第10話 隣領買収。ボークス男爵、借金まみれで領地を売る。
騎士団が崩壊し、兵士たちが我先にとアインホルン領へ鞍替えしてから、数日後。
ボークス領の男爵館は、静まり返っていた。
「……誰も、おらんのか」
ボークス男爵は、豪華な調度品に囲まれた執務室で、一人震えていた。
使用人も、護衛も、料理人もいない。
給金が払えず、食料も尽きた屋敷から、ネズミが逃げるように全員が去っていったからだ。
「おのれ、アインホルン……! よくも、よくも……!」
男爵が机を叩く。
だが、その拳には力がない。彼自身、ここ数日は固い焼きパンの残り屑しか口にしていないのだ。
その時。
コツコツと、誰もいないはずの廊下から足音が近づいてきた。
男爵が顔を上げる。
「失礼するよ、男爵。……随分と風通しの良い屋敷になったな」
扉を開けて入ってきたのは、私――アルバート・フォン・アインホルンだ。
背後にはセバスチャンと、そして真新しい制服を着たルーカスが控えている。
「き、貴様! どの面を下げて……! 衛兵! 衛兵はおらんか! こやつを捕らえろ!」
男爵が喚くが、誰も来ない。
私は肩をすくめ、勝手に長椅子へ腰を下ろした。
「無駄だ。君の衛兵たちは今頃、私の領地で腹一杯の煮込みを食べて、道路工事に汗を流しているよ」
「ぐぬぅ……! ど、泥棒め! 我が騎士団を返せ!」
「人聞きの悪い。彼らは自分の意思で『鞍替え』したのだよ。……さて、今日は君に取引の話をしに来た」
私は一枚の羊皮紙をテーブルに置いた。
『領地譲渡契約書』。
「単刀直入に言おう。このボークス領を、私が買い取る」
「は……?」
男爵が目を剥いた。
「ば、馬鹿な! 先祖代々の土地を売れだと!? 貴族の誇りを金で買うつもりか!」
「誇り? ……今の君に、そんなものが残っているのかね?」
私は冷ややかに言い放ち、別の書類束を取り出した。
それは、彼が王都の金貸し組合や大商会から借り入れている「借用書」の写しだ。
「調査させてもらったよ。君は軍拡のために莫大な借金をしているな。その額、金貨五万枚。……このままでは、来月の返済期限に間に合うまい?」
「なっ……なぜそれを……!」
「私の商会が、君の借金の取り立て権(借用書)の一部を買い取ったからだ。つまり、私は今、君の『貸し手(金主)』でもある」
私は借用書の束を指先で弾いた。
「君には二つの道がある。
一つは、このまま没落することだ。借金は返せず、領地は王家に取り上げられ、君は爵位を失って路頭に迷う。もちろん、借金取りに追われる生活が待っているぞ」
男爵の顔から血の気が引いていく。
貴族社会において、家が潰れることは死と同義だ。いや、矜持の高い彼にとっては死以上の屈辱だろう。
「そしてもう一つが、この契約書に署名することだ」
私は『領地譲渡契約書』を指差した。
「ボークス領の統治権をアインホルン家に譲渡する。その対価として、私が君の借金『金貨五万枚』を全額肩代わりする。さらに、老後の生活資金として金貨一千枚を手切れ金として渡そう」
「い、一千枚……!?」
男爵の目が、金貨の輝きを想像して揺らいだ。
金貨一千枚あれば、王都で隠居して、そこそこ贅沢な暮らしができる。
借金取りに追われる地獄か、悠々自適な隠居生活か。
答えは明白だ。
「……だが、領地を売ったとなれば、私は……」
「『体調不良による隠居』ということにすればいい。手続きはこちらで整える。……君の名誉は守られるよ」
私がダメ押しの一言を告げると、男爵はガクリと項垂れた。
「……わかった。負けだ、アインホルン」
男爵は震える手でペンを取り、契約書に署名した。
そして、力なく拇印を押す。
――契約は成立した。
契約庁に届け出た原本が文庫に収まり、記録が更新される。
その瞬間、ボークス領の支配権は、法的に私へと移転した。
戦争も、流血もなく。ただ一枚の紙切れと、金の力によって。
◇
翌日。
ボークス領の広場には、大勢の領民が集められていた。
彼らは不安そうな顔で、壇上に立つ私を見上げている。
無理もない。昨日まで敵だった男が、今日から新しい領主になったのだから。
「領民の諸君。私が新しい領主、アルバート・フォン・アインホルンだ」
私は拡声の魔道具を使って宣言した。
「前領主ボークスは引退した。今日からこの地はアインホルン領の一部となる。……それに伴い、君たちに約束しよう」
私はルーカスに目配せをした。
彼らが荷馬車の覆いを取る。そこには、山積みの麦袋と、新鮮な野菜、そして干し肉が積まれていた。
「まずは『食』の保証だ。当面の食料は無償で配給する。飢える心配はない」
領民たちがどよめいた。
長い間、重税と食糧難に苦しんできた彼らにとって、それは夢のような光景だった。
「次に『税』の軽減だ。これまでの半分以下に引き下げる。さらに『仕事』もだ。鉱山を再開発し、働き手には適正な給金と休みを保証しよう」
静寂。
誰もが信じられないという顔をしている。
だが、配給の列に並び、実際に焼きパンを手にした老婆が、震える声で言った。
「……ありがたい。ありがてぇよぉ……!」
その声を皮切りに、広場は歓声に包まれた。
「アインホルン様万歳!」
「新しい領主様だ!」
「これで生きていけるぞ……!」
男たちの歓声、女たちの安堵の涙、子供たちの笑顔。
それらは全て、私に向けられたものだ。
かつて「悪役貴族」と呼ばれた私が、今や彼らにとっての救世主となっている。
(……悪くない気分だ)
私は歓声の中、小さく笑った。
隣でルーカスが、少し誇らしげに私を見ている。
「あんた、やっぱすげぇよ。……剣なんかなくても、世界は変えられるんだな」
「当たり前だ。剣はただの道具だが、法と金は世界を動かす決まりそのものだ。……決まりを握る者が、勝者なのだよ」
私は領民たちに手を振って応えた。
広場の端では、子供がパンを抱えて笑っている。――よし、これでいい。
ボークス領の編入は完了した。
これでアインホルン領の商圏は倍増し、生産拠点と鉱山資源を手に入れた。
私の領地経営は、次の局面へと進む。
だがその前に――王都から、少々厄介な客が来るらしい。
国の査察官。
私の急激な勢力拡大を怪しんだ国が、ついに動き出したのだ。
「……さて、次の相手は国か。手厚くもてなして差し上げよう」
私は懐の「会計の控え帳」の感触を確かめ、不敵に笑った。




