分岐点 1 ジョシュア視点
窓を開けて見上げた空は雲ひとつなく晴れ渡り、秋めいて涼しくなった風が肌に心地いい。
穏やかな一日がまた始まり、遠く庭のほうから楽しげな話し声が聞こえてきた。
この屋敷に暮らす人々や領民の平穏な日々を守るのが、僕の役目だ。
だからこそ僕は大貴族の嫡男として、あらゆる特権を得られているのだから。
ローズマリーをクロウリー子爵家に預けてから、今日で五日目。
そろそろ時間切れだ。
これ以上は待っていられない。
父上も以前は優秀な当主として大きな一族を率いてきた人だ。
僕の決断を責めたりはしないだろう。
上着に袖を通し、襟の位置を正してため息をひとつ。
ここまできてまだ迷っているなんて僕らしくもない。
もしかしたらと期待してしまったせいで、落胆が大きくなってしまったんだな。
この時間、執事長が父の部屋に朝の薬を持って行くはずだ。
偶然を装うために廊下を急ぎ、かなり手前の角で執事長に追いついた。
「ジョシュア様、おはようございます」
「おはよう。……父上に薬を届けに行くところ?」
「はい。先程伺ったところ、だいぶ顔色がよくなっておいででしたので、今日はお目覚めになられるかもしれませんよ」
父上はこの三日間、ときおり目を覚ましても朦朧とした状態で、すぐにまた眠ってしまうことを繰り返していた。
まともに食事もしていないので、だいぶ弱っているようだ。
「それ、朝の薬だろう? これから父上の様子を見に行こうとしていたんだ。僕が持って行くよ」
「わたくしも同行しますよ?」
「いや、最近忙しさにかまけて、ゆっくり見舞いをしていなかったから、少し父上の傍にいたいんだ。ふたりだけにさせてくれないか」
「……承知しました。ではお願いいたします」
水差しとグラス、そして薬の小瓶の載ったトレーを受け取り、背後からの視線を感じながら父上の寝室に向かう。
扉の前で足を止め、ノックをしようとして手が微かに震えていることに気付いた。
情けない。
僕はこんな弱い人間ではないはずだ。
どうせ返事はないだろうと二回ノックをしてすぐにドアノブに手をかける。
扉を開けても、父上のベッドは衝立の向こうで、天蓋から吊るされたカーテンも閉じているので何も見えない。
ただ部屋の奥の窓のカーテンが開いていたので、室内は朝の光に満ちていた。
看病のための控室になっている手前のスペースにあるテーブルにトレイを置き、グラスに水を注ぐ。
ズボンのポケットに手を入れた時に、
「誰だい? 執事長かな」
父上の声が聞こえてびくりと肩を揺らした。
起きている?
それに、以前のような穏やかな声だったような気がする。
「ジョシュアです」
ポケットの手をそっと抜いて、そのまま部屋の奥に歩みを進めた。
天蓋のカーテンは窓側だけ開かれていて、いくつも重ねた枕に寄りかかりベッドに座っている父上が見えた。
「起きて大丈夫なんですか?」
「今日は体調がいいんだ。頭もひさしぶりにすっきりしていて頭痛もない。窓を開けてくれないか」
「はい」
窓を開けると、少しひんやりとした秋の風が室内に流れ込んできた。
淀んでいた空気が、新鮮な風に洗われるようだ。
「風が気持ちいいな」
「そうですね。でも長く開けておくと冷えてしまいますよ」
「もう……秋か」
痩せた。
前はあんなに背が高く大きく見えたのに、今では頬がこけてやつれ、ひと回り小さく見える。
それでも今日は眉間に皺もなく、瞳の淀みも消えて目元が穏やかだ。
……間に合った?
後遺症なく、呪縛が解かれたのか?
