第464話 やっぱ可愛いカオリ
少女は、両手でなにか不思議な印を結んで数秒間目を閉じ、精神を集中していたようだったが……その端正な顔をきゅっと上げて、黒曜石のような瞳を、決然と壁の上に向けた。
「はあっ!」
幼い声に鋭い気合を乗せて、目にも止まらぬ速度の助走をつけて跳ぶ。
驚いたことに、少女は板壁の頂点に手を掛けることもなく……軽々とその障害を跳び越えた。かさりとかすかな音をさせただけの着地はまるで舞踊のように美しく、そのたおやかな身のこなしは、子供のものとは思えない一種の色気のようなものを帯びている。
俺と少年は、その美しい姿を惚れ惚れと見つめるだけ。やがて小さな息を吐いた少女が俺たちに気付き、その面を輝かせる。
「お父様っ!」
そう、目の前で雑技団まがいの信じがたい体術を披露する美しき少女忍者は、俺の長女である、カオリだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「もう、お父様。おいでになるのでしたら、先触れをよこしてくださればよろしかったですのに。そしたらずんだ餅と渋茶を用意して、可愛い小袖を着てお出迎えできたのです」
すっかり口の利き方も年頃の娘みたいになったカオリが、少しだけ口をとがらせる。見た目は五歳か、せいぜい七歳くらいにしか見えないけれど、ふとのぞかせるコケティッシュな雰囲気に、少しどきりとする俺だ。
「ごめんごめん。急に予定が空いたんだよ。そしたら無性に、カオリたちの顔が見たくなっちゃったんだ」
「ふふっ、私なんて、お母様のついででしょう? でも嬉しいです、ホノカやカリンもきっと、喜ぶでしょうね」
思春期っぽい生意気なところまで出てきたみたいで、本当に十代の少女と話しているような錯覚に陥って……幼い見た目とのアンバランスに戸惑うばかりだ。
「ああ、アゲハ。お父様のお世話は私が引き受けますから、ルリのところへ行っておいでなさい。きっと、貴女を待っているはずですよ」
「はいっ、ありがとうございます。では、お言葉に甘えまして」
そんな部下へのさりげない気遣いも、すっかり板についた賢い愛娘だ。アヤカさんの厳しくも優しい族長教育の成果もあるのだろうけれど、何しろこの子が生まれつき聡明なのだ……と思ってしまうのは、決して俺の親バカのせいだけではないよな。
「だけど、俺なんかに構ってていいのか? カオリは修行中だっただろう」
「そうですね。ですけどお父様と一緒に過ごすより大事なことは、他にありませんから」
くうっ、我が子が可愛くて、萌え死にそうだ。いつまでもずっと、俺だけの娘でいて欲しい。遠い将来、きっとこの子が結婚するとか言い出した時には、俺の鉄拳が婿殿の顔面を撃ち抜くことだろう。
「それにしてもカオリ、ずいぶん高くまで跳べるようになったんだなあ。父さんは驚いたよ」
「ええ、毎日毎日、たゆまず鍛えていますから。それに……大叔母様に『魔力の道』を広げていただいてから、闇の敏捷術が一気に強くなったんです」
魔力の道だって? ああ、闇の族長交代式で、アヤカさんとカオリ、そして俺の顔に、あのおかしな塗料で描かれた、不思議文字のことだな。
なんだかあの儀式は魔力の効率を上げる効果があるのだそうで、それは魔力クラスをひとつ上げるのに匹敵するとかしないとか……魔法が使えない俺には何のご利益もない儀式だったが、カオリはその効果を実感しているらしい。
もともとSクラスであった彼女は、そうなると今はSSクラス相当の闇魔法使いになっているってことだ。その自己バフ魔法で己の敏捷性を数段高めて……そうでもなければ、こんな小さく可憐な娘が、身長の三倍もあろうかという高い板塀を何事もないように飛び越える荒技を実現できるわけもない。
「跡継ぎにしか許されぬ特典だとお母様から聞きましたけど、本当に素晴らしい効き目です。魔力ではホノカやカリンに勝てませんけど……その背中を守ってあげるくらいの力は身につけておきませんと、姉の立場がありませんからね」
いたずらっぽく笑って口角をキュッと上げるカオリの表情は、もうすっかりお姉さんのものだ。
妹たちに魔力で劣ることに、いっときは深く悩んでいた彼女だ。「魔力の道」で能力をブーストさせたとて、ホノカはともかくカリンの潜在能力には及ばないだろう。だが賢いカオリは自分の進むべき道をしっかりと見極めている。闇魔法や戦闘能力だけで競うのではなく、他の道……一族の者たちをまとめて、妹たちが十全にその力を発揮できるよう環境を整え、支えてやるのだと。
「お父様、ホノカたちの様子も気になりますよね。一緒に見に行きましょう!」
朗らかに俺を誘うカオリがやけに可愛く見えて、思わず漆黒の髪に五指を突っ込んで、ぐりぐりと撫で回してしまう。美しく賢い我が愛娘は微笑みながら目を閉じ、まるで喉を鳴らす家猫のように気持ちよさそうな表情で、いつまでも俺の指が髪をもてあそぶに任せていた。




