第32話 :勇者の価値。金貨よりも重い「信頼」の剣。
騎士団を撃退した夜。
領主館は、戦勝の熱気と、負傷者のうめき声が混じり合う独特の空気に包まれていた。
「……ひどい傷だ」
治療室で、私は寝台に横たわるルーカスを見下ろしていた。
左肩から腕にかけて、包帯が何重にも巻かれている。
昼間の戦いで、近衛隊長の一撃を受け止めた時の傷だ。
「へっ、大げさなんだよ。エリスの治癒魔法があれば、明日には剣が振れる」
「無茶を言うな。魔力が枯れるまで働かされた彼女も、今は休ませている」
私は溜息をつき、脇机の水差しを手に取った。
「すまなかったな。……私のために」
「だから、違うって言ってるだろ」
ルーカスは水をあおり、ニッと笑った。
「俺は俺の居場所を守っただけだ。……それに、まだ『借り』は返しきってねぇしな」
借り。
それは金のことではない。
冒険者崩れだった彼を拾い、人間としての尊厳を取り戻させたことへの恩義だ。
契約書が紙のままになっても、その借りだけは彼の胸に残っている。
「……物好きな男だ」
私は苦笑し、部屋を出ようとした。
その時だ。
背筋に、氷を当てられたような悪寒が走った。
殺気ではない。
もっと静かで、冷たい――「死」の気配。
「――旦那ッ!!」
ルーカスの叫びと同時に、窓硝子が術で音もなく溶けた。
闇の中から黒い影が躍り込む。
仮面の小柄な影。手には、月明かりを吸い込むような漆黒の短剣。
(……暗殺者!)
王の手の者か。
騎士団が敗れた場合の“次の手”だ。
刃が、私の心臓へ一直線に伸びる。
避けられない――そう思った瞬間。
ガギィィィン!!
火花が散り、刃が止まった。
ルーカスだ。
寝台から跳ね起き、片手で鉄塊剣を振るって短剣を受け止めていた。
「チッ……手負いの分際で」
仮面の男が舌打ちする。
声は無機質で冷たい。
「勇者ルーカス。貴様、王家の“影”を敵に回す意味が分かっているのか?」
「知るかよ。……てめぇこそ、俺の雇い主に何してやがる」
ルーカスの額に脂汗が滲む。
片手一本では力が入りきらない。傷口から血が滲み、包帯を赤く染めていく。
「愚かな。契約庁は沈黙した。金も保証されない。……なぜ戦う? その男はただの財布だろう?」
暗殺者が嘲笑う。
損得だけで動くなら、私を守る理由などない。
だが――
「財布、ねぇ……」
ルーカスは苦しげに笑い、一歩踏み込んだ。
「確かに最初はそうだったかもな。……だが、今は違う」
ギリギリと、鉄塊剣が短剣を押し返していく。
「この人はな……俺を『道具』じゃなく『人間』として扱ってくれた。飯を食わせ、話を聞き、背中を預けてくれた!」
ルーカスの瞳に、黄金の闘気が宿る。
それは鎖で縛られた力じゃない。信じて立つ者の光だ。
「金貨なんざどうでもいい! 俺が剣を振るのは――この人を信じてるからだぁぁッ!!」
ドォォォン!!
片手とは思えない豪腕の一撃。
暗殺者の短剣ごと、その体を吹き飛ばした。
「がはっ……!? 馬鹿な、片手で……!」
壁に叩きつけられた暗殺者が血を吐き、よろめく。
ルーカスは剣先を向け、低く言った。
「……失せろ。次に来たら、その仮面ごと叩き割る」
暗殺者は私とルーカスを睨み、窓の闇へと消えた。
「……ルーカス!」
私が駆け寄ると、彼は剣を落とし、その場に膝をついた。
傷口が開いたのだ。
だが、その顔は晴れやかだった。
「へへ……どうよ、旦那。……これで特別手当、確定だな?」
「……ああ。大盤振る舞いしてやる」
騒ぎを聞きつけて、エリスとセバスチャン、警備隊員たちが駆け込んできた。
「ルーカス様!」
エリスが血の気を失いながら駆け寄る。
そして、彼女は唇を噛みしめた。
――契約庁が沈黙した今、教会の“専有”も鎖で縛れない。
ならば、彼女は救える。
「……『癒やしあれ』」
白い光が、ルーカスの傷口を包んだ。
血が止まり、乱れていた呼吸が少しずつ整っていく。
「……助かった。ありがとな」
「いいえ……! こちらこそ……!」
エリスの目に、涙が滲む。
それは恐怖ではなく、確かな安堵だった。
警備隊員たちも見ていた。
傷ついた勇者が、損得抜きで雇い主を守り抜いたことを。
「俺たちも続くぞ! ここには守る価値がある!」
「アインホルン領を踏みにじらせるな!」
声が重なり、熱が広がる。
王は法を捨てた。
だが、こちらには信義がある。
私は夜明け前の窓の外を見て、静かに言った。
「……行くぞ、セバスチャン」
「はい、旦那様」
「これ以上、あの王を玉座に座らせておくわけにはいかない。……だがまずは、この領を守り切る」
私は眠りに落ちかけたルーカスの肩に、そっと布を掛けた。
「借りは返しきっていない、だったな」
「……へへ。まだ、残ってる……」
その声に、私は小さく笑う。
金貨より重い剣がある。
信頼という名の剣だ。
王都は、燃え上がる。




