第19話 :聖女の引き抜き。「七日に二日の休みと、正当な対価を約束しよう」
深夜。王都の空には厚い雲が垂れ込め、月明かりを隠していた。
闇に紛れて動くには、あつらえ向きの夜だ。
「……おい旦那、本当にここから入るのか?」
大聖堂の裏手。石造りの壁を見上げながら、ルーカスが小声で囁く。
彼の背中には、黒い布で顔を隠した私が張り付いている。
いわゆる「おんぶ」の状態だ。情けないが、私には壁を登る腕力はない。
「文句を言うな。正面から堂々と面会を求めても、門前払いされるだけだ。彼女は不当に監禁されているのだからな」
「へいへい。……しっかり捕まってろよ!」
ルーカスが地面を蹴る。
風を切る音と共に、体がふわりと浮き上がった。
さすがは元・勇者。数メートルの石壁を音もなく飛び越え、中庭に着地する。
警備の神官たちは、頭上を影が通り過ぎたことにすら気づいていない。
「……三階、北側の角部屋だ」
事前に「手の者」に調べさせた情報を伝える。
そこは、聖女エリスが押し込められている屋根裏部屋だ。
◇
窓の鍵をルーカスが短剣でこじ開け、音もなく侵入する。
部屋の中は、驚くほど殺風景だった。
冷たい石の床、粗末な木のベッド、そして小さな机だけ。
机の上には、書きかけの聖典の写しと、冷めきったスープが置かれている。
「……誰?」
ベッドの隅で膝を抱えていた少女が、怯えた声で顔を上げた。
聖女エリスだ。
やつれた頬、光を失った瞳。かつて「聖女」として崇められていた威厳は見る影もない。
「静かに。……助けに来た」
私がフードを脱ぐと、エリスの目が大きく見開かれた。
「アインホルン……男爵?」
「手紙をくれただろう。『助けて』と。……だから迎えに来た」
私はゆっくりと近づき、彼女の前に膝をついた。
「嘘……どうして……私は敵なのに……」
「敵ではない。君は、不当な契約に縛られた『被害者』だ」
私は懐から、一枚の羊皮紙を取り出した。
セバスチャンが徹夜で作成した、最高級の羊皮紙。
そこに記されているのは、アインホルン領における「雇い入れ契約書」だ。
「エリス殿。君に新しい契約を提示する」
私は羊皮紙を彼女の膝の上に広げた。
「アインホルン領に来て、私のために働いてほしい。……ただし、条件がある」
エリスが恐る恐る羊皮紙に目を落とす。
そこには、彼女が想像もしなかった文言が並んでいた。
『一、七日のうち、二日は必ず休息をとること』
『二、一日の労働は「鐘八つ分」までとし、それを超える場合は割り増しの給金を支払うこと』
『三、食事は一日三食、温かいものを用意する』
『四、清潔で柔らかい寝床を保証する』
「……え?」
エリスが呆然と呟く。
「な、何ですか、これ……? 休み……? 温かい食事……?」
「当たり前のことだ。人は、休息なしには良い仕事ができない」
私は淡々と告げた。
教会は彼女を「奇跡を起こす道具」として使い潰している。
だが、私の考えは違う。彼女は優秀な「治療の担い手」だ。最高の働きをさせるためには、万全の備えが必要不可欠だ。
「それに、これを見たまえ」
私は契約書の最後、報酬欄を指差した。
『月給:金貨十枚。および、働きに応じた「特別報奨」を支給する』
「き、金貨十枚……!?」
エリスの声が裏返った。
無理もない。平民が一年かけて稼ぐ額だ。教会の薄給とは雲泥の差だろう。
「買い被らないでください……! 私は、そんな価値のある人間じゃありません……!」
エリスは首を激しく振った。
「私は孤児で、教会に拾われて……ただ『聖女』という役割を与えられただけの、空っぽな人形です。……メディチ様にも言われました。『お前の代わりなどいくらでもいる』って……」
彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
長年の搾取によって植え付けられた、深い自己否定。
これを解かない限り、彼女は本当の意味で自由にはなれない。
「……ふん。メディチの目は節穴だな」
私は手巾を取り出し、彼女の涙を拭った。
「代わりがいる? 馬鹿を言うな。あの地下室で、何百人もの患者を一人で治し続け、それでも『人々を救いたい』と願った。……その高潔な魂の代わりが、どこにいると言うんだ?」
「……っ!」
「私は『聖女』という肩書きを買いに来たのではない。……エリス、君という『人間』を必要としているんだ」
私はペンを差し出した。
「ここには神もいないし、奇跡もない。あるのは、君の働きを認め、正当に報いる『契約』だけだ。……どうだ? 君自身の意思で選んでくれ」
エリスは濡れた瞳で私を見つめ、それからルーカスを見た。
ルーカスは照れくさそうに鼻をこすり、親指を立てて見せる。
「悪くねぇぞ、アインホルン領は。……飯は美味いし、この旦那は約束だけは絶対に守る」
その言葉が、最後の一押しになったようだ。
エリスの震える手が、ゆっくりとペンを受け取る。
「……私、行きます。ここにいたら、壊れてしまうから」
彼女は契約書の署名欄に、しっかりとした筆致で自分の名を記した。
そして、拇印を押す。
――契約成立。
「よく決断した。ようこそ、アインホルン商会へ」
私は彼女の手を力強く握り返した。
その時だった。
廊下の向こうから、慌ただしい足音が聞こえてきた。
「おい、部屋から話し声がしたぞ!」
「確認しろ!」
見つかったか。
だが、もう遅い。最大の宝は頂いた。
「行くぞ、ルーカス! 脱出するぞ!」
「へいよ! しっかり捕まってな、お姫様!」
ルーカスがエリスを軽々と抱え上げる。
扉が蹴破られると同時に、私たちは窓から夜の闇へと躍り出た。
「ああっ!? 聖女様が!」
「賊だ! 追えぇぇ!!」
背後で神官たちの怒号が響く。
夜風の中で、エリスが私の胸にしがみつきながら、小さな声で言った。
「……ありがとうございます、雇い主様……」
雇い主様、か。
悪くない響きだ。
「礼を言うのはまだ早い。……領に着いたら、まずはゆっくり休め。美味しいものを食べて、泥のように眠るんだ」
私は彼女の頭をポンと撫でた。
「その上で、君の言葉で真実を示してくれ。……あの腐った組織を裁くためにな」
聖女の引き抜き、完了。
これより反撃の裁きの場が開幕する。
私は腕の中の新たな部下と共に、王都の闇を駆け抜けた。




