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悪役貴族、剣を捨てて法と金で無双する~破滅予定なので、契約魔法で勇者を差し押さえ、ブラック領地をホワイト企業に再生します~  作者: 他力本願寺


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9/11

第9話 敵兵が腹を空かせて「寝返り」を希望してきました。雇い入れの列はこちらです。

期限当日。正午。

 アインホルン領とボークス領の境界にある平原には、奇妙な対比が生まれていた。


 片や、総勢三百のボークス男爵家・精鋭騎士団。

 彼らは本来なら威風堂々と行進してくるはずだった。だが、今の彼らにその面影はない。

 馬は痩せこけ、騎士たちの顔色は土気色。足取りは重く、剣を握る手すら震えている。

 無理もない。この二日間、彼らはまともな食事にありついていないのだから。


 対する我々は、私とセバスチャン、そしてルーカス率いる二十名の警備隊のみ。

 人数差は十倍以上。

 だが、私たちの前には、戦場には似つかわしくない「巨大な寸胴鍋」が五つ、並べられていた。


「……来たか」


 私は鍋の蓋を開けた。

 途端に、湯気と共に濃厚な香りが広がる。

 たっぷりの野菜と肉を煮込み、香辛料を効かせた特製の煮込み料理だ。さらに隣のテーブルには、焼きたての白いパンが山のように積まれている。


 風が、その「暴力的なまでの食欲の香り」を敵陣へと運んでいく。


「なっ、なんだ、あの匂いは……!」

「に、肉だ……肉の匂いだ……」

「パン……うまそう……」


 敵兵たちの足が止まる。

 彼らの目が、私ではなく、鍋に釘付けになる。

 喉を鳴らす音が、ここまではっきりと聞こえてきた。


「ええい、怯むな! 敵はたったの二十人だぞ!」


 先頭に立つ騎士団長グラハムが、掠れた声で檄を飛ばす。

 彼もまた、頬がこけ、自慢の軍服がぶかぶかに緩んでいた。


「突撃! あの生意気なアインホルンを捕らえろ! 奪った食料で腹いっぱい食わせてやる!」


 グラハムが剣を抜き、馬に拍車をかける。

 だが、馬が動かない。空腹で走る気力がないのだ。

 部下たちも、命令に従って武器を構えようとするが、その切っ先はふらふらと頼りない。


「……哀れだな」


 私は呟き、一歩前へ出た。

 拡声の魔道具を使い、敵兵全員に聞こえるように声を張り上げる。


「ようこそ、ボークス家の騎士諸君! お腹は空いていないかね?」


「き、貴様……! 我らを愚弄するか!」


「事実を言ったまでだ。……君たちの主君、ボークス男爵は、君たちに十分な食事を与えていないようだな。兵に腹を空かせるなど、指揮官として、いや雇い主として失格ではないか?」


 私の言葉に、敵兵たちの動揺が広がる。

 図星だからだ。

 彼らは忠義で戦っているのではない。生活のために剣を握っている。その生活の基盤である「食」が満たされないなら、戦う理由などない。


「そこでだ。私は君たちに提案がある」


 私は新しい羊皮紙――『雇用契約書』の束を取り出した。


「我がアインホルン領では、現在、新規の働き手を募集している。

 条件は以下の通りだ。

 一、一日三食の食事保証。もちろん、今この瞬間からだ。

 一、七日に二日は必ず休ませる。交代番で回す。

 一、給金は現在の二割増し。刻限を超えた働きには追加の報酬もつく」


 戦場が静まり返った。

 敵兵たちが、信じられないものを見る目で私を見る。


「さらに! 今ここで『鞍替え』を決断した者には、契約祝い金として、この煮込みとパンを好きなだけ振る舞おう!」


 その瞬間、敵陣から「おおお……!」というどよめきが起きた。

 グラハムが顔を真っ赤にして叫ぶ。


「き、聞くな! 敵の甘言だ! 誇り高き騎士が、金と食い物で寝返るなど……!」


「誇りで腹が膨れるか!」


 敵陣の中から、誰かの叫び声が上がった。

 それをきっかけに、ダムが決壊するように、兵士たちが武器を捨てて走り出した。


「お、俺は行くぞ! もう二日も水しか飲んでねぇんだ!」

「俺もだ! 家族にも仕送りができてねぇ!」

「アインホルン領主様! 俺を雇ってくれぇぇぇ!」


 一人、また一人。

 雪崩を打ってこちらへ押し寄せてくる。殺気はない。あるのは、純粋な空腹と、生への渇望だけだ。


「よろしい! 慌てるな、煮込みは逃げん!」


 私はルーカスたちに指示を出した。


「雇い入れの列はこちらだ! 名前と特技を書いて、契約書に署名と拇印を!」


 ルーカスが一歩前に出て、低い声で威圧する。


「武器は全部置いていけ。列を乱したり、暴れたりする奴は叩き出すぞ。……あとで逃げたら契約違反だ。こっちは契約庁へ申立てる。執行が入るからな」


「は、はいっ!」


 戦場は一瞬にして、巨大な「雇い入れの場」へと変貌した。

 長机の前には、武器と鎧を脱ぎ捨てた元・騎士たちの長蛇の列ができる。


「次は君か。特技は?」

「は、はい! 土木工事が得意です! 力仕事なら任せてください!」

「よし、雇う。ダンジョンの拡張工事に回ってもらおう。……次!」

「計算ができます! 物資の管理係を!」

「よし、雇う。倉庫番を頼む。……次!」


 署名を終えた者たちは、涙を流しながら煮込み料理を頬張っている。


「うめぇ……! 生き返る……!」

「あったけぇ……肉が入ってるぞ……!」

「アインホルン様、万歳……!」


 その光景を見て、ルーカスが呆れたように笑った。


「あんた、本当に無茶苦茶だな。戦争しに来た相手を、その場で雇っちまうなんて」

「何を言う。彼らは優秀な働き手だ。殺してしまえばただの死体だが、雇えば富を生む。どちらが得か、考えるまでもないだろう?」


 私は悠然と黒茶を一口含んだ。


 一方、取り残されたグラハムの周りには、もう数名の側近しか残っていなかった。

 三百の軍勢は、剣を交えることなく消滅し、私の領地の「働き手」へと姿を変えたのだ。

 煮込みの湯気の向こうで、彼らの顔色が少しずつ人間の色に戻っていくのが見えた。


「き、貴様ぁぁぁ……! 卑怯だぞアインホルン! 騎士道精神はないのか!」


 グラハムが涙目で叫ぶ。

 私は彼を冷ややかに見下ろした。


「騎士道? ……古いな」


 私は空になった鍋を指差した。


「部下に腹も満たせぬ主に、忠義を説く資格はない」


 グラハムは崩れ落ち、膝をついた。

 勝負ありだ。


 こうして、隣領との戦争は終わった。

 死傷者ゼロ。

 消費したのは、牛肉と野菜、小麦粉。そして契約用の羊皮紙だけ。

 

 かつて敵だった男たちは今、満腹の腹をさすりながら、新しい働き口への期待に目を輝かせている。

 これこそが、私の望む「完全勝利」の形だ。

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