第28話 :物価の暴騰。パン一つ買うのに手押し車の札束が必要な街。
王都の下町。
一軒のパン屋の前に、早朝から怒号が飛び交っていた。
「おい! パン一個で札束三つだなんて、ふざけてるのか!」
「昨日までは札一枚で買えただろうが!」
客たちが詰め寄る。
だが店主も、血走った目で叫び返した。
「俺だって嫌だよ! だがな、小麦問屋が『札なんか受け取らねぇ』って言うんだ! 小麦が欲しけりゃ金貨を出せって!」
「そんな……! 俺たちの給金は札払いなんだぞ!」
一人の母親が、その場にへたり込んだ。
手には、手押し車いっぱいの王立銀行券。
かつてなら家が買える額面だ。だが今は、黒パン一つにすら届かない。
「もういい! 金貨だ! 金貨を持ってる奴だけ並べ!」
「そ、そんな……」
店主が扉を閉めようとした瞬間、空腹に耐えかねた男が石を投げた。
ガシャン! 窓が割れる。
「奪え! パンをよこせ!」
「やめろ! 盗みだ!」
雪崩れ込む群衆。悲鳴と怒号。
王都のあちこちで、同じような光景が起き始めていた。
金に見えた札が、ただの紙に戻る。
その瞬間から、値は狂い、腹は減り、理屈は吹き飛ぶ。
◇
一方、アインホルン領。
中央広場には、整然とした列ができていた。
「次の方。……はい、温かいスープと黒パンです」
「ありがとうございます、エリス様……!」
白い前掛け姿のエリスが、領民一人一人に湯気の立つ食事を手渡している。
隣ではルーカスたちが、小麦粉や塩の袋を配っていた。
「慌てなくていいぞ! 備えは十分にある!」
「旦那様が先に押さえておいた分だ! 安心しろ!」
列の端で、幼い娘を抱えた母親が、何度も頭を下げていた。
娘はスープを一口飲み、ほんの少しだけ頬に色が戻る。
エリスが、そっと布を掛けてやる。
ここでは金貨も札も要らない。
領主館の印が押された「領民札」を見せれば、食と塩が渡る。
「……王都とは雲泥の差だな」
領主館の露台から、私はその光景を見下ろしていた。
手には、王都の手の者から届いた報告。
そこには、パン屋の襲撃や、札を燃やす煙の話が並んでいる。
「旦那様。王都から逃げてくる者が急増しております」
セバスチャンが報告した。
「中には、王都の衛兵や下級騎士の姿も」
「だろうな。紙で給金を払われて、命を張る馬鹿はいない」
私は黒茶を一口含む。
国を支えるはずの騎士団も、腹と金がなければ動かない。
王権の牙が鈍っている。
「来る者は受け入れろ。……ただし、雇い入れの契約を結ぶことが条件だ」
「御意。……畑と道の人手が欲しかったところです」
人が増えれば、領は強くなる。
王都が痩せれば痩せるほど、こちらは太る。
「……しかし、王はどう動くでしょうか」
「降るわけがない。あの目は、自分の非を認める目じゃない」
私は断言し、遠く王都の方角を見た。
その中心にそびえる白亜の塔――契約庁の塔。
(……まさか)
背筋に冷たいものが走る。
金も人も失った王に残された、最後の一手。
それは勝負台そのものを壊すことだ。
「……セバスチャン。防備を固めろ」
私は立ち上がった。
「王都の塔の周りに、手の者を放て。……嫌な予感がする」
◇
その夜。王城。
薄暗い地下に、狂気を孕んだ笑い声が響いていた。
「くくく……札が紙に戻った? 兵が逃げた? ……構わん」
国王レグルスは、目の前に置かれた巨大な魔石に手を伸ばした。
赤黒く明滅する禁じられた爆裂の魔石。
城一つを吹き飛ばすほどの代物だ。
「余を縛る鎖……『契約』などという理屈。……すべて消してやる」
虚ろな目をした魔術師たちが控えている。
金では動かない。王家の呪で縛られた者たちだ。
「行け。あの忌々しい塔を、跡形もなく吹き飛ばせ」
「……御意」
魔術師たちは魔石を抱え、闇へ消えた。
◇
同じ夜。
アインホルン領の配給場では、最後の一杯が渡されていた。
「……あったかい」
小さな子が、スープの椀を両手で抱いて言った。
私はその声を聞き、露台の欄干を静かに握る。
守るものがある。
だからこそ――次に起きる“何か”を、見逃すわけにはいかない。
忌々しい塔に、闇が迫る。




