第36話 :新宰相アルバート。北の急報、そして最初の指図。
宰相府が開かれて三日。
王城の執務室は、戦場よりも慌ただしかった。
「宰相閣下! 穀倉地帯より報告。収穫が例年の半分以下にございます!」
「南の商人組合より陳情! 街道の関所で取られる銭が重すぎると!」
「東の鉱山で、坑夫らが道具を置く気配が――!」
机の上に積まれる書付。
私は一枚ずつ目を通し、要点だけを抜いて返す。
「穀倉地帯へは、王都の備蓄を回せ。だが“配る順”を決めろ。子どもと病人、次に働き手だ」
「関所の取り立ては、ひとまず止める。代わりに街道の修繕費は宰相府が持つ。帳簿を出せ、二重取りがあればその場で首をすげ替える」
「鉱山は代表を呼べ。日当の話なら、石の出来高と道具の支給を並べて改める。黙らせるな、聞け」
文官たちが目を丸くしながら走り出す。
これまでなら、一つの決めごとに何十日も揉めた。
だが今の国に、その余裕はない。
「……ふぅ」
ひと息ついたところへ、湯気の立つ茶が置かれた。
セバスチャンだ。
「お疲れ様でございます、旦那様」
「ああ。……領地と国は違う。数が違えば、綻びも増える」
「しかし、民の声は明るうございます。市場の顔色も戻り始めました」
セバスチャンは窓の外を示した。
通りを行き交う人々。荷車の数。屋台の湯気。
まだ痩せた頬は多いが、目の光は失われていない。
粥の一杯から始めた立て直しは、確かに形になりつつある。
――だが、本当の火は、北にある。
「……セバスチャン。三日前の書状は?」
「こちらに」
私は引き出しから封のされた書状を取り出し、蝋を割った。
国境守備の隊長の筆跡は、途中で何度も震えている。
『魔王軍、侵攻開始。その数、およそ十万』
『略奪というより、土地を押さえる構え』
『民を避難させるも、糧が足りず』
「十万、か」
剣で受ければ、国は再び焼ける。
勝っても負けても、畑が死ぬ。
「旦那様。騎士団を北へ向けますか?」
「いや。その前に確かめたい」
私は壁の地図の前へ立った。
北は雪と岩の国。作物が育つ土地は少ない。
「最近の市の様子で、気になる話は?」
「……北方の商人が、毛皮を嘆いておりました。相場が崩れておりましてな」
「毛皮が、崩れた?」
私は地図の北を指で叩く。
毛皮が南に溢れれば値は落ちる。
溢れる理由は一つ――毛皮を銭に替えてでも、糧を得たい。
「……なるほど」
胸の内で、ばらばらの石が音を立てて噛み合った。
「彼らは“攻め”に来たのではない。……“食い”に来たのだ」
「え……?」
「魔界で凶作か、雪害か。何かが起きた」
私は言葉を切る。
「腹が減れば、軍も民も同じ方向へ流れる。止めても、また来る。剣で追い返しても終わらない」
沈黙が落ちた。
セバスチャンの眉が、わずかに寄る。
「では……どうなさいます」
「腹を満たす。まずはそこからだ」
私は机へ戻り、白紙を引き寄せた。
「北の国境砦へ、糧の荷を出す。守備隊の分だけではない。砦の外に集まる民にもだ」
「……魔族にも、でございますか?」
「こちらが腹を満たせば、向こうの刃は鈍る。これは情けではない、“安い戦”だ」
セバスチャンが一瞬だけ目を見開き、すぐに深く頭を下げた。
「御意。手配いたします」
「次に、使者を立てる」
私は羽ペンを取り、文面を走らせる。
「“談判”だ。停戦と糧の取引。毛皮と鉱石の供出、国境の線引き、捕虜の扱い――ひとつずつ、形にする」
ここで私は一度、言い添えた。
「契約庁はもうない。だから“鎖”には頼らん」
机上の印章箱を叩く。
「誓約書は三通。宰相府の記録庫、国境砦、相手の本陣。証人を互いに置く。破った側が損をする段取りにする」
法は紙で作るのではない。
紙が破れたときでも、破る方が痛い仕組みで作る。
「セバスチャン。ルーカスとエリスを呼べ」
「はっ。……まさか、北へ?」
「ああ。北は刃だけでは保たん。護衛と、医の手が要る」
そのとき、執務室の扉が乱暴に開いた。
「宰相閣下! 広場の穀屋が、粥の米を“倍の値”でしか出さぬと……!」
混乱に乗じた買い占めだ。
飢えが戻れば、国はまた燃える。
「名を」
「ハーデン穀屋にございます!」
「よし。帳簿を押さえろ。蔵を改め、隠し置きがあれば没収――ではない」
私は言葉を選び、文官に視線を刺した。
「公の値で買い上げる。代金は宰相府の証文で支払う。拒めば、今後一切の公の取引から外す、と伝えろ」
剣を抜く必要はない。
銭の流れから外されれば、商いは死ぬ。
「……それと、広場の鍋は止めるな。米が足りぬなら、粟と豆を混ぜろ。味は落ちても命はつながる」
文官が走り出す。
しばらくして、ルーカスとエリスが来た。
ルーカスは包帯の腕をぶら下げ、相変わらず図太い顔をしている。
「旦那。呼んだか」
「北へ行く。だが、まず広場だ。鍋の前で泣く母親を増やすわけにはいかん」
「了解。……忙しい宰相ってのは、息つく暇もねぇな」
「働きに見合う給金は出す」
「それなら文句はねぇ」
エリスは広場の方角を見て、小さく拳を握った。
「私、薬箱を増やしてきます。北へ行くなら、凍えと腹の病が多いはずです」
「頼もしい。だが、無理はするな」
「はい!」
窓の外では、今日も湯気が上がっている。
鍋の前に並ぶ列が、少しずつ整っていくのが見えた。
私は書き上げた文を封に入れ、印を押す。
「使者を走らせろ。魔王へ――“来い”ではない。“話せ”だ」
剣に剣を返せば、畑が死ぬ。
ならば、糧で刃を鈍らせ、理で道を作る。
広場から、子どもの笑い声が一つ、風に乗って届いた。
「……今夜も鍋は止めない」
それが新宰相としての、最初の指図だった。




