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Let's 脱獄!(前編)

 虫の音が微かに聞こえる月夜の森。その静寂を破るように、眩い光の玉が地面へと降り立った。


「ふむ、着いたようだな。久しぶりの長距離空間移動で少々手こずってしまった。……やはり日頃から運動はしておくべきだな」


 光が消えると、そこには一人の男が立っていた。


 魔王は人間へと姿を変え、街にほど近い森へと転移してきたのだ。


 綺麗に整えられた白髪に、端正な顔立ち。すらりとした体格でありながら、どこか威厳を感じさせる佇まい。いわゆる『イケオジ』というやつだった。


 ただ一つ、左の目元にだけ、かつての魔王の肌を思わせる漆黒の痣が残されていた。


「さて、クエストを受けたいのだが……どこで受ければよいのやら」


 魔王は顎に手を当て、しばし考え込む。


「まあ、街へ行けば何か分かるだろう」


 そう呟くと、魔王は遠くに見える街の明かりを目指し、ゆっくりと歩き出した。


 夜の街にはところどころ明かりが灯っていたものの、多くの家々は眠りについているかのように暗く静まり返っていた。


「人間は闇を恐れ、光を好むと聞いていたのだが……意外と暗いものだな。……あっ」


 魔王は何かを思い出したように、ぴたりと足を止めた。


「タブレット、エミアくんに預けたままだった……。チョッピーくんに聞いてみようと思ったのに……」


 魔王は、まるでお使いの途中で途方に暮れる子供のように、広場で呆然と立ち尽くしていた。


 しかし、そんな魔王の耳に、どこからともなく人間たちの談笑する声が聞こえてきた。


「おお、まだ活動している人間どもがいるではないか。助かった……」


 魔王は声のする方向へ、とぼとぼと歩き出した。


 きょろきょろと辺りを見渡しながら、不安げに歩くその姿は、初めて訪れた街で道に迷った観光客そのものだった。


 声を頼りに歩いていくと、やがて賑やかな建物が見えてきた。


 明るく照らされた窓には、談笑する人間たちの影がいくつも揺れていた。


「ここだな。戦の宴でも催しているのだろうか」


 魔王が入口の看板を見上げると、そこにはエールを思わせるジョッキのマークがでかでかと掲げられていた。


「クエストについて人間どもに尋ねるついでに、やつらの武勇伝に耳を傾けるのもよかろう」


 魔王は階段を上り、入口の扉に手をかけると、ドアノブをぐいと引いた。


 しかし、扉はびくともしない。


「む……?」


 不思議に思った魔王は、さらに力を込めて扉を引く。ところが、その扉は押して開けるものだった。


 思わず後ろへ体重をかけすぎた魔王は、ドアノブから手を滑らせ、そのまま勢いよく階段を転げ落ちた。


 ゴンッ! ゴロゴロゴロッ!


 その鈍い音は、建物の中にまで響き渡った。


「……おい、今の音なんだ?」


「さあ? 酔っ払いでも転んだんじゃねえか?」


 そんな会話が聞こえてくる中、魔王はゆっくりと身体を起こした。


「くっ、人間どもの罠であったか……。許せぬ……」


 何事もなかったかのように起き上がると、魔王は扉を押し開け、建物の中へと足を踏み入れた。


 店内では、ジョッキを掲げて笑い合う者、顔を赤くして言い争う者、料理を頬張りながら談笑する者など、思い思いに夜を楽しむ人間たちで賑わっていた。


「よほどの大勝利だったようだな。その相手が魔物ちゃん達だったとしたら、ただでは済まさぬぞ」


 魔王は場違いなほど険しい表情を浮かべ、テーブルの間を縫うように奥へと進んだ。


「あら、そこのダンディな殿方。よろしかったら私たちと飲みませんか?」


 ジョッキを手にした二人組の女性が、魔王に声をかけてきた。


「飲む? ふむ、この飲み物を余と共に飲みたいと申すか」


 魔王は女性の手にしたエールジョッキに目を向けながら、落ち着き払った口調で呟いた。


「……余?」


 女性の一人が不思議そうに首を傾げる。


 しかし、その時だった。


 魔王の脳裏に、ある嫌な予感がよぎった。


(待てよ……これはリヴェアくんのように、余をセクハラ扱いするための罠ではないか!?)


