第43話 :魔王の決断。――盟約の印、そして国の形。
北の国境砦。
かつて人と魔族が刃を交えたその場所は、いま、妙な静けさに包まれていた。
広間の中央に大卓が置かれ、羊皮紙とインク、印章箱が並べられている。
剣は鞘にある。代わりに、証人の名簿と写しの束が積まれていた。
「……来たか」
卓の向こうで、魔王が静かに待っていた。
側近たちも控えるが、以前のような殺気はない。
頬に色が戻り、身なりも整っている。糧と布が回れば、人はまず息をする。
「お待たせしました、魔王殿」
私は席に着く。
背後にはセバスチャン、ルーカス、エリス。
だが、この場には招かれざる客もいた。
王都から“監視”として来た古株の将軍が、鼻息荒く腕を組んでいる。
「アインホルン宰相! 正気ですか!」
将軍が卓を叩いた。
「魔族と盟約だと!? 奴らは人の敵! 飢えている今こそ、一気に攻め滅ぼすべきだ!」
魔王の側近がざわめく。
私は片手を上げて制し、将軍を見上げた。
「将軍。攻め滅ぼして、何を得る?」
「魔族の根絶こそ悲願! 後患を断つのです!」
「そのために、兵を何人死なせる気だ」
私は淡々と問うた。
「雪山で追えば、矢より先に凍える。こちらの損は万を下らん」
将軍が唇を歪める。
「犠牲は覚悟の上だ!」
「覚悟があるなら、払えますね」
私は名簿の一枚を指先で叩いた。
「遺された家へ渡す扶持、弔いの銭、負傷者の手当て。将軍家の私財で賄えるのか?」
「ぐっ……そ、それは国が……!」
「国は払わん」
私は切り捨てた。
「無駄な戦に流す銭はない。……それに」
私は魔王城から届いた石の塊――魔石の欠片を机に置く。
「彼らを殺せば、北の鉱と魔石は誰が掘る? 将軍が鶴嘴を担いで岩山へ行くのか」
「……っ」
将軍が言葉に詰まる。
勇ましい声ほど、勘定と労苦を突きつけると脆い。
私は視線を外し、魔王へ向き直った。
「お見苦しいところを。……では本題です」
羊皮紙を広げる。
降伏の文ではない。“互いが生きるための取り決め”だ。
「魔王殿。この盟約が成れば、境の線は“争いの口実”ではなくなります」
条文を、短く示した。
『一、北の地は王国の直轄として扱い、魔王はその地の太守として治める』
『二、北の産(鉱・魔石)と南の糧は、公の値で引き替える。損が出ぬよう、宰相府と太守府で勘定を合わせる』
『三、人も魔族も、商いと暮らしの場では同じ掟で守る。揉め事は両者の役人が立ち会い、記録し、裁く』
魔王が羊皮紙を見つめ、静かに口を開く。
「……我らは、誇りを失うことになるのか」
「形だけの誇りなら、失うでしょう」
私は即答した。
「だが、民を飢えさせぬという誇りは守られる。――私はそこだけは譲らない」
魔王の目が揺れた。
誇りでは腹が膨れないことを、彼は誰より知っている。
「宰相よ。そなたの下につけば……我が民は、笑えるか?」
「約束します」
私は言い切る。
「少なくとも、明日の飯を心配して泣く夜は終わらせる」
魔王が深く息を吐き、羽ペンを取った。
「……よかろう」
さらさらと署名が走り、黒竜の印が押される。
――だが、これで終わりではない。
私はすぐに続けた。
「証人を」
「ここに」
魔王側から二名、こちらから二名。
さらに砦の守備隊長が立ち会い、連署する。
写しは三通。
宰相府の記録庫、太守府、国境砦に保管する。
破った側が損をする条を添え、逃げ道を減らす。
紙が守るのではない。
段取りが守る。
古株将軍が歯噛みして立ち上がりかけた。
「こんなものは――!」
「将軍」
私は将軍へ一枚の紙を突き出した。
王都の貴族会と宰相府の連署が入った命令書だ。
「あなたは“監視役”ではない。ここから先は、砦の兵糧と道の改めに従事してもらう」
「なに……!?」
「口を出したいなら、責も負え。できぬなら、静かにしてくれ」
将軍の顔が赤くなり、やがて青ざめる。
周囲の視線が刺さった。今この場で、誰が国を食わせているのか――皆、分かっている。
将軍は何も言えず、椅子に沈んだ。
ざまぁは、剣ではなく、命令書一枚で足りた。
◇
その夜。
砦の広間では、ささやかな宴が開かれた。
人と魔族が、同じ卓を囲む。
「おい、その肉、うめぇな!」
「こっちの木の実も食ってみろ。北の味だ」
最初はぎこちなかった兵たちも、温い料理が入れば肩が落ちる。
魔王が低い声で命じた。
「子と老いた者を先に。次に働き手だ。異論は許さぬ」
その一言で、配り手の動きが揃う。
宴の空気が、戦の匂いではなく、暮らしの匂いに変わった。
「……信じられません」
エリスが配膳の手を止め、広間を見渡す。
「少し前まで殺し合っていた人たちが、一緒に笑っているなんて」
「腹が満ちて、明日が見えりゃ、憎む理由も薄くなる」
ルーカスが笑う。
「旦那の言う通りだ。鍋は剣より強ぇ」
私は杯を傾け、魔王――いや、太守となる男の横顔を見る。
穏やかな顔だ。部下の笑い声を、目で数えるように見ている。
そのとき、雪まみれの早馬が駆け込んできた。
「だ、旦那様! 西の海より急報!」
「申せ」
「黒塗りの大きな艦が現れました。名乗るは“帝国”――港を開け、商いを許せ、と」
広間が一瞬、静まる。
だが私は、杯を置き、言った。
「分かった。明日、話を聞く」
そして、広間の鍋へ視線をやる。
「今夜は宴を続けろ。腹が減れば、また刃が立つ」
湯気の向こうで、子どもが笑った。
その笑い声がある限り――私は、どんな相手とも段取りで渡り合える。




