第457話 精霊王との対決
母の言葉に応え、ファニーが背筋をきゅっと伸ばす。まぶたを閉じて両手を広げるや、その唇から、俺には理解できない森人の古代語が、不思議な旋律に乗せて紡ぎ出される。その姿はまるで聖職者でもあるように清冽で高貴で……いつもヴィーたちと一緒に、きゃあきゃあと騒ぎながら走り回っている姿とは、まったく違う生き物に見える。
精霊王に呼び掛けているのであろう不思議な歌が十分以上続いても、少なくとも俺の目には何も変化が映らない。まあもっとも、ここにいる者の中で、精霊王の姿が見えているのはファニーとフィオだけだし、何が起こっているのかわかんないのは、俺だけじゃないのだが。
契約儀式の鍵を握るのは、やはり精霊術に長けたフィオだ。精霊王の反応を観察し、ファニーに適切な指示を与え、ガブリエラの「拍手」を使うタイミングを計ることは、彼女にしかできない。そのフィオは、さっきからこめかみに汗を光らせ、ライトグリーンの目を大きく見開いている。ファニーと精霊王の様子をうかがうことに、全集中力を費やしているのだ。そして、その唇が動く。
(ミカエラ様っ)
彼女がささやくと、ミカエラが心得たように、乳母が抱いているガブリエラににっこりと微笑みかけ、拍手をする真似を二回ばかり、やって見せる。
「あぶ~」
母親の笑顔を無邪気に受け止めたガブリエラが、意味不明の声を発して、その小さな両手を、小さく触れ合わせる。一回、二回、三回と、ぺちぺちという小さな音を立てて、我が子の「拍手」が続いた、その時。
「おおっ、あれは!」
驚きの声は、くっころイレーネさんのものか。そう、彼女が指さしている「もの」が、今は俺にも見える。
それは、長い髪と立派なひげを蓄えた、人間でいえば壮年の男。その上半身にはたくましい筋肉が盛り上がり、太い腕を胸の前で組んでいる。だが異様なのは、その下半身がまるで煙のように白く溶けてぼやけていて……そんな姿が宙にふわふわと浮いていることなのだ。これが、精霊王スヴァローグ……元世界では神様だった、超高位の精霊に違いない。
さっきまでファニーとフィオにしか見えていなかったその姿が突然見えるようになったのは、精霊王と契約せんとするファニーのアプローチに、相手がある程度応えたということなのだろう。そしてそこには、やはりガブリエラのスキルである「拍手」の後押しがある。もう一歩届かなかった精霊王との距離を、妹の不思議な力が一気に詰めてくれたのだ。
(幼子よ、わしに何を望むか)
精霊王の声が聞こえる。いや正確には、声ではないのだろう。なにか不思議な波動のようなものが伝わってきて、身体の中から声が聞こえてくる、そういう感じなんだ。
「あのね、おじさま。わたしと『けいやく』してほしいの」
(そうか、弱き人間が、わしとの契約を望むか。そなたはわしの力を使って、何を為そうというのか? 大陸に覇を唱えようとでもしているのか?)
「はを、となえる? ああ、ほかのくにとせんそうするってことか。わたしはそんなの、きょうみないよ?」
(ではお主は、何のためにわしとの契約を求めるのだ)
「うん? 『けいやく』って、おともだちになるってことでしょ? わたしはおじさまがすきだから、おともだちになりたいの」
(何だと?)
毒を抜かれたような表情になった精霊王だが、すぐにその眉を厳しく改める。
(ふざけるものではない。わしの力は、大いなる目的のために振るわれるべきもの)
「おともだちをいっぱいふやすのが、ふぁにーのもくてきだよ。それじゃあ、だめ?」
スヴァローグが露骨にかけてくる圧力を感じていないかのように、ファニーは無邪気な答えを返す。対する精霊王はにいっと笑うが、その笑いは俺たちから見ると、ただおっかないだけの笑いだ。
(面白い。そのような甘っちょろい考えでわしを従えられるか、試してみるがよい!)
ひときわ腹に響く声とともに、精霊王の身体が赤々と激しく燃え上がる。思わず俺も、身体を固くしてしまう。その時、俺の隣から小さな影が飛び出すと、もっと小さなファニーをかばうように、ぎゅっと抱きしめた。
「ははうえ?」
「も、もうよい。精霊術など覚えずとも、一生魔法が使えずとも、構わぬ。お前が私のもとからいなくなるかもしれぬと思うと、もう耐えられないのだ。ファニー、これ以上危険なことを、しないでよいのだ……」
ベアトの豪奢な金髪は乱れ、透明な流れが白皙の頬を伝う。常に私情より国民のことを考えて判断してきた彼女も、娘がこんな強大な力の前でも健気に身体を張る姿を見ては、もはやあふれる感情に抗えなかったのだろう。
だけど、俺たちの娘は、その母親よりも、大物であったようだ。優しくベアトの身体を押し戻すと、明るいトーンで宣言した。
「ふぁにーは、やるよ。ははうえがのぞむとおり、わたしはじょおうになる。そのためにせいれいじゅつがひつようなんだったら、わたしはおじさまのしれんをうける。だいじょうぶ、みためはこわいけど、おじさまはいいひと」
まるで姉が妹をさとすような調子で、母親に決心を告げるファニー。なおも娘の身体を放さないベアトを、俺は背中から抱きしめて、ゆっくりと引き離す。おそらく、ファニーの身に危険が及ぶことはないだろう。スヴァローグがいい「人」なんだかどうかは疑問だが、奴だって居心地がいいからこそファニーを宿主に選んでいるのだ。簡単に宿主を害するようなことは、しないはずだ……たぶん。
「うん。みててね、ははうえ、ちちうえ!」
幼いけれど強い力がこもった声が、響き渡った。