 魔王の表情がみるみる険しくなっていく。もはや目の前の魅力的な女性たちなど、眼中になかった。


「えっと……あの……失礼します~」


 女性たちは魔王の険しい表情に圧倒され、そそくさとその場を離れた。


 その姿を目にした魔王は、ふと我に返る。


「あっ……すまぬ! 決して嫌というわけではないのだ! 余と飲もうではないか……!」


 必死の呼び止めもむなしく、女性たちは振り返ることなく店の奥へと消えていった。


 魔王は伸ばしかけた手をゆっくりと下ろし、がっくりと肩を落とした。


 そんな魔王のそばに、一人のウェイターが歩み寄ってきた。


「魔王様。またセクハラしているのですか?」


 その人物は、身体のラインに沿った黒いベストに白いシャツを合わせた、どこか妖艶な雰囲気を漂わせる女性だった。


 目の下には、ほくろを思わせる小さな漆黒の痣があった。


「リ、リヴェアくん!?」


 魔王は驚きに目を見開き、彼女をまじまじと見つめた。


「おっ! リヴェアちゃん! 今日も美人だねぇ!」


「リヴェアちゃーん! こっちにもお酒おねがーい!」


 周囲の客たちは次々と彼女の名前を呼び、すっかりその愛嬌に心を奪われているようだった。


「仕方のない人間どもね……。はぁーい! いまいきまぁーす!」


 小さく本音を漏らしたかと思えば、次の瞬間には愛嬌たっぷりの声で返事をする。


 その姿は、普段から魔王を厳しく追及する彼女とは似ても似つかなかった。


(えっ……余にはあんな笑顔、一度も見せてくれたことないよね?)


 魔王が呆然としていると、リヴェアはそっと顔を近づけ、周囲に聞こえないほどの小声で囁いた。


「魔王様。見てのとおり今忙しいので、空いた席でお待ちください」


 そう事務的に案内すると、彼女は胸元に挟んでいた伝票を取り出した。


「お待たせしましたぁ~!」


 魔王が見たこともないような眩い笑顔を浮かべ、リヴェアは客たちのもとへと駆け寄っていった。


「空いた席……あるの?」


 魔王はリヴェアを取り囲む客たちや、行き交う人間たちに視界を遮られ、空いた席を見つけられずに立ち尽くしていた。


 すると、すぐそばにいた一人の男性が、見かねて声をかけてきた。


「旅人さんかい? あっちの奥、席が空いてるから、とりあえずそこに座んなよ」


 男性が指さした先には、窓際にぽつんと置かれた一人用の席があった。


「ああ……すまぬな……」


 魔王はどこか気の抜けた声で礼を言うと、賑わう人間たちを避けながら、その席へと向かった。


 ようやく腰を下ろした魔王は、目の前のテーブルをじっと見つめた。


 しかし、そこには何も置かれていない。


(……何も出てこぬな。座るだけでは駄目なのか?)


 魔王はしばらく考え込んだものの、どうすればよいのか見当もつかなかった。


「リヴェアくんが来てくれるのを待つとするか……」


 寂しそうにそう呟いた、その時だった。


「いらっしゃいませ! ご注文は何になさいますか?」


 別の女性ウェイターが歩み寄り、魔王の前に一枚のメニュー表を差し出した。


「これは……」


「とりあえずエールにいたしますか? 皆様だいたい、お料理もご一緒に注文されますよ。おすすめはこちらの『羊肉のサイコロステーキ』になります!」


 魔王には、人間界の料理の名前も、どれを選べばよいのかもさっぱり分からなかった。


(詳しく聞いてみるか……。いや、ここで色々と問いただしてしまえば、リヴェアくんのように、また理不尽なハラスメント容疑をかけられるやもしれん……)


 魔王の表情が再び険しくなる。


 しかし、注文を待つウェイターは先ほどの女性たちとは違い、笑顔を崩すことなく魔王の返答を待っていた。


「……では、そのおすすめとやらを頼む。飲み物も、皆が飲んでいるものでよい」


「エールと羊肉のサイコロステーキですね! かしこまりましたー!」


 その明るい返事に、魔王はほっと胸をなで下ろした。


 そして、小さく胸を張る。


 どうやら、人間界での第一関門を突破したつもりらしい。


「うむ、これでよいのであろう。さて、人間どもの嗜むご馳走の具合はいかほどなのやら」


 やがて魔王のもとに、巨大なジョッキになみなみと注がれたエールが運ばれてきた。続いて、香ばしい匂いとともに湯気を立てるステーキがテーブルに置かれる。


「お待ちどうさま! エールは大ジョッキにしておきました! こちらが羊肉のサイコロステーキになります!」


 魔王は目の前に並べられた料理の迫力に、思わず目を見開いた。


(こ、これは……! 喉の渇きを癒したいという欲求をかき立てる泡! 見ただけで柔らかくジューシーだと分かる絶妙な焼き加減!)


