第38話 :魔王城への出向き。供回りは聖女と勇者。
雪深い峠を越え、さらに北へ。
視界が白一色に染まる中、ようやくそれは姿を現した。
「あれが……魔王城か」
馬車の窓から見上げたのは、黒い岩山をくり抜いた要塞だった。
だが威容は、どこか寂しい。
かつて灯っていたであろう魔力灯は消え、窓という窓は氷に塞がれている。
「……静かすぎねぇか?」
ルーカスが剣の柄に手を添える。
城門前に立つ衛兵――魔族の兵は数人。だが槍を杖代わりに、やっと立っている有様だった。
私は馬車を降り、名乗る。
「アインホルン家の使節だ。魔王殿との談判に来た」
衛兵たちは驚いたように目を見開き、それから深々と頭を下げた。
「お待ちしておりました……どうぞ、中へ」
案内された城内は、外より寒かった。
石の廊下が冷え切り、吐く息が白く凍る。
暖を取る魔石が尽きているのだろう。すれ違う者たちは、古い毛皮や布を何重にも巻き、震えながら歩いている。
「ひどい……」
エリスが小さく呟き、懐から温熱石を取り出した。
近くにいた幼い魔族の子へ手渡す。
「……あったかい」
子が石を抱きしめ、母親が涙を浮かべて礼をした。
ここは城というより、巨大な避難所だ。
◇
謁見の間も薄暗く、冷え切っていた。
玉座に座るのは巨大な角を持つ漆黒の魔族――魔王。
だが覇気は弱い。目の奥にあるのは、怒りではなく疲れだ。
「……よく来た、人間よ」
魔王の声が響く。
その左右に控える側近たちは屈強に見えるが、やはり頬が落ちている。
「アインホルン家当主、アルバートです。お招きに感謝します」
私は一礼し、セバスチャンへ目配せした。
彼が荷から取り出したのは、剣でも宝でもない。
湯気の立つ、大鍋だった。
「……なんだ、それは」
側近の一人が低く唸る。
「手土産です。まず腹を満たしてから、話をしましょう」
私は即答する。
「空腹のままでは、誓いも理も、のどを通らない」
エリスが器を並べ、手早く汁をよそう。
側近が止めようとしたが、魔王が片手を上げて制した。
魔王は器を受け取り、一口。
「……っ」
目が見開かれた。
温い汁が、冷え切った体へ染み渡っていくのが分かるのだろう。
「……うまい」
その一言で、謁見の間の空気がほどけた。
側近たちも、配られた汁を押し黙ってすすり、やがて貪る。
敵地での食事。
本来なら有り得ない光景だが、空腹という敵の前では、種の違いなど薄い膜にすぎない。
食が進むにつれ、咳き込んでいた兵が息を整え、震えていた指が器を持てるようになっていく。
エリスはさりげなく塩と湯を足し、顔色の悪い者には薬草の粉を溶いた。
私はその様子を見届けてから、口を開いた。
「……さて。魔王殿」
魔王がこちらを見る。
「人間よ。そなたの目的は何だ」
声が低くなる。
「糧を施し、我らをどうする。首輪か。土地を差し出せというのか」
側近たちが身構えた。
施しを受けても、誇りまで差し出す気はない――それは当然だ。
「どちらでもありません」
私は首を横に振った。
「私は“取引”をしに来ました。奪うためではなく、回すために」
羊皮紙を一枚、卓へ置く。
「誓約書です。まずは短いもの。互いに刃を収める取り決めと、糧のやり取りの条件だけを書いた」
側近が覗き込み、眉を吊り上げた。
「人間の紙など、信用できぬ! 契約庁もないと聞く!」
「だからこそ形を増やします」
私は指を折る。
「誓約書は三通。こちらの記録庫、国境砦、そして魔王城で保管する。証人は互いに二名ずつ。写しはさらに作り、双方の重臣に預ける」
視線を上げ、言い切った。
「破った側が損をする条件も添える。紙は守りません。損が守る」
側近が言葉を失う。
私は続けた。
「あなた方の地には鉱と魔石がある。だが糧がない」
「……」
「こちらには糧がある。だが、魔石が足りない。ならば、足りぬものを補い合えばいい」
魔王が、わずかに目を細めた。
「互いに……だと?」
「ええ。戦をすれば畑が死にます。畑が死ねば、勝っても負けても飢える」
私は鍋を一瞥して言った。
「今日の一杯が証です。腹が満ちれば、刃は下がる」
側近の一人が歯噛みして吐き捨てる。
「甘言だ。人間は、弱った者を働かせ、搾り取る――」
「違う」
私は遮った。
「働くなら、賃を払う。品を出すなら、代を払う。命をつなぐなら、道を作る」
淡々と、しかし低く。
「搾り取るのは“損なやり方”です。逃げられれば終わる。恨みが残れば、次の冬に刃が戻る」
理を積み上げる。
剣を抜く必要はない。
魔王はしばらく沈黙し、それから器を置いた。
「……面白い、人間よ」
口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「我を屈せず、腹を満たし、なお誓いで縛ると言うか」
「縛るのは互いです。逃げ道も互いに塞ぐ」
魔王の喉が鳴った。
笑ったのか、咳を飲んだのかは分からない。
「よかろう。話を聞こう」
そして、玉座の脇へ視線を投げる。
「……汁の鍋を、奥へも回せ。子どもと老いた者を先にだ」
側近が一瞬ためらい、すぐに頭を下げて走った。
謁見の間の隅で、さっき温熱石を抱いた子が、湯気の立つ器を両手で持っていた。
息を吹き、恐る恐る口をつけ――それから、ほっとした顔をした。
私はその表情を見て、静かに頷く。
交渉の入口は開いた。
だが、条件を詰めねばならない。
「魔王殿。こちらからも条件を出します」
「申せ」
「第一に、国境砦への侵入を止めること。第二に、取引の品の量と質を定めること。第三に――」
私は羊皮紙の次の頁をめくる。
「明日、あなた方の“倉”と“畑になり得る土地”を見せてください。飢えの根を、こちらで断ちます」
魔王の瞳が、鋭く光った。
「……その言葉、軽くはないな」
「軽く言った覚えはありません」
理と銭で、剣を鞘へ戻す。
その最初の一手が、今夜の汁だった。




