第35話 :無血の政変。――債を免じ、王家は儀礼に退く。
王城・大会議室。
かつて国の大事を決めていたその場所は、息をするのも憚られるほど張りつめていた。
上座に座るのは、私――アルバート・フォン・アインホルン。
隣には武装を解かれたレグルス(元・国王)と、顔面蒼白の王太子。
対面にはアインホルン領の文官、王都の有力貴族、そして各家の家宰が並ぶ。
これは裁きではない。
国を壊さずに建て直すための、条件の突き合わせだ。
「……では、要点から参ります」
私は手元の束を机に置いた。
王家の名で乱発された借財の証文――利の付いた“紙”が、今や民の首を絞めている。
「王家の抱える負い目は、金貨百万枚に届く。これを放っておけば、徴発が重なり、街はさらに荒れます」
ざわ、と貴族の列が揺れた。
「本来なら、王家の財は召し上げとなり、親類縁者まで連座しかねない」
王太子の肩が跳ねる。
レグルスは、遠いところを見ているだけだった。
「だが、王家を根こそぎ潰せば、それはそれで国が割れる。地方は疑い、隣国は嗅ぎつける。ならば――潰さず、縛る」
私は新しい羊皮紙を広げた。
セバスチャンが徹夜で整えた誓約書。飾りの文句ではない。明日からの仕事の段取りだ。
「提案があります。王家の負い目は、私が引き受けましょう」
「な……」
「本気か、アインホルン!」
どよめきが走る。
金貨百万枚分の重みを、肩代わりする――正気の沙汰ではない。
「“ただ”ではありません。条件があります」
私は条文を指でなぞった。
「一、政務の采配、法度の定め、軍勢の指揮――それらの実務を、新設の宰相府に移す」
「二、王家は存続する。ただし担うのは祭祀と儀礼、国印の保全のみ」
「三、宰相府の長には、アインホルン家当主である私が就く」
会議室が凍りつく。
王家から“実の力”を抜き、形を残す。剣で奪うのではない。勘定と段取りで、座を移す。
「ば、馬鹿な……! 王家から力を奪う気か!」
王太子が立ち上がりかけた、そのとき。
カン、と背後で音がした。
ルーカスが剣の柄を指で叩いただけ。
それだけで王太子は喉を鳴らし、椅子に沈んだ。
「奪いません。お渡し頂くのです」
私は淡々と告げる。
「今の王家に、国を回す銭も、民の信もありません。ここで血を流せば、回復は十年遅れる。……だから“形”は残す」
私は王太子へ視線を向けた。
「暮らしは守ります。城も、身分も、儀礼の場も」
声を少しだけ和らげる。
「ですが、税を絞る指は、もうあなた方には握らせない」
王太子の目が泳ぐ。
責を負わずに生きられる――その甘さに、心が傾くのが見えた。
レグルスが、かすれた声で笑ったのか、息を吐いたのか分からない音を漏らした。
「……好きにせよ。……余は、もう……疲れた……」
それが、終わりの言葉だった。
「では、手順です」
私は机上に小箱を置く。蝋と印章、連署欄。
契約庁はもうない。だからこそ、残る形を多くし、逃げ道を塞ぐ。
「王家の印。各家の連署。証人の列。写しは三通――宰相府、王家、貴族会で保管する」
セバスチャンが一礼し、用意した写しを滑らせた。
王太子が震える手で羽ペンを取る。
署名。押印。最後に、蝋が冷えて固まる。
ぱちり、と火がはぜた音がしただけ。
だが、その瞬間、会議室の空気は確かに変わった。
王太子は“実の力”を手放し、贅を保った。
貴族は“王の気まぐれ”から解放され、勘定で国を動かす道を得た。
そして民は――明日の粥を得る。
◇
会議の後。
私は城の回廊へ出た。窓から見える王都の広場には、白い湯気が立っている。
大鍋。器の列。炊き出しは止まっていない。
「……終わりましたね、旦那様」
セバスチャンが温い茶を差し出した。
私は受け取り、喉を潤す。苦みが、現実を引き締めた。
「終わったのは、引き渡しの儀だけだ。明日からが本番だな」
「御意。まずは穀倉、次に街道、次に徴税の改め……順に参りましょう」
そこへルーカスが来る。腕の包帯を揺らしながら、りんごをかじっていた。
「旦那。宰相ってやつは忙しいんだろ? 給金、減らすなよ」
「働きに見合う分は払う。むしろ、働かせる」
「そりゃ怖ぇな」
笑い声が落ちた、その横から。
「アルバート様! 鍋のそば、子どもが倒れそうで……!」
エリスが駆けてきた。新しい神官服は飾り気が少ないが、動きやすそうだ。
彼女の後ろで、母親が器を抱え、必死に子を支えている。
「案内してくれ」
広場へ下りると、冷えた空気の中に粥の匂いが立っていた。
エリスが膝をつき、子の額に手を当て、手際よく湯と塩を口へ運ばせる。
「大丈夫。少しずつでいいよ」
優しい声に、母親の肩がほどける。
その様子を見て、私は小さく息を吐いた。
剣を折っただけでは国は救えない。だが――粥は、確かに人を救う。
「旦那様」
セバスチャンが近づき、封のされた書状を差し出した。
「北より、火急の便です。今夜のうちに、目を通すべきかと」
私は封に指を置き、広場の湯気をもう一度見た。
「……今夜は、鍋を止めるな」
「御意」
「書状は後で読む。腹が満ちてからだ」
子が目を開き、母親が泣き笑いで礼を言う。
その声に、周囲の空気が少しだけ温まった。
無血の政変は、書状一枚で終わらない。
だが、今夜の一杯があるなら――この国は、まだ立て直せる。




