第9話 敵兵が腹を空かせて「寝返り」を希望してきました。雇い入れの列はこちらです。
期限当日。正午。
アインホルン領とボークス領の境界にある平原には、奇妙な対比が生まれていた。
片や、総勢三百のボークス男爵家・精鋭騎士団。
彼らは本来なら威風堂々と行進してくるはずだった。だが、今の彼らにその面影はない。
馬は痩せこけ、騎士たちの顔色は土気色。足取りは重く、剣を握る手すら震えている。
無理もない。この二日間、彼らはまともな食事にありついていないのだから。
対する我々は、私とセバスチャン、そしてルーカス率いる二十名の警備隊のみ。
人数差は十倍以上。
だが、私たちの前には、戦場には似つかわしくない「巨大な寸胴鍋」が五つ、並べられていた。
「……来たか」
私は鍋の蓋を開けた。
途端に、湯気と共に濃厚な香りが広がる。
たっぷりの野菜と肉を煮込み、香辛料を効かせた特製の煮込み料理だ。さらに隣のテーブルには、焼きたての白いパンが山のように積まれている。
風が、その「暴力的なまでの食欲の香り」を敵陣へと運んでいく。
「なっ、なんだ、あの匂いは……!」
「に、肉だ……肉の匂いだ……」
「パン……うまそう……」
敵兵たちの足が止まる。
彼らの目が、私ではなく、鍋に釘付けになる。
喉を鳴らす音が、ここまではっきりと聞こえてきた。
「ええい、怯むな! 敵はたったの二十人だぞ!」
先頭に立つ騎士団長グラハムが、掠れた声で檄を飛ばす。
彼もまた、頬がこけ、自慢の軍服がぶかぶかに緩んでいた。
「突撃! あの生意気なアインホルンを捕らえろ! 奪った食料で腹いっぱい食わせてやる!」
グラハムが剣を抜き、馬に拍車をかける。
だが、馬が動かない。空腹で走る気力がないのだ。
部下たちも、命令に従って武器を構えようとするが、その切っ先はふらふらと頼りない。
「……哀れだな」
私は呟き、一歩前へ出た。
拡声の魔道具を使い、敵兵全員に聞こえるように声を張り上げる。
「ようこそ、ボークス家の騎士諸君! お腹は空いていないかね?」
「き、貴様……! 我らを愚弄するか!」
「事実を言ったまでだ。……君たちの主君、ボークス男爵は、君たちに十分な食事を与えていないようだな。兵に腹を空かせるなど、指揮官として、いや雇い主として失格ではないか?」
私の言葉に、敵兵たちの動揺が広がる。
図星だからだ。
彼らは忠義で戦っているのではない。生活のために剣を握っている。その生活の基盤である「食」が満たされないなら、戦う理由などない。
「そこでだ。私は君たちに提案がある」
私は新しい羊皮紙――『雇用契約書』の束を取り出した。
「我がアインホルン領では、現在、新規の働き手を募集している。
条件は以下の通りだ。
一、一日三食の食事保証。もちろん、今この瞬間からだ。
一、七日に二日は必ず休ませる。交代番で回す。
一、給金は現在の二割増し。刻限を超えた働きには追加の報酬もつく」
戦場が静まり返った。
敵兵たちが、信じられないものを見る目で私を見る。
「さらに! 今ここで『鞍替え』を決断した者には、契約祝い金として、この煮込みとパンを好きなだけ振る舞おう!」
その瞬間、敵陣から「おおお……!」というどよめきが起きた。
グラハムが顔を真っ赤にして叫ぶ。
「き、聞くな! 敵の甘言だ! 誇り高き騎士が、金と食い物で寝返るなど……!」
「誇りで腹が膨れるか!」
敵陣の中から、誰かの叫び声が上がった。
それをきっかけに、ダムが決壊するように、兵士たちが武器を捨てて走り出した。
「お、俺は行くぞ! もう二日も水しか飲んでねぇんだ!」
「俺もだ! 家族にも仕送りができてねぇ!」
「アインホルン領主様! 俺を雇ってくれぇぇぇ!」
一人、また一人。
雪崩を打ってこちらへ押し寄せてくる。殺気はない。あるのは、純粋な空腹と、生への渇望だけだ。
「よろしい! 慌てるな、煮込みは逃げん!」
私はルーカスたちに指示を出した。
「雇い入れの列はこちらだ! 名前と特技を書いて、契約書に署名と拇印を!」
ルーカスが一歩前に出て、低い声で威圧する。
「武器は全部置いていけ。列を乱したり、暴れたりする奴は叩き出すぞ。……あとで逃げたら契約違反だ。こっちは契約庁へ申立てる。執行が入るからな」
「は、はいっ!」
戦場は一瞬にして、巨大な「雇い入れの場」へと変貌した。
長机の前には、武器と鎧を脱ぎ捨てた元・騎士たちの長蛇の列ができる。
「次は君か。特技は?」
「は、はい! 土木工事が得意です! 力仕事なら任せてください!」
「よし、雇う。ダンジョンの拡張工事に回ってもらおう。……次!」
「計算ができます! 物資の管理係を!」
「よし、雇う。倉庫番を頼む。……次!」
署名を終えた者たちは、涙を流しながら煮込み料理を頬張っている。
「うめぇ……! 生き返る……!」
「あったけぇ……肉が入ってるぞ……!」
「アインホルン様、万歳……!」
その光景を見て、ルーカスが呆れたように笑った。
「あんた、本当に無茶苦茶だな。戦争しに来た相手を、その場で雇っちまうなんて」
「何を言う。彼らは優秀な働き手だ。殺してしまえばただの死体だが、雇えば富を生む。どちらが得か、考えるまでもないだろう?」
私は悠然と黒茶を一口含んだ。
一方、取り残されたグラハムの周りには、もう数名の側近しか残っていなかった。
三百の軍勢は、剣を交えることなく消滅し、私の領地の「働き手」へと姿を変えたのだ。
煮込みの湯気の向こうで、彼らの顔色が少しずつ人間の色に戻っていくのが見えた。
「き、貴様ぁぁぁ……! 卑怯だぞアインホルン! 騎士道精神はないのか!」
グラハムが涙目で叫ぶ。
私は彼を冷ややかに見下ろした。
「騎士道? ……古いな」
私は空になった鍋を指差した。
「部下に腹も満たせぬ主に、忠義を説く資格はない」
グラハムは崩れ落ち、膝をついた。
勝負ありだ。
こうして、隣領との戦争は終わった。
死傷者ゼロ。
消費したのは、牛肉と野菜、小麦粉。そして契約用の羊皮紙だけ。
かつて敵だった男たちは今、満腹の腹をさすりながら、新しい働き口への期待に目を輝かせている。
これこそが、私の望む「完全勝利」の形だ。