「これはなんだろう」
父が手にしているのは、例のお守りだ。
深緑色の袋で、掌に収まるほど小さい。
「父上が元気になるようにと、ローズマリーが作ったお守りです。中に冒険者がよく使う幸運のお守りと、ローズマリーが願いを込めた石がはいっているそうです」
「ローズマリーが……そうか」
父上はお守りを大事そうに撫でながらしばらく考え込み、やがてゆっくりとこちらに視線を向けた。
「私はあの子にひどいことを言ってしまったんだ。なんであんなことを言ったのか、自分でもよくわからない。大事な娘なのに傷つけて……嫌われてしまったかもしれない」
ああ……昔の父上に戻っている。
公爵にふさわしいと思われるように、外では気を張り、感情を表に出さないようにしていたせいで冷ややかな人だと思われることも多かった。
そのくせ身内には甘く、特にローズマリーのことはとても大切にしていた。
肩を落として俯いてしまって、わかりやすく落ち込んでいる姿など何年ぶりに見ただろう。
公爵になってからは年を追うごとに忙しくなり、家族の前でも仮面をはずせなくなっていた。
「そんなことはないですよ。嫌っていたらお守りを作ったりはしません」
「そうかな」
「そうですよ。今は出かけていますけど、遅くとも午後には戻りますから、父上からお礼を言ってあげてください。きっと喜びますよ」
「そうだね。……おまえにも苦労をかけてすまない。公爵の仕事を全て押し付けてしまう形になってしまった」
「病気ですからしかたありませんよ。薬を持ってきたんです」
「ジョシュア」
控えの部屋に戻ろうと踵を返したら、父上に呼び止められた。
「ガスターは、まだ訪ねてきているのか?」
ガスター……あいつの名前がここで出るとは。
まさか、本当に父上がシェリル襲撃の指示を?
「一度訪ねてきたようですが、敷地内に入れずに追い返しました」
「そうか。今後もそうしてくれ。まったくあの男は……」
ガスターとの関係を聞いても平気だろうか。
ようやく本来の父上が戻ってきたというのに、ここで刺激しては体調が悪くなるかもしれない。
「私はあの頃からおかしかったんだろうな。あの男は私の指示に従わずに勝手なことをしたというのに、いくら公爵になったばかりの頃に助けてもらったからといって、あの男を守ろうとするなんて」
「父上?」
自分から話してくれるとは。
「あの日私は、ローズマリーが好んで使っていた馬車に護衛の騎士をふたり付けるように指示をしていた」
「は? そこまで細かく指示を出していたのに、あの男は無視したんですか?」
「身分や家柄に強いこだわりを持つ男だったからね、たかだか男爵家の娘が、ローズマリーの馬車に乗るというのは許せなかったのかもしれない」
確かに公爵家と男爵家では大きな差がある。
我が家の使用人は、下働きの者を除けば全員貴族の家の出身だ。
執事や侍女長は全て伯爵家の人間で、男爵家の人間では余程優秀でなければ役職には就けない。
ガスターも伯爵家の三男で、公爵家の執事になったことにプライドを持っていた。
おそらくシェリルだけではなく、クロウリーが父上の友人の枠にいるのも嫌だったんだろう。
使用人の一部が、クロウリーは成金なのに特別扱いされていると話しているのは、僕もちらっと聞いたことがある。
でもそれも過去のことだ。
その後、彼らがギルモアの親戚だったことが判明し、クロウリーが子爵になってからは、父上は先見の明があったんだと多くの使用人が考えを変えた。
シェリルに対しても、準男爵になった天才少女はローズマリーの友人にふさわしいと言われている。
母上が茶会から帰るたびに、ご機嫌でシェリルの話をすればそうなるよな。
「ガスターは王族派の集まりに同行したことが何度もある。ピアソン伯爵とも顔見知りだった」
「……あの男が仕組んだと?」
「屋敷を去る際に、あの娘のせいだと憎々しげに話していたと聞いている」
個人的な逆恨みか。
父上が指示をしていないのだとしたら、どうしてシェリルを襲撃するのだろうと考えてはいたんだ。
王弟殿下がどうかとか、父上の思惑がどうかとか、あの馬鹿野郎はそこまで考える頭もなかったのか。
そこまで愚かな人間を我が家は執事にしていたのか?
いったい誰の紹介であの男を雇うことになったのか調査しなくては。
「いくらなんでも子供に逆恨みなど。むしろあの子は、あの場で私とローズマリーの仲を心配して間に立ってくれたんだよ。ガスターもその場にいたはずなのに。王弟殿下に歯向かう勇気があの男にあるわけもなく……一番弱い相手を標的にしたんだろうな」
最低最悪だ。




