第30話 :法が死んだ夜。申立てが届かず、世界は「無法の世」へ。
アインホルン領、領主館の正門前。
早朝の静けさは、鉄靴の音と馬のいななきに踏み荒らされた。
「開門! 開門せよ!」
近衛隊長の怒号が響く。
門の向こうには、数百の王家騎士団。抜身の剣、むき出しの殺気。
もはや「視察」も「徴収」も名乗らない。ただの襲撃だ。
私はセバスチャンとルーカスを従え、門の内側に立った。
「……何の用かな、近衛隊長殿」
努めて冷静に、声を張る。
「当家への立ち入りには事前の通達が必要なはずだ。貴殿らの行為は、領地の取り決めにも反する」
「取り決めだと?」
隊長が鼻で笑った。
その目は、獲物を見る猛獣のそれだ。
「アインホルン男爵。貴様は国家への反逆者だ。反逆者に情けは要らん。……総員、突入せよ! 抵抗する者は斬り捨てて構わん!」
「なっ……!」
問答無用。
騎士たちが門に手をかける。
私は懐から、一枚の羊皮紙を取り出した。
領内の治安維持のために結んだ「防衛の契約」――不法侵入者を拘束する条文を含む契約書の写しだ。
「セバスチャン! 申立てを!」
「はっ!」
セバスチャンが羊皮紙を広げ、魔力を込める。
「契約庁へ申立てる! 侵入者の条文違反を照合し、執行を――!」
詠唱と共に、魔力が放たれる。
だが――
シン……。
何も起きない。
門をこじ開け、敷地に踏み込んだ騎士たちの足元に、いつもの赤い鎖は現れなかった。
「ば、馬鹿な……!」
セバスチャンが愕然とする。
申立ては届かない。照合もされない。執行も動かない。
契約庁の塔が落ちた――その意味が、血肉の現実として突きつけられた。
「ギャハハハ! 見ろ! 鎖が出ねぇぞ!」
先頭の騎士が狂喜した。
彼らもまた、かつては契約庁の鎖を恐れていた。だが恐れが消えた今、剥き出しの欲が顔を出す。
「やっぱり噂は本当だったんだ!」
「奪え! この館には金貨が唸るほどあるぞ!」
「人も財も根こそぎだ! 聖女も攫え!」
雪崩のように騎士たちが押し寄せてくる。
高潔な騎士の面影はない。ただの野盗だ。
法が沈黙した世界で、人はここまで醜くなれるのか。
「お、おやめください!」
門番の老兵が止めに入ろうとし――騎士の剣で、無造作に斬り伏せられた。
「ぐあっ……!」
「邪魔だ、老いぼれが!」
鮮血が舞う。
私の目の前で、領民の血が流された。
「……貴様ッ!!」
頭の中で、何かが切れる音がした。
法だの契約だのは、もう前に出せない。
だが――守るべきものまで消えたわけじゃない。
「ルーカス!!」
私が叫ぶより早く、横にいた影が弾丸のように飛び出していた。
「オラァァァッ!!」
轟音。
老兵を斬った騎士が、鎧ごと吹き飛び、後続の数人を巻き込んで地面を転がった。
砂煙の中に立つのは、巨大な鉄塊剣を担いだ元・勇者。
ルーカスだ。
「……てめぇら」
ルーカスの瞳が、怒りで燃えている。
倒れた老兵を背に庇い、数百の騎士団を睨みつけた。
「俺の働き口で、何してくれてんだ?」
「ゆ、勇者ルーカス……!」
「ひるむな! 所詮は借金まみれの落ちぶれ勇者だ! それに、こいつとの契約も、いまやただの紙だろうが!」
隊長が叫ぶ。
そうだ。強制の鎖は、もうどこにもない。
ルーカスには、命令に従う義務などない。
「ルーカス! 我々に付け! 借りなど踏み倒させてやる! 男爵を売れ!」
隊長が甘言を弄する。
だが、ルーカスは鼻で笑った。
「あぁ? 紙がどうした」
彼は剣を構え、言い放つ。
「俺がここにいるのは紙のためじゃねぇ。……この旦那が、俺に美味い飯と居場所をくれたからだ!」
ドォォォン!!
ルーカスが地面を踏み砕く。
その体から、黄金色の闘気が立ち上った。
鎖に縛られた力じゃない。自分の意思で立つ、勇者の力だ。
「旦那! 下がってな! ……手当、弾んでもらうぜ!」
「……ああ。褒賞金を付けてやる!」
私は叫び返した。
エリスが駆け寄り、老兵の傷口に布を当てた。
震える指で、血を押さえる。
「大丈夫です……! 息をして、目を開けて……!」
老兵がかすかに、息を吐く。
それだけで、胸の奥が熱くなる。
守るべきものが、ここにある。
「総員、配置につけ!」
私は門内の警備隊へ命じた。
「侵入者を押し返せ! ――アインホルン領を、踏みにじらせるな!!」
法なき世界での、最初の戦が始まった。
私は唇を噛み、静かに笑う。
「……野蛮ですね。ならばこちらも、野蛮に生き残る」




