!」
楓は叫ぶ。
いのりは突然の出来事で状況が掴めていなかった。獣のような二足歩行の物体が現れたかと思えば、誰かを襲った。あれは一体何!?その直後、自分の名を呼ぶ懐かしい声がした。
彼女は反射的にサングラスの女性を離し飛び退いた。
その判断は正しい。獣は物凄い勢いでいのりの居た場所に飛び込んできた。そしてそのまま女性を両手で抱え、仁王立つ。まるでピンチにかけつけた王子様の如く。
楓は、瞬時にライフルを召喚し構える。今度は殺傷力の高い7口径70mm対戦車用バレット。女に当たらないよう細心の注意を払って、背中を狙った。耳をつんざく銃声と共に、人間なら内臓を損傷し確実に死に至るポイントに弾丸がヒットした。だが、銃弾は化け物の皮膚に小さな傷をつけた程度で、まるで石ころでもあたったかという程度の反応をみせる。
「バカな…。」
そんな楓から目をそらし、口を開けた。
咆哮。
音の波が四方八方へと一瞬で広がる。けたたましい獣の声が地下道を駆け抜けた。ビリビリとレンガを揺らし、その音圧はすべてを押しつぶすかのように轟きわたった。
楓は気絶しそうになるのを必死に耐える。楓自身は気づいていなかったが、瞬間、髪色が銀色に変わる。同じく獣の類であるコハクがその身体を自らの妖気でもって守ったのだ。
千里は防御結界を瞬時に発動する。間一髪で意識を繋ぎ止める事が出来た。だが指先ひとつ動かすことすら出来ない。
唯一防御手段を持たなかったのはいのりだ。鼓膜から脳へと、感じたことのないような振動が襲う。
「先…輩……。」
薄れ行く視界の先に誰かの影が見えた気がした。ただそれにすがるようにして手を伸ばし、彼女はその意識を手放した。




