第46話:聖女の申し出。――“これから”を、言葉にする夜。
久しぶりの休み。
私はエリスと連れ立って、王都の街を歩いていた。
特別な場所へ行くわけではない。
市を覗き、川沿いを歩き、屋台で温い果実水を飲む。
それだけのことが、今の私には何より贅沢だった。
市の通りは、音で満ちている。
秤の皿が触れ合う乾いた音。呼び込みの声。焼き菓子の甘い匂い。魚を捌く包丁の小気味よい響き。
人が笑い、人が値を交わし、人が「明日」を買っている。
――飢えた顔は、もう目立たない。
「見てください、アルバート様。あそこのお店、新しい看板が出てます」
「ああ。北の干し肉を扱う店だな。……繁盛している」
吊り下げられた干し肉が、風に揺れていた。
北と南の道が通り、鍋が回り、倉が改まった。その結果が、看板一つに出る。
私はあの店の前を、少しだけゆっくり歩いた。
エリスは、私よりも先に気づく。
並ぶ品の変化に。人々の顔の変化に。
それが嬉しくて仕方ないというように、何度も私へ目線を向ける。
「……穏やかですね」
「そうだな。……騒がしいくらいだ」
その「騒がしさ」は、嫌な騒がしさじゃない。
腹が満ち、余った力が笑い声になる。
昔の王都は、沈黙が怖かった。声が消える街は、だいたい飢えている。
川沿いへ出ると、風が少し冷たかった。
水面に夕日が伸びて、きらきらと揺れる。
橋の上では子どもが走り、母親が叱り、そして笑って抱き上げる。
――当たり前の景色が、胸に刺さる。
私たちは人混みを離れ、王都を見下ろせる丘へ向かった。
足元の石畳が、ゆるやかな土の道に変わる。
道の脇には、誰かが植えた小さな木。折れぬように添え木がされている。
夕暮れが近づき、街に灯りがともり始めた。
あちこちの窓が、順番にあたたかい色へ変わっていく。
遠くの屋台から、鍋の湯気が一本立ち上るのが見える。
丘のベンチに腰を下ろすと、木がきしりと鳴った。
誰かが先に座っていた証だ。
このベンチも、この丘も、特別ではない。
だからこそ、今の私たちには似合う。
「……アルバート様」
不意に、エリスが私の袖を引いた。
さっきまでの笑顔とは違う。どこか緊張した目。
けれど怖がってはいない。腹を決めた者の顔だ。
「あの日……初めてお会いした日のことを、覚えていますか?」
「ああ。忘れるはずがない」
教会の地下。
鎖に繋がれ、目の光を失いかけていた彼女を――私が引き受けた日だ。
(あのときの私は、“勝つ”ことしか考えていなかった)
(だが、あの瞳の暗さだけは、今でも寝起きにふと蘇る)
エリスは膝の上で指を組み、ほどいて、また組んだ。
言葉にする前に、胸の中の形を確かめている。
「あの時、私は……自分が“物”みたいに思えていました」
小さく息を吸う。
「書付に名前があって、命じられるだけで……」
「……言い方が悪い」
私は苦笑して首を振った。
「あれは雇い入れだ。君を“人として”ここへ連れてくるための、形だった」
正しい言葉に直しても、過去は消えない。
消えないからこそ、今の言葉を選ぶ。
エリスは一度だけ目を伏せ、それから小さく笑った。
「はい……分かっています」
そして、真っ直ぐに言う。
「今の私は自由です。契約庁が沈黙して、照会の道も途絶えた。――だから、どこへでも行けます」
どこへでも行ける。
その上で、彼女はここにいる。
「でも、私はここにいます。……なぜだか、分かりますか?」
問いかけは優しいのに、逃げられない。
私は視線を逸らさずに答えたくなって、逆に、言葉を探してしまう。
「……待遇が良いからか。休みも、手当も、ちゃんと出す」
「ふふっ。それもありますけど……違います」
エリスは首を振った。
そして、私の手をそっと握った。
温かい。
指先が少し震えている。自分の方が震えているのかもしれない。
私が今まで握ってきたものは、印章、羽ペン、命令書、帳面、剣の柄――硬くて冷たいものばかりだった。
こんなふうに、人の温もりを確かめるために手を握ったのは……いつぶりだ。
「アルバート様。私……新しい約束が欲しいんです」
「約束?」
「はい。紙も印もいりません」
頬を赤らめて言う。
「期限も定めず……ただ、あなたの隣にいることを、私に許してください」
遠回しで、けれどこれ以上ないほど真っ直ぐな願いだった。
損得の勘定では測れない。
測れないものを差し出されるのは、怖い。
だが、それ以上に――嬉しい。
「……条件が悪いな」
私はわざと眉をひそめてみせた。
「私の隣は忙しい。書付は積もるし、各地から揉め事は届く。……割に合わない」
「構いません」
エリスは、いたずらっぽく笑った。
「私、勘定は苦手ですから」
その笑顔に、私は負けた。
法で言い負かすことも、銭で片をつけることもできない。
信というものの前で、私はずいぶん無力だ。
だが――無力でいられる相手がいるのは、弱さではない。
「……仕方ない」
私は彼女の手を、握り返した。
力を込めすぎないように。逃げ道を残すためではなく、痛くしないために。
「その約束、受け入れよう」
言葉を選び、ゆっくり続ける。
「ただし、こちらの願いも聞いてくれ。――命尽きる日まで、私のそばにいてほしい」
エリスの瞳から、涙が一粒こぼれ落ちた。
夕日に照らされて、宝石のように光る。
落ちる前に、彼女は慌てて拭おうとして――やめた。
そのままにしていい、と決めた顔をした。
「……はい。謹んで、お受けします」
私たちは、静かに口づけを交わした。
照会も、署名もない。
だが、この誓いは、かつて世界を縛ったどんな鎖よりも強く、私たちを結んだ。
しばらく、言葉がいらなかった。
風の音だけが、丘の草を撫でる。
街の灯りがひとつ、またひとつと増えていく。
――そのとき。
丘の道を上ってきた男が、私たちに気づいて足を止めた。
教会の者だ。かつて、エリスを「道具」と呼んだ側の顔。
こちらを見る目に、昔の棘が一瞬だけ浮かび――すぐに引っ込む。
丘の下では、今や教会領の立て直しも進んでいる。
彼らは知っているのだ。
誰が鍋を回し、誰が医の手を広げ、誰が冬を越させたかを。
男は唇を噛み、やがて深く頭を下げた。
「……失礼いたしました。聖女様。宰相閣下」
それだけ言って、道を譲るように下がった。
エリスは驚いたように目を瞬かせ、すぐに小さく息を吐いた。
ざまぁ、というほど派手ではない。
だが、胸に刺さっていた棘が一本、抜けた気がした。
エリスが私の手を、もう一度強く握る。
「……アルバート様」
「ああ」
私たちは立ち上がり、丘を下り始めた。
街の灯りが近づくにつれて、湯気の匂いが濃くなる。
屋台の前で、店主が声を張った。
「甘い焼き菓子だよ! 出来立てだ!」
エリスが私を見る。
私は頷く。
店主が包みを渡し、エリスが受け取り、半分を私へ差し出す。
熱い。
甘い。
指先が少しだけ汚れる。
それすら、なんでもないことが嬉しい。
野蛮で、不条理で、思い通りにならない世界だ。
だが――悪くはない。
この手の温かさがある限り。




