第37話 :北への使者。魔王の返書、そして“条件”。
宰相府からの使者が北へ発って十日。
王城の執務室で、私は返書を待っていた。
窓の外では、今日も炊き出しの湯気が上がっている。
鍋の周りには少しずつ笑顔が戻り始めた。だが、北から吹く風はまだ冷たい。
「……遅いな」
そのとき、控えの間が騒がしくなった。
「宰相閣下! 北へ糧など……! 相手は魔族ですぞ!」
王都の古株貴族が、顔を真っ赤にして叫ぶ。
私は机上の帳面を閉じ、淡々と返した。
「北の砦が落ちれば、次に燃えるのはどこだ」
「それは……」
「王都だ。あなたの屋敷の前の通りもだ」
私は指先で数字を示す。
「騎士団を十日動かす費えと、糧を十日送る費え。どちらが安い?」
古株貴族の唇が震え、言葉が詰まる。
「それに、糧は“恵み”ではない。取引の土台だ。条件を引き出す」
「……っ」
「異論があるなら、名を記してくれ。責任の所在が必要だ」
私は羽ペンを差し出した。
男は、視線を彷徨わせたあと、黙って引き下がった。
剣を抜かずとも、責任という鎖で人は黙る。
「旦那様」
セバスチャンが扉を開ける。
「使者が戻りました」
入ってきたのは、泥と雪にまみれたアインホルン家の文官。
その後ろに、護衛につけたルーカスが立っていた。
「ただいま戻りました!」
「へっ……とんだ長旅だったぜ」
ルーカスがマントの雪を払い、どさりと椅子に腰を下ろす。
疲労の色は濃い。だが、瞳の光は強かった。
「北の様子は」
「地獄だ」
短く吐き捨てる。
「砦を越えたあたりから景色が変わる。雪と岩だけ。畑なんざ影もねぇ」
「……やはりか」
「魔物も痩せ細ってた。向こうの兵も、戦うって顔じゃねぇ。彷徨って、匂いを嗅いで……腹の足しになるもんを探してる」
ルーカスは苦い顔で続けた。
「俺らが持っていった乾し糧を見たときの目……あれは、飢えだ」
文官が震える手で、一通の羊皮紙を差し出した。
封蝋には黒い竜の紋。
「……読ませてもらおう」
私は封を切り、羊皮紙を広げた。
達筆だが力強い文字が並ぶ。
『人間よ。糧の提供、感謝する』
『我らは戦を望まぬ。望むは、民の命を繋ぐことのみ』
短いが、切実さが滲んでいた。
そして下段に、要件が記されている。
『一、国境付近において、互いに刃を交えぬ誓約を結びたい』
『二、魔界の産物(魔石・鉱物)と引き換えに、穀物の継続的な提供を願う』
『三、談判の場を設けたい。場所は――魔王城』
「魔王城、か」
私は羊皮紙を机に置いた。
敵の本拠へ来いという。罠の懸念はある――が、この文からは、罠を張る余裕すら感じられない。
「どうなさいますか、旦那様」
セバスチャンが問う。
「行くしかない」
私は即答した。
「放っておけば、飢えは刃になる。刃になった飢えは、止まらん」
視線を上げる。
「ならば先に、糧で刃を鈍らせる。誓約で線を引く。取引で腹を満たす」
セバスチャンが頷く。
「誓約の形は、いかように」
「契約庁はない。だから“形”を増やす」
私は指を折って言った。
「誓紙は三通。宰相府の記録庫、国境砦、相手の本陣に置く。証人は互いに二名ずつ。写しも作り、貴族会にも預ける」
逃げ道を減らし、破れば損をする段取りにする。それが、今のやり方だ。
「ルーカス。護衛を頼む」
「へっ。断っても行かせるんだろ」
「ああ。君が要る」
「なら最初から言え」
そのとき、扉の向こうから澄んだ声がした。
「準備はできています!」
入ってきたエリスは、すでに旅支度を整えていた。
背には大きな薬箱。
「北の方々は、寒さと飢えで弱っていると聞きました。……私も行きます。相手が誰でも、苦しむ者は患者さんです」
「頼もしい。だが、無理はするな」
「はい!」
「出発は明朝。糧と防寒具、薬を積め。王都の鍋は止めるな。送り出す分は、こちらで必ず埋める」
翌朝。
私たちは王都を発った。
荷馬車には、できる限りの糧と毛布、薬。
見送る民衆の声が背に飛ぶ。
道中、雪の野で“飢えた魔族”と何度も出会った。
武器を持つ者もいたが、私たちが糧を差し出すと、目を潤ませて貪り、最後には深く頭を下げて去っていく。
侵略者というより――飢えに追われた難民だった。
ある集落の外れで、小さな子が膝から崩れ落ちた。
エリスが迷いなく駆け寄り、唇を湿らせ、温い粥を少しずつ口に運ぶ。
「大丈夫。飲めたね。……ゆっくりでいいよ」
母親らしき魔族が、言葉にならない声で何度も頭を下げた。
私は、その光景を見て息を吐く。
食うために殺し合う――そんな理屈を、私は認めない。
ならば理を立て、銭を回し、誓いを形にするまでだ。
「旦那」
ルーカスが小声で言った。
「……こういうの、悪くねぇな」
「鍋が回れば、人は戻る」
馬車は北へ進む。
だが今度の道は、剣を振るための道ではない。
救いと取引のための道だ。