 魔王はごくりと唾を飲み込み、目の前の料理をじっと見つめた。


 しかし、ふと我に返ると、その表情は再び険しくなった。


(いや、これも人間どもの罠に違いない。魅力的な外見で誘惑し、毒をもって制圧する。われら魔族も用いる常套手段ではないか……!)


 いつの間にか前のめりになっていた魔王は、慌てて背筋を伸ばし、料理を見下ろした。


(しかし、魔王として皆を守るためにも、その卑劣な罠について知る必要がある。ゆえに余は屈したりなどせぬ!)


 魔王はステーキを睨みつけながら、ゆっくりとナイフとフォークを手に取った。


 そして、一切れを慎重に切り分けると、恐る恐る口へと運んだ。


 しばらく肉を噛みしめていた魔王は、その目にじわりと涙を浮かべた。


(なんだこれは……!)


 背筋を伸ばし、姿勢を正して座り続ける姿とは裏腹に、魔王の心は舞い踊っていた。


(口に入れた瞬間に広がる香ばしさ! 噛むほどに溢れ出す肉汁! そして、ほろほろとほどけていく柔らかな肉……!)


 頬を伝う涙にも気づかず、魔王は次々と肉を口へ運んでいく。


 そして、その手は無意識のうちに、傍らに置かれたジョッキへと伸びた。


 大きすぎる取っ手に一度は手を滑らせたものの、魔王はすぐに握り直し、勢いよくジョッキを口元へ運んだ。


 エールが喉を通った瞬間、魔王は全身に電撃が走ったかのような衝撃を覚え、目を大きく見開いた。


(このほどよい苦み……! 肉の脂をすっと洗い流し、再び食欲を呼び覚ます爽快なのど越し……!)


(この者たちの奏でるハーモニーが、今、余の胃袋で宴を催しておる……!!)


 魔王は涙を流しながらも、一言も言葉を発することなく、ただひたすらに食べて飲んだ。


 ふと気が付くと、目の前の料理は残りわずかとなっていた。


(……他の料理も、念のため確かめるとしよう)


 注文の仕方をすっかり覚え、文字どおり味を占めた魔王は、次々と料理を注文した。


(調査を続けるには、エールも必要だな……)


 合間合間にエールを追加注文しながら、運ばれてくる料理を目にもとまらぬ速さで平らげていく。


 その凄まじい食べっぷりに、厨房のスタッフもウェイターも、思わず目を奪われていた。


 やがてテーブルには、空になった皿とジョッキが山のように積み上がっていた。


 魔王は背筋を伸ばしたまま、満足げに小さくげっぷをした。


「ひとまずここは安全のようだな」


 魔王は自信ありげに胸を張った。しかし、何かを思い出したかのように、ぴたりと動きを止める。


「そういえば……リヴェアくん、遅いな……」


 店の奥に目を向けるも、相変わらず彼女を取り囲む人間たちの姿があった。


 魔王は諦めたようにため息をつく。


「ひとまずここの人間どもはリヴェアくんに任せて、余は休むとしよう」


 席を立ち上がった魔王は、そのまま出入口へと向かった。


 しかし、その時だった。


 店の用心棒らしき屈強な男二人が、魔王の行く手を塞いだ。


「余に何か用でも?」


 魔王は少しも怯むことなく、毅然とした態度で男たちを見上げた。


「代金は?」


 男の一人が、そう言いながら魔王に詰め寄る。


「代金?」


 魔王は、まるで聞き慣れない言葉を耳にしたかのように、不思議そうな表情で問い返した。


「余はまお……彼女たちに命じて食事を済ませたに過ぎないであろう。おかしなことを申すな」


 危うく正体を口走りそうになるも、あと一歩のところで踏みとどまった。


 しかし次の瞬間、魔王は二人の大男に両肩を抱えられ、軽々と宙に浮かされた。


「なんの真似だ!」


「無銭飲食」


 男はそうつぶやくと、宙で情けなく足をばたつかせる魔王を、店の奥へと運んでいった。


(振りほどくのは容易い。しかし、ここで力を見せれば正体が露見してしまう……!)


(それに、何かの誤解であろう。話せば分かるはずだ……!)


