第42話 :南の熱病。――隔て、洗い、守る。
魔王城での立て直しが回り始めた矢先。
南の直轄地から届いた急報は、新しい戦の始まりを告げていた。
「熱に倒れる者が続出。咳が止まらず、村の半数が寝込む――か」
私は魔王城の一室で、書付を広げた。
文字の端々に、書き手の焦りが滲んでいる。
『熱、高し』
『咳、止まず』
『うつるのが早い』
『祈りも薬草も、効き目うすし』
「旦那様……ただの風邪ではありますまい」
セバスチャンの声が硬い。
「ああ。原因が何であれ、放っておけば人の心が先に壊れる」
私は立ち上がった。
「隔てる。洗う。守る。それだけは、今すぐできる」
「エリス」
「はい!」
彼女は迷いなく頷いた。薬箱の紐を結び直す、その手が早い。
「南へ行く。まず“閉じ込めるため”ではないと示す。鍋と水を持ってな」
「承知いたしました。兵も、口覆いと厚手の布衣を用意します」
◇
数日後。
南の村の入口には柵が立てられ、見張りが置かれていた。
だが剣は抜かれていない。
「止まれ! ここから先は“隔て”だ!」
「入る者も出る者も、手足を洗え! 荷も拭え!」
「熱のある者は、赤い布を戸口に下げろ! すぐ手当て小屋へ案内する!」
桶には酢を落とした水。
白い粉――石灰は、汚れを持ち込ませないためのものだ。
最初、村は騒ぎかけた。
「閉じ込めて殺す気か!」
「よそ者が病を運んだんだ!」
恐れは刃になる。私はそれを、何度も見てきた。
「黙って聞け」
私は村の広場に立ち、短く言った。
「この隔ては、見捨てるためじゃない。守るためだ」
指を折る。
「食い物は運ぶ。水も運ぶ。熱のある者には薬湯と粥を出す」
「ただし、村の外へ病を運ばない。だから出入りは絞る」
すると、村の役人面の男が前へ出た。
「宰相様。物資を配るなら、名のある家から先に――」
「却下だ」
私は即答し、帳面を開いた。
「あなたが預かる蔵の鍵と記録を出せ。配り方に口を出す者は、責も負う」
「な、何を――」
「今ここで出せないなら、あなたは役目を下りる。代わりはいる」
男の喉が鳴り、鍵が震える手で差し出された。
恐れに乗って得をしようとする者ほど、責任を突きつけられると弱い。
そのやり取りの間にも、エリスは手を止めない。
手当て小屋で、熱にうなされる者の額を冷やし、薬湯を含ませる。
「大丈夫。怖くないよ。ちゃんと良くなる」
優しい声が、村の空気をほどいていく。
ルーカスが、柵のそばで腕を組んだまま言った。
「最初は荒れたが……鍋が来たら黙った。腹ってのは正直だな」
「腹が満ちれば、刃は下がる」
◇
「旦那様。こちらを」
セバスチャンが私を村外れの井戸へ導いた。
井戸の裏に、死んだ鼠が折り重なっている。
「……鼠、か」
私は布で口を覆い、棒で死骸を寄せた。
斑のような痕が見える。――病の筋は、ここにある。
「井戸は止める。飲み水は、必ず沸かせ」
「承知」
私はさらに指示を重ねる。
「鼠を寄せる屑を片づけろ。死骸は素手で触るな。集めて焼く」
「手当て小屋の布は分けろ。使った布も湯で煮る。灰は穴に埋める」
「湯と塩を切らすな。熱の者にはまず水を飲ませろ」
段取りは、剣より強い。
◇
それから数日。
新しく倒れる者は目に見えて減り、寝込んでいた者も、少しずつ起き上がり始めた。
「……助かった……」
「宰相様……ありがたい……!」
広場の鍋から、粥が配られる。
枡で量り、名を残し、誰の取り分も奪わせない。
手当て小屋の前で、顔色の悪かった少年が器を両手で抱え、恐る恐る口をつけた。
そして、ほっと息を吐く。
「……あったかい」
その一言に、母親が顔を覆って泣いた。
周りの者も、つられて目尻をぬぐう。
私はそれを見て、胸の奥の硬いものが少しだけ緩むのを感じた。
救える命は、救う。
やり方が分かっているなら、なおさらだ。
「旦那様。王都より封書が」
セバスチャンが差し出した封には、宰相府の折衝係の印があった。
『魔王殿、盟約の印を押す用意あり。日取りを賜りたい』
私は短く息を吐く。
「……戻るぞ。次は“誓いの形”を作る番だ」
だが今夜も、南の鍋は止めない。
守るべきものは、いつだって今日の一杯から始まる。




