第29話 :【危機】王の切り札。「契約庁の塔」の破壊。
深夜。
アインホルン領の執務室で、私は書類の山と格闘していた。
王都から流れてくる難民の受け入れ手続きだ。
「……ふむ。予想以上に多いな」
「はい。ですが、働き手としては申し分ありません」
セバスチャンが新しい黒茶を淹れてくれる。
平和な夜だ。
窓の外では、夜警に立つルーカスとエリスが、焚き火を囲んで何か話しているのが見える。
だが。
その平穏は、唐突な閃光によって破られた。
カッ!!
王都の方角。地平線の向こうが、真昼のように白く染まった。
数秒後。
ズズズズズ……ンッ!!
腹に響くような重低音と共に、執務室の窓ガラスがビリビリと震えた。
地震ではない。爆発だ。それも、尋常な規模ではない。
「な、何事ですか!?」
「旦那様! 今の光は!」
ルーカスとエリスが飛び込んでくる。
私は窓に駆け寄り、目を凝らした。
王都の中心から、赤黒い煙の柱が立ち上っている。
その位置は――。
「……まさか」
嫌な予感が、確信に変わる。
私は懐から、一枚の契約書を取り出した。
隣領のボークス男爵との間に結んだ「不可侵条約」の写しだ。
「セバスチャン。……『申立て』を行う」
「は? しかし、今は違反など……」
「いいからやれ! 契約の効力を確認するんだ!」
私の剣幕に押され、セバスチャンが契約書に手をかざす。
通常なら、ここで契約庁への照会魔術が発動し、羊皮紙が青白く発光するはずだ。
「……契約庁へ申立てる。条文の照合を願う」
セバスチャンが詠唱する。
だが。
「……?」
光らない。
羊皮紙はただの紙切れのまま、何の魔力反応も示さない。
「な、なぜだ? 魔力は通っているのに……『返答』がない?」
セバスチャンが焦ったように魔力を込める。
しかし、虚空に浮かぶはずの天秤の紋章すら現れない。
まるで、呼んだ相手が初めからいなかったかのように。
あるいは――声が届く先そのものが消え失せたかのように。
「……やはりか」
私は窓枠を強く握りしめた。
「契約庁が……消えた」
「え……?」
エリスが息を呑む。
「消えたって……あの塔がですか? だって、あそこには数千年の契約の原本が……」
「すべて灰になったということだ」
私は震える声で告げた。
王はやったのだ。
自らの権力を縛る鎖を断ち切るために、世界の記憶装置そのものを爆破したのだ。
◇
翌朝。
早馬がもたらした情報は、絶望的なものだった。
『王都の契約庁、崩壊。生存者なし』
『地下からの大規模な爆発により、保管されていた契約原本はすべて消失』
報告を聞いた執務室は、通夜のように静まり返っていた。
「……そんな。じゃあ、今までの契約はどうなるんだよ?」
ルーカスが呆然と呟く。
「俺の借金返済の契約も、隣領との約束も……全部無効ってことか?」
「……形式上はな」
私は重く頷いた。
「契約の強制力は、『契約庁にある原本』との照合によって発動する。その原本が消え、照合する機関も消えた今……この世界にある全ての契約書は、ただの紙屑だ」
それはつまり。
「約束を破っても、罰則が発動しない」世界になったことを意味する。
「無法の世だ。……力がすべての、野蛮な時代に戻ってしまった」
私が言うと、エリスが青ざめた顔で震えだした。
彼女は知っているのだ。契約という守りがなければ、弱者がどうなるかを。
「あ……ああ……」
「落ち着け、エリス」
私は立ち上がり、彼女の震える肩に手を置いた。
「法は死んだ。……だが、私が死んだわけではない」
「え……?」
「紙切れの効力が消えても、私が君たちと交わした約束まで消えるわけではないだろう?」
私はルーカスとセバスチャン、そしてエリスを順に見渡した。
「私は商人だ。一度交わした契約は、世界の理が壊れようとも守り抜く。……君たちの生活も、安全も、このアインホルンが全財産を懸けて保証する」
私の言葉に、エリスの瞳に少しだけ光が戻る。
「……雇い主様……」
「へッ。……違げぇねぇ」
ルーカスがニヤリと笑い、剣の柄を叩いた。
「紙切れなんざ関係ねぇ。俺の雇い主はあんただけだ。……誰が来ようと、俺が追い返してやるよ」
「頼りにしているぞ、元・勇者」
その時。
セバスチャンが鋭い視線を窓の外に向けた。
「旦那様。……お客様のようです」
「……早かったな」
館の外。
正門の前に、土煙を上げて迫る黒い影の群れが見えた。
王家の紋章を掲げた、完全武装の騎士団。
そしてその先頭には、かつて私を恫喝した近衛隊長の姿があった。
「アインホルン男爵! 反逆の咎により、貴様の身柄と全財産を拘束する!」
もはや「法」の手続きなどない。
あるのは剥き出しの「暴力」だけだ。
法なき世界での初戦。
契約の鎖が発動しない中、私とルーカスはどう戦うのか。
正念場だ。