 店中の客とスタッフが、その異様な光景を見つめていた。


 人間たちに囲まれていたリヴェアも異変に気づき、人垣の隙間から顔を覗かせた。


 そして、運ばれていく魔王の姿を目にすると、一瞬目を丸くした。


 しかし、すぐに口元を押さえ、肩を小刻みに震わせ始めた。


 店の裏口へ連れていかれた魔王は、あれよあれよという間に幾重ものロープで縛り上げられていた。


 それでも、魔王は依然として毅然とした態度を崩さない。


 そして、そのまま詰め込まれるように馬車へと乗せられた。


「愚か者め! ただではおかぬぞ!」


 馬車の小窓から外へ向かって叫ぶ魔王。


「愚か者はお前だ! ただ飯野郎!」


 御者は窓枠を叩きながら怒鳴り返した。


 やがて魔王は、街の牢獄へと放り込まれた。


 手首には頑丈な手錠がかけられ、背後では重い鉄扉がガシャンと音を立てて閉じられた。


「極刑にならないように、せいぜい祈るんだな」


 看守は牢に鍵をかけながらあざ笑うと、その場を後にした。


「くっ、なんなんだここは。人間界の寝床か? こんなお粗末な場所でよく夜を明かせるものだ」


 魔王は手錠をかけられたまま、床や壁を確かめるように叩いた。


 そして、寝心地を確かめるように床へ腰を下ろす。


「むう……。寝具すら用意されておらぬとは、人間どものもてなしも大したことはないな」


 その時、牢の前の空間がわずかに歪み、リヴェアが姿を現した。


「リヴェアくん、遅かったではないか」


 魔王は何事もなかったかのように、冷静な口調で語りかける。


「魔王様……。今度は何のハラスメントですか?」


 彼女の冷ややかな眼差しが、魔王へと向けられる。


「リヴェアくん、これはどういうことなんだ。人間どもは余に、こんなところで寝ろと申しておるのか!」


 的外れな物言いに、リヴェアは呆れかえった。


「魔王様は罪を犯したため、身柄を拘束されたのです。この街では金銭に関する罪は重罪に当たります」


 リヴェアはいたって冷静に説明を続ける。


「おそらく明日にでも、首をはねられるか、湖に捨てられるでしょうね」


「なっ! 食事に対して対価を求められると申すのか!? なんと生きにくい世界なのだ!」


 魔王は憤慨した。しかし、最後の言葉が引っかかったのか、ふと首をかしげる。


「……え、捨てられるってどゆこと?」


「魔王様もよく、魔王城に挑んできた人間に対して、『その罪、その体ごと余が灰に変えてやろう!』とか言いながら罰しておられるでしょう?」


 リヴェアは淡々と告げた。


「それと同じことを、魔王様はされようとしているのです」


 魔王は呆然とした。


「え、余、灰にされるの?」


 その姿勢は、まるで背骨を抜かれたかのように情けなく崩れ落ちた。


「寝床の心配をされている場合ではないかと」


 そんな魔王の様子を見ながらも、リヴェアは冷静な口調を崩さない。


「ここは魔王様のお力で、牢獄ごと破壊してしまわれてはいかがでしょう」


「そ、そうだな! 正体が露見するなどと言っておる場合ではない! 早々にこんなところから出ていくとしよう!」


 魔王は慌てて立ち上がると、手錠をガチャガチャと鳴らしながら、牢の中を右往左往し始めた。


 先ほどまでの威厳など、もはや見る影もなかった。


 しかしその時、牢の片隅で何かがごそごそと動いた。


「うるさいなぁ、寝かせてくれよ」


 そこには、人間の男性が気だるげな表情で寝そべっていた。


 牢の隅に積まれた古びた布の下で眠っていたため、脱獄のことで頭がいっぱいだった二人は、その存在にまったく気づいていなかった。


(に、人間……! 話を聞かれたか!?)


 魔王とリヴェアは、思わず顔を見合わせた。


「この人間……始末しますか?」


 リヴェアは魔王のそばへ歩み寄り、小声でささやいた。


「いや、寝ぼけているようにも見える。様子を見るとしよう」


 男性が騒ぎ立てる様子はない。二人は警戒しながら、黙ってその様子をうかがった。


「釈放じゃないのなら、とっとと出ていってくれねえかな」


 男性はリヴェアの方へ寝返りを打ちながら、不満げにつぶやいた。


 しかし、その顔が見えた瞬間、リヴェアの表情が変わった。


「この男は……!」

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