第45話 :世は静まり、だが執務は終わらない。
帝国との通商の取り決めが形になって三月。
宰相府の執務室は、文字通り紙の山に埋もれていた。
「宰相閣下! 北の太守殿より書状! 鉱の掘り出しが増えたゆえ、糧の回しを増やしてほしいと!」
「西の港より報告! 帝国の工匠の品を持ち込む手順と、関所銭の取り決めの確認を!」
「旧教会領の建て直しの入用、御裁可を!」
次々に運び込まれる書付。
私は羽ペンを走らせ、署名し、印を押す。
指が痛む。肩が鳴る。
だが、不思議と気は荒れなかった。
「……ふぅ。これで全部か?」
「いえ、まだ半分ほどにございます」
セバスチャンが新たな束を、どさりと置いた。
私は天を仰ぐ。
「おかしいな。私は静かに暮らすつもりだったはずだが」
「国を立て直し、北と手を結び、西とも通じたのです」
セバスチャンは黒茶を注ぎながら、穏やかに言う。
「人と物と銭の流れが増えれば、帳面も増えましょう」
そう。
アインホルン領から始まったことが、いつの間にか国中の“息”になっている。
争いが薄れ、飢えが減り、街に湯気が戻った。
その中心に、私が座っている。
――だからこそ、手を抜けば崩れる。
「旦那様」
控えの役人が、目を泳がせながら一枚の書付を差し出した。
「港の役所より……“特別の手数”が必要だ、と」
「特別の手数?」
私は紙を受け取り、目を通す。
文面は曖昧で、取る銭だけがはっきりしている。
「……なるほど。口を利かせてやるから銭を寄越せ、という類だな」
役人が汗をかく。
「そ、それが、古い慣わしでして……」
「慣わしは、腹を満たさない」
私はペンを置き、淡々と命じた。
「セバスチャン。港の役所へ通達を」
「御意」
「本日より、港の出入りと荷の改めは“型”を統一する。書付は一枚。項目は固定。受け取る銭は掲げて示せ」
私は指を折る。
「名のない“手数”は禁止。取った者の名を帳面に残せ。異議があれば宰相府へ訴え出られる道も書け」
役人の顔色が変わる。
曖昧な“余白”が消えれば、抜き取りはできない。
「……そ、それでは、現場が回らぬと申す者が……」
「回らぬのは、抜き取りが回らぬだけだ」
私は書付を返し、言い切った。
「明日から港の者が困らぬよう、宰相府から文官を二名派遣する。帳面のつけ方も教える」
最後に一言、釘を刺す。
「港で腹を満たす者を、紙で飢えさせるな」
役人は深く頭を下げ、逃げるように出ていった。
ざまぁ、は剣ではない。
書式一枚で、足りる。
「旦那様。……少しは肩の荷が軽くなりますな」
「軽くなるのは港の者の方だ。こちらの紙は増えるだろうが」
私は苦笑し、黒茶をひと口含んだ。
そのとき、扉が控えめに叩かれる。
「失礼します、アルバート様」
入ってきたのはエリスだった。
手には、小さな皿。焼き菓子が几帳面に並んでいる。
甘い香りが、紙と墨の匂いを押し返した。
「休憩を。……ちゃんと食べてください」
「ありがとう、エリス。君も忙しいだろうに」
「忙しいです。でも……来ないと、もっと落ち着かないんです」
彼女は私の隣に腰を下ろし、皿を差し出す。
私は一つ摘まみ、噛む。
蜂蜜と木の実の甘さが、妙に胸の奥まで染みた。
「……そういえば、ルーカスはどうした?」
「北です。湯の出る谷へ案内役をしているそうです」
「案内役?」
「はい。戦がなくなって、湯治に行く人が増えましたから。……ルーカスさん、なぜか評判がいいんです」
私は思わず息を漏らした。
あの男が、湯治の道案内とは。
「平和というのは、時に理解しがたいな」
「ふふ」
エリスが笑う。
その笑い声が、執務室の角を柔らかくする。
ふいに、彼女の表情が真面目に変わった。
「アルバート様」
「どうした」
「……世の中が、少しずつ良くなりました」
「ああ。少なくとも、明日の飯を心配して泣く夜は減った」
エリスは小さく頷き、膝の上で指を組んだ。
頬が、ほんのり赤い。
「だから……そろそろ、私たちのことも」
「……」
私はペンから手を離し、彼女に向き直った。
この数年、私は国のための“取り決め”は幾つも作った。
だが――一番近くの、いちばん大切な約束は、言葉にしていなかった。
「エリス。提案がある」
「……はい」
「次の休み、二人で出かけないか」
私は咳払いを一つ。
「仕事の話は抜きだ。湯気のある所がいい。温いものを食べて、歩いて……それだけでいい」
エリスの目が、ぱっと明るくなる。
「はい……喜んで!」
その笑顔を見た瞬間、紙の山が少しだけ低く見えた。
世界をどうこうするより難しいのは、目の前の人を大切にすることだ。
私は皿の端に残った菓子を、もう一つ摘まむ。
「……よし。では、その日の分の書付は今日片づける」
「無理はだめです」
「無理はしない。だが、約束は守る」
湯気も、甘さも、笑顔も。
それらを守るための仕事なら、私はまだ働ける。




